クラックビー玉みたいな私たち【青春、恋愛】

 廊下の窓を開けて、グラウンドを眺める。馬鹿みたいに青い空と、残暑の中に混じる微かな秋の気配。湿った空気と、サッカー部員の声。放課後の学校は、間延びしていて良い具合に退屈だ。私はいつも家に帰りそびれて、放課後の、学校と家の間みたいな時間に、意気地なく留まっている。これも一種の、モラトリアムというやつなのかな。


「真央、何たそがれてんの?」


 千秋がたらたらと歩いて近寄ってくる。


「柿田くんは?」

「もうすぐ来るよ」

「そっか」


 千秋は、高校に入ってすぐから一番仲が良い友達。ずっと片想いをしていた柿田くんと付き合い始めて、前までは私と一緒に帰っていたけれど、今は柿田くんと一緒に帰っている。それは寂しいことじゃなくて、嬉しいことなんだ、たぶん。


 千秋は私と並んで窓に腕をもたれさせ、外を眺める。


「昨日ね、洋祐くんち、行ったの」


 何でもないみたいに言った。なんだか、悪いことをしたみたいな気持ちがしていたから、あえて何てことないみたいに、言った。


「え?」

「あ、行ったって、家のまわりを見に行ったって、だけね」

「あ、うん」


 洋祐くん。私が、片想いをしている男子。体育祭の応援団長をやったり、文化祭の後夜祭でバンドをやったり、目立つしかっこいい。ちょっと目つきが鋭くて、そこがまたいいと思っている。


「洋祐くんちね、すっごい古いアパートだった」


 今時珍しいトタン屋根の古い長屋だった。


「うん」


「学校で見るイメージと、全然違った」


 勝手に、きれいな一戸建てを想像していた。白い外壁、花壇には季節の花、木製の表札。


「うん」


「玄関の前に汚れた三輪車があってね、そういえば年の離れた弟がいるって聞いたなって思い出して」


「うん」


「ストーカーみたいだよね、私」


 自分でも気持ち悪いと思った。


「うーん、見に行くくらい、いいんじゃない」


 グラウンドを駆けるサッカー部員の掛け声が聞こえてくる。静かな廊下。賑やかなグラウンド。


「部活のあと、いっつもすごい急いで帰るから何かと思ってたら、バイトしてるんだって」


「うん」


「なんか……」


「うん」


「余計、好きになった」


「──そっか」


 私は窓の枠にもたれている腕に、顔を埋める。どうしたらいいのだろう。こういう、自分ではどうしようもない感情というのは。静かで、凪いだ海のように見えて、突然荒れる嵐のように、コントロールできない情緒。これは一体、いつになったら私の手に負えるのだろう。


 少しの沈黙が、ゆるゆると頭の上を過ぎていく。複数の人がいるとき突然うまれる一瞬の静寂は、天使が通るときだって、聞いたことがあった。今、私たちの上を、天使が通ったのかな。




「今日さ、真央に言おうと思ってたことあって」


 千秋が話し出す。


「どうしたの」


「なんかさ」


「うん」


「うちの親、離婚するっぽいんだよね」


「あ、そうなんだ」


「うん」


「なんか、大変なの?」


「うーん、まあまあ」


「そっか……大丈夫?」


「うん」


「名字、変わるの?」


「うん。変わる。だから、真央に先に言っておこうと思って」


「そっか」


「うん」


「何かできることあったら、言ってね」


「うん、ありがと」


 千秋は私の隣で、窓枠に腕を乗せて、グラウンドを眺めている。じっと、何かを探すみたいに、何かに耐えるみたいに、じっとして、グラウンドを眺めている。


 何かできること。それっていったい、何だろう。私たちは常に無力で、自分たちではどうしようもない力に流されて押しつぶされて、不自由な囲いの中で揉まれているだけ。家には家のルールがあって、親には親の事情があって、学校には学校の規則があって、それでも「若い」ということだけが称賛されて、輝きを強要される。私たちに、いったい何ができるというのだろう。こんなに狭い世界の中で。自分の感情すら、ままならないというのに。




「千秋」


 静かな廊下に、唐突な呼び声。振り返ると柿田くんがいた。


「帰ろう」


「あ、うん」


 千秋が、少し表情を柔くして、ほのかに頬を染める。


「真央、じゃあね」


「うん。またね」


「うん」


「何かあったらLINEして」


「ありがと」


 私に何かできることなんてないのに。それでも、きっとお互い、何かあったら力になってくれるはずって信じていられることが、大事なんだと思う。本当に役になんか、立てないんだよ。だって、こんなに息苦しい囲いの中で、みんないつだってそばにいる誰かを求めている。


 廊下を歩いて去っていく千秋と柿田くんを見送りながら、なんか、クラックビー玉みたいだなって思った。私たちって、クラックビー玉みたい。外見だけ、つるつるで滑らかで、中身は、粉々。フライパンでガチガチに熱されて、一気に冷水で冷やされて、中身だけ粉々になって、きれいだと称賛されるクラックビー玉。私たちって、みんな、あれみたい。


 いつか大人になるときがきて、自由と責任を手に入れて、今捕らわれている囲いから出られるときが来たとしても、きっと今抱えているクラックビー玉は、失わない。ラムネの瓶に入ったビー玉みたいに、くびれの部分を通れないから、きっとずっと持ったまま吐き出せない。


 私は、きっとそんな大人になるんだろうな。たぶん千秋も。そう思いながら、私はまたゆるゆると意気地なく、モラトリアムの中で遠く高い空を眺めた。




【おわり】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る