花火【ヒューマン】

 うだるような昼間の暑さがいくぶんマシになる夜。換気のためにリビングの窓を開けると、子供のはしゃぐ声がした。カーテンを少し開けてのぞいてみると、お隣さんが家族で花火をやっている。子供の声の合間に、手持ち花火のシューシューという音が聞こえる。網戸を開けて少し顔を出すと、闇を突き刺すように勢いよく噴射する火花が見えた。白っぽく弾ける閃光。湿気をはらんだ夜気に乗った煙のにおいがツンと鼻をついて、私はあの夏を思い出す。楽しそうに家族と花火をしているお隣のあの子と同じくらいの年の頃、訪ねた母の故郷のこと。

 北海道のその町には何もなかった。商店らしきものが一軒ある程度の、さびれた漁師町。名所といえば、その海中に大蛸がいる、という伝説のある三本杉岩だけ。海からにょっきりと突き出た三本の奇岩は確かに異様で、伝説のひとつでも残るのは納得だった。そのほかは何もなくて、自然だけが豊かな、静かな町だ。

 あの夏、母と二人で母の実家を訪れていたのは、どうしてだったか。あの頃は、母から常に少し寂しい空気を感じていた。言葉にしない何かが母の体中に満ちていて、溢れる寸前だったのだと思う。もしくは体中がからっぽの、がらんどうだったのかもしれない。子供ながらにも感じたその、隠し切れない爪の先ほどの寂しさを、母は実家で癒そうとしたのだろう。子供だった私に何ができるわけではない。近所のおじさんが獲ってきてくれたイカが最高に美味しい、と喜んで見せると、母が少し笑ってくれたから、私は子供らしく振舞うことを買って出ていた気がする。少しでも母が笑ってくれれば、と。

 夜になって、母と祖母と三人で花火をやった。祖母の家の前の道路は、都会の道路と違って車は全然通らないし、花火を近所迷惑だなんて文句を言う近隣住民もいない。そもそもお隣は空き家だし、そのお隣の家とはとても離れている。道路は、かろうじてアスファルト舗装はしてあったが、か細い街灯のほかに灯りはなく、静かな町は夜になっていちだんと静けさを増していた。祖母がろうそくに火をつけて、たらりと少し地面にたらし、溶けたろうの上にろうそくを立てる。私は一本ずつ花火に火をつけて、突然に暴力的に噴射される火花を見つめてはしゃいだ。

「きれいね」

 母が少し笑った。母に喜んでもらいたくて、私は本当の気持ちの何倍も楽しいふうに見せていた。花火の煙は変なにおいで、目がチカチカするほど眩しくて、きれいというより少し怖かったけれど、両手に花火を二本持って振り回してみせたりして、めいっぱいはしゃいで見せた。母と祖母の微笑を見て安心した気になっていた。それよりほかに、やり方を知らなかった。煙はいつまでも私たちのまわりに残っていた。

 最後に線香花火をした。母と祖母も一緒になって、三人で並んで線香花火を持った。風のない涼しい夜。それまでの暴力的な閃光とはうってかわって、線香花火は儚げだった。じゅわじゅわと真ん中に黒い球をつくりながら、ぱちぱちという小さな音をたてて、繊細に爆ぜていく火花。三人とも自分の花火の先端に集中した。

「線香花火のね、この真ん中の球が最後まで落ちなければ、願いが叶うんだよ」

 祖母が小さな声で言った。

「そうなの?」

 顔をあげた私の線香花火はぐらっと揺れ、真ん中の球はジっと音をたてて落ちた。

「あ、落ちちゃった」

「そーっと、指先でつまむように持っているといいんだよ。がっしりつかんで、離すもんか! ってかたくなになるのは良くないんだ。そっと、大切に、やわらかくね」

 祖母の言っていることはうまく理解できなかった。でも、乱暴にしてはいけないということは、何となくわかった。母は無言で自分の線香花火の先端を見つめていた。まるで、その球を落としたら取返しがつかないことになるとでもいうような、真剣な顔をしていた。

 私は二本目に火をつけて、祖母の言ったように、なるべくそっと、優しく指先でつまんだ。落ちるな、落ちるな、そう思うほどに私の線香花火は儚い火花を散らせながらゆらゆらと揺れ、またジっと音をたてて落ちた。

「あーむずかしい」

 子供らしく振舞う気持ちよりも、本当に難しいな、という気持ちが勝っていた。やっぱり少し怖かったけれど派手な花火のほうが楽しかったかもしれない。そう思いながら球の落ちた地面を見つめていると

「できた……」

 隣で、母がつぶやいた。

「あ! お母さんすごい!」

 母の線香花火は最後まで球が落ちず、先端は黒くかたまり、静かに冷えていった。

「できたね」

 祖母の声は今までにないくらい穏やかだった。

「うん。うまくできた」

 母の返事は、まるで子供みたいに嬉しそうだった。


 北海道から東京にもどって、すぐに両親は離婚した。ほとんど家にいなかった父がいなくなっても、私は別段寂しくなかったし、生活に変化はなかった。母と狭いアパートに引っ越したあと、母は以前と比べて明るくなったように見えた。あの夏、故郷に帰って、母は良かったのだと思う。

 もうすぐあの頃の母の年になる。私は結婚もしていないし、子供もいないけれど、それでもあの夏の母の気持ちが、今ならほんの少しだけわかるような気がする。煙のにおいと遠い思い出を運んできた風をうけ、私はそっとリビングの窓を閉めた。




【おわり】

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