5
私たちは有賀信児を見る。ウェンズが私の隣に腰を下ろした。その後ろには、有賀さんがいた。有賀信児は父親に気づいて顔を歪める。けれどそれは溜息のように、緊張が緩んだ証拠のようにも見えた。
有賀さんは何か言いたげに口を開いて、目を逸らした我が子に結局は何も言わなかった。ただ黙って唇を結ぶ。黙って、ひとり分の間を開けて座った。
全員が席に着いたのを見て、ウェンズは長い瞬きをする。目を開けたとき、そこには探照灯のような光が宿っていた。正しくて、両刃の剣のような光。目にかかったクーベルチュールの髪を払って、彼は口を開く。
「それじゃあ、おしまいにしよう」
論理を、彼のたどり着いた結論を、言葉にしよう。
「妖精の鱗粉からネバーランドまで導いたプレィトの思考は間違っていないと思う。問題はその先、信児がネバーランドを目指す理由だ。俺は信児をプレィトよりは知っているから、お前がのぞみさんから逃げようとしたわけではないって思う。信じる」
有賀信児は僅かに俯く。ウェンズが有賀さんの方を見て小さく頷いた。有賀さんも頷き返して、持っていた黒い仕事用みたいな鞄から何かを取り出した。それを机の上に置く。あ。その声は私と有賀信児のものが重なったものだった。
「オレの、ピーターパン……」
「そう。全ての発端になった本だ。戦時下のイギリスに住む三兄弟が妖精の鱗粉をその身にふりかけ、ピーターパンに誘われて大人になることのない幻の島、ネバーランドまで飛んでいく」
ウェンズはそこで言葉を切った。そうして有賀信児の瞳をそっと覗き込む。自らの光で、その瞳の海の底に沈んだ本音を照らしあげるように。
「信児は、大人になりたくないんだろ?それは、子供好きな母親がコールドスリープ治療に入るから」
返答はなかった。だけどまるでその代用品のように有賀信児の両の瞳から一雫、一雫、と流星めいた涙が零れて落ちた。
私はたまらず口をはさむ。
「待ってウェンズ、コールドスリープってどういうこと?」
「コールドスリープ自体はもう有名な治療法として確立している。確か二〇三〇年代にはもう一般化されていただろ? もう三十年も前の話だ」
確かに紙の本が貴重品で時代遅れとされる現代では、コールドスリープによる治療、つまり体温を著しく低下させて人工的な冬眠状態での治療はなんら珍しいものではない。でもそのことが今回の騒動にどうやって関わっているんだ。
「家内の、病状は徐々に進行していて。彼女はずっとコールドスリープによる治療を拒否していたのですが、保存治療ではもう限界がきたんです」
ずっと黙っていた有賀さんが口を開いた。昨日は気づかなかったけれど、その顔には深く隈が刻まれている。頬もこけ、その全身から生気が失われているようだった。かさついた唇を、有賀さんは小刻みに震えさせながらそれでも釣り上げる。
「私が、決めました。私は、のぞみに死んでほしくないから。だから体調の悪化したあいつの抵抗を説き伏せて、信児には相談もせず、コールドスリープに入るように決めさせました」
そこまで私に言って、有賀さんは有賀信児へと両腕を伸ばして、途中で止めた。その手を拳に握り締めて、こうべを垂れる。有賀信児はそんな父親から目を逸らし、ついには背中を向けた。あまりにも分かりやすい、幼稚な理解の拒否。
「しんじ、なあ、しんじ。許してくれとは言わないよ。分かってほしいとも言わない。お前からお母さんを奪ったのは父さんだ。憎んでくれ。憎んでくれて、良い。でも、頼む。お願いだから、自分から死ぬような真似を、しないでくれよ。頼む。頼む。俺から、もう、家族を奪わないでくれ」
きっと有賀さんには有賀信児の丸まった背中しか見えていないのだろう。有賀信児には自身の父親がどんな顔しているのか見えないのだろう。
けれども私とウェンズには見えるのだ。ふたりが、同じ顔で涙を流しているのが、見えてしまうのだ。その泣きながら唇を噛み締めるところまでそっくりだということが、私とウェンズにだけ分かってしまう。
「信児。お前の求めていることは、何だ?」
ウェンズが口を開く。有賀信児が俯いた顔の中で目を見開いた。星のような光が深く暗い海底に広がっていく。ウェンズが息を吸い込む音がした。水中でもがくように、あがくように、海に溺れる子供の本音を救い上げるように、彼は言葉を紡いだ。
「逃げることじゃないんだろう。死ぬことでもない。お前は、コールドスリープから目覚めた母親に、成長した自分が嫌われることを恐れた。だからピーターパンに、ずっと子供の存在になろうとした」
ほんとうにこどもずきなんだねえ。
ああ、ほんとうに。
昨日、私とウェンズの交わした会話が脳裏に蘇る。保育士で、病院にひとりでいる子を構って、ボランティアで児童図書館の司書をして、ほんとうに、子供が好きなひと。それは周知の事実で、ならば実の子である有賀信児は殊更強く意識しただろう。
子供ではなくなった自分の息子は、今と同じように愛されるのだろうか?
有賀信児が弾かれるようにウェンズを仰ぐ。そうしてそのまま、顔中を歪めて泣きながら頷いた。それはおそらくこの場において、彼が初めて見せた肯定の意思だった。
「そんな、母さんが、のぞみがお前を愛さないわけない……!」
有賀さんが有賀信児へ手を伸ばす。けれど彼はその手を払い落とした。掌と掌がぶつかるばちん、という音が実際に空気を震わせるよりもずっと大きく聞こえた。有賀さんが表情を凍りつかせる。そのまま立ち上がり、私達全員を睨みつけた。
「わかんないじゃん。寝て、目を覚ました母さんが、オレをオレだって気づいてくれるかもわかんない! 信児って、そう呼んでくれるかもわかんない! オレが、オレじゃなくなってるかもしれない! 母さんが、大きくなったオレのことを好きだって言ってくれるか! 誰にも! わかんないのに!」
彼の声は反論を許さない。有賀さんは顔全体を歪めていた。けれどそのまま、何も言おうとしない。ウェンズは口を開こうとしてはきつく結ぶことを繰り返す。
二十年、と有賀信児は言った。ここにいる誰も、二十年後のことなんて保証できない。親子の絆というものがそんなことで切れるわけないと、そう口にすることは簡単だ。それに圧倒的に正しい振る舞いだ。病院に忍び込んだり、おとぎ話に縋って飛び降りようとしたりするよりは、よほど正しい。
でもそれは誠実な真実たりえないと、ウェンズは思っているのだろう。だから口が開けなない。誰よりも納得したいと、謎を自分の求める真実へと転化させたいと願うから。強引にでも説き伏せれば良いのに、誰にも答えの分からない問いかけには答えられない。
私はひとり、胸中で頷く。そうだ。きみが身をやつす探偵とは、そういうあり方だ。自分だけの論理で己の首を絞めて、結果としてなく子供に対して柔らかな言葉ひとつ吐けやしない。だから。
有賀信児は涙の散る顔を、それでも正面切ってこちらに向ける。
「好きだって言ってくれなきゃ、いやだ」
「その通りだ。愛してくれるかなんて分からない。きっと、有賀のぞみさんの目覚めるその時まで分からないよ」
だからもう探偵は黙って、私の我満を聞けば良い。
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