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その場にいた全員の視線が私に集中するのを肌で感じた。けれど私は、ただ有賀信児を見つめる。彼もまた、挑みかかるように私を見返した。この子はきっと、お母さんが大好きな、賢い子だ。でなければ、二十年後のことまで考えは巡らせない。絶望できない。賢い子。だからこそ。


「分からないのなら待ちなよ」


だからこそ、交渉ができる。


え、とあからさまに意表を突かれたと言いたげな声がした。そちらを見て確かめるまでもなくウェンズの声だ。有賀信児はすぐにその目尻を釣り上げた。


この程度の反論はきっともう飽きるほど反芻されていたのだろう。そうやって絵具を塗り込めるように繰り返したからこそ、自分のためだけの結論として強固になった。それが分かっていたから、私はわざと鷹揚に腕を組む。


「有賀のぞみさんは子供が好きで、君はそんな母親に嫌われることを嫌だと言う。理屈は分かった。正直な話をするなら、私は普通にコールドスリープの前後で好きかどうかとかいうのが変わるとは思ってないんだけど」


私は背筋を伸ばして、薄く微笑んで、いかにも自信ありげに語る。今から私は水掛け論の相手を言いくるめなければならない。それらしいことを語って、騙らなければならない。


有賀信児は私の態度に戸惑うように視線を彷徨わせた。もちろん彼の味方はここにいない。だから仕方なく、また私に向かい合う。


「そんなこと、母さんじゃなきゃわかんねーよ」

「そうだね。だから本人に聞いてみようって言っている。単純でしょ?」

「オレが大人になってからわかっても遅い!」

「うん。そうだね。君が本心からそう思うなら、きっとそれが正解だ」


ややオーバーなくらい大きく頷いてみせれば、いよいよ状況が分からなくなってきたような有賀信児は不安げに眉を下げる。視界の端で、ウェンズが何かに気づいたように目を丸くした。そのまま口を開こうとして、止まる。睨んで彼の動きを止めさせたのは私だ。ごめんね。言葉にするつもりもない謝罪は噛み殺した。少し、怒っているんだ。


それに、きみの語る真実はこの男の子を救わない。


「でも有賀信児、健康な君はいつだって死を選ぶ自由がある。これは私の考えなのだけれど、ある程度未来が保障されているくせに、頑張れば普通に長生きできるくせに、まだ六歳なのに、もう生きて成長することを拒むなんて許せない」


私はまだ未来のある人間は、すべからく死を選ぶべきじゃないと信じる。


それは私の信条で、身勝手だとは知っているけれど、推し進めさせてもらう。そもそも、少なくともこの場には有賀信児がいなくなることを望む人間はいない。


私は正直、彼がウェンズの推理したように成長を拒否するために夜空を目指したのでも、私が考えたように現実から逃げるために飛び降りて死のうとしたのでも、どちらでも良かった。だって結果としては同じだから。妖精はいない。ネバーランドは存在しない。


「ねえ、君は選択をしなければならないんだ。君の父親が母親の希望よりも未来へ希望を託したように、君が決めなければならない。今すぐ空を飛んでネバーランドを目指すか、それとも二十年生きてみるか」


有賀さんが気色ばんだように私の方へ身を乗り出す。遅いよ。口を開きかけたところでウェンズがそれを手で制した。


今更彼のありあわせの言葉だけで有賀信児を説得できるのなら、こんな事態にはなっていない。私は煽るために、けれど静かに言葉を放つ。


「君が考えた結果、それでもなおピーターパンにならなきゃいけないと思うなら。少なくとも私だけは、君の決定を咎めない」


まだ未来のある人間は、すべからく死を選ぶべきじゃあない。


だからこそ、未来がないと、そう信じている人間を生に留めおく理由は存在しえない。


尊厳ある死を否定する権利を、自ら死を選ぶ自由を奪う権利を、私は持ち合わせていない。機械によって肺と心臓を動かすことを生きていると表現するのは、きっと本人以外の第三者だけだ。ならば、自らの意志のうちに死を選ぶことは最も人間的な行為と考えられるべきだ。私はそう信じる。


それでも。揺れる有賀信児の瞳を見据えた。


「それでも、死を自ら選ぶ自由は、人生の最後に一回しか使えない。決して取り消せない自由だ。意味のない言葉遊びだとしても尋ねるね。覚悟はある?」


有賀信児は恐る恐るというように、隣に座る自らの父親を仰いだ。彼は無言で首を振った。それから口を開く。開くけれど、そこから明瞭な声は漏れ出ない。


私は動きそうになる唇の端を噛み締める。かろうじで、いくつかの単語だけが聞き取れた。また、さんにんで、まだ、さんにんが、いい。それから、ひどくゆっくりとした速さで有賀さんは有賀信児を抱き締める。ためらいながらでも、確かに。


私は意識的に優しく、微笑む。そうして、小さな男の子に問い掛ける。


「ねえ、どっちが良い?」


その瞬間に、確かに有賀信児は父親の腕の中で微笑んだ。それから私を、星で満たした海の瞳でもって真正面から見据える。そこには光ばかりがあって、闇や淀みは見えない。夜が明けてなお、星は光を失わない。


「ピーターパンには、今は、ならなくて良い」

「そっか。それなら、そうしたら?」


私は顎を小さく引くように、頷いた。それから抱き締めあう親子に背を向けて立ち上がり、厨房へ向かう。


コーヒーをふたつ、ココアをひとつ。どれにもきらきらの、甘い砂糖を潜ませて。それを被っても空は飛べないけれど、疲れた体に染み渡って、思わず誰かを笑顔にすることくらいはできるから。

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