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次の日の一番初めの来店者は、有賀信児だった。
正確には来店者とは言えないのかもしれない。だって開店時間の前にはもう店の前に立っていたから。この子は忍者に向いているかもしれないと、冗談であれば良いことをちらと考える。
私はあの子をカフェテリアの店内に招き入れた。だって彼はひとりでここまで来たようだったから見張ったほうが良いと思えたし、おそらくウェンズと有賀さんもしばらくすればここに来るだろうし、何より泣きそうな顔で瞳を怒らせる子を放置できなかったからだ。
店内の二人掛け座席が向かい合ったボックス席の一角に有賀信児を座らせて、厨房からオレンジジュースをついできた。彼はずっと黙っていて、そのくせ私のことをまっすぐに睨みつけている。そっと溜息をひとつ噛み殺して、そんな子供の正面に腰を下ろした。
「ねえ。違っていたら謝るんだけど、君は私に、他でもない私に、言いたいことがあるんじゃないの?」
問いかけた瞬間、彼の瞳は石が投げ込まれたように揺れた。特に嬉しくもない正解だ。私は自分のためにと持ってきていた水で唇を湿らせる。
開店まではあと十五分。ウェンズがいつ来るかは分からない。こういう時、連絡先を知らないのが恨めしい。今考えても仕方ないけど。
「おまえが父さんに、余計なこと言ったんだろ」
絞り出すような声だった。けれどそれはまだ、声変りなんて想定されていないような高い声だった。
余計なこと、ね。私はとりあえず否定も肯定もせずに、ただ彼を見つめてみる。そんなこちらの態度が気に食わなかったようで、有賀信児は掌でテーブルを叩き付けた。空っぽの店内に、掌と木の机がぶつかる音がやけに響く。べしん、べし。癇癪を起して、彼は何度も机を叩く。
「お前が! 余計なこと言って! オレから父さんが絵本を取りあげされたんだろ!」
「それは違う」
なるべく俊敏に、でも確実に。私は彼の手首を掴む。なるほど、有賀さんはそういう風に伝えたのか。口をつけられていないオレンジジュースの水面が危うげに揺れていた。
有賀信児は驚いてなんとか抜け出そうとするけれど、さすがに成人女性の力には敵わない。私は彼の細くて熱い手首を掴んだまま、そっと顔を寄せた。
「私は、絵本を取りあげろとは言ってない。でも、絵本が原因で君が飛び降りたりするんじゃないか、とは言った。だから怒って良いよ。その代わり、質問に答えて」
覗き込んだ有賀信児の瞳は星を抱いていた。無数の小さな光が涙の水面にきら、きら、きらと瞬いている。それらひとつひとつは決して強い光ではないけれど、確かに輝いていた。
だから、朝焼けに対抗するように存在する星の光に似ていると思った。彼は私を射貫くような光で睨みつける。その光があんまりにも綺麗で、私は思わず微笑んでしまいたくなった。
「ねえ有賀信児、君はネバーランドに行きたいの?」
星の海が零れんばかりに、瞳が見開かれる。
「なん、で」
「考えてみたの。私の、ううん、友人って言えばいいのかな、まあ誰かが昨日の夜言っていたんだ。君の求めるものは何かって。だから考えてみた。スティックシュガー。その中身にあるグラニュー糖。それを君はきらきらと呼んだ。きらきらはイコール妖精の鱗粉。間違ってない?」
有賀信児が短く鋭く息を吐いた。それから赤い唇を真一文字に引き締める。私の言葉は確かに彼へと影響を及ぼしているけれど、彼はまだ質問に答えるつもりはないようだ。私も短く息を吐く。ならばもう少し続けよう。
「妖精の鱗粉。昨日の私は、君がそれを手に入れて空を飛ぼうとしたのかと思った。そう、まるでピーターパンみたいに。でもその誰かさんは、私の考えは不自然だと結論づけた。君はお母さんが大好きだから、そんなことはしない、と。ねえ、それって本当のこと?」
お母さん。その単語に反応するように、有賀信児は更にその視線を鋭くさせた。感情に質量があれば、私はとっくに押し潰されていただろう。
けれども形にしない感情はこの世に明確な影響は与えられない。私はそれを知っている。有賀信児はそれを知らない。きっとまだ、世界の法則を知らないのだ。知らなくても、守ってもらえるから生きられる。私はそれを悪いこととは言わないし、当然だとも思う。現代社会において子供は親に守られ、成長するべきものだ。
だけどさ、私はもうあなたより大人だから。子供のそういった純粋で透明な薄い盾を狙い撃つ。
「君は、ネバーランドに行きたい。それは逃げ出すためなんだろう。自分に構わないお父さんや、死んでしまいそうなお母さんから離れて、いいや、捨てていきたいんだ」
「違う」
「違う? じゃあもっと簡単に言おうか。本当は、ネバーランドの存在なんか信じてないでしょ。砂糖を浴びた瞬間に気づかなかったとは言わせない。人間は、空を飛べない」
「わかんない、だって」
「飛べないのに高いところへ向かったのは、死んでしまいたかったからだろう」
「違う!」
子供特有の薄い皮膚を示す、真っ赤な唇が大きく開かれる。ちがう、ちがう、ちがう! 単純明確な否定の言葉ばかりが何度も繰り返される。大声が喉を枯らすのか、それは徐々に掠れがちになる。そんなこと関係ないと言わんばかりの力強い声が私に向けられた。有賀信児は自分の手首を掴む私の腕を握り、彼の爪が食い込んだ。
「ちがう! 逃げるんじゃない、オレは、逃げたり、そんな、しない、だって、だって」
「何がどう違うの。自分が死に近づくお母さんを見たくないから、逃げようとしたんじゃないの」
努めて、努めて温度の低い声を出す。小さな子供を自分の都合で痛めつけている自覚はあった。でも、あと一歩で本音が分かる。自白させられる。探偵なんかしなくとも真相が暴かれる。
有賀信児が私を見据えた。彼の頬には幾筋もの涙の跡があった。星の海は氾濫している。その様は美しく、生きている証のようだ。彼は生きていて、美しい生き方をする子供だと思った。ばんっ。一際大きく、彼は机を叩いた。
「オレは! ピーターパンにならなきゃいけない!」
「ピーターパンになんてなるな」
低い声がした。私の声とは対照的な、低くて、暖かな声だった。私と有賀信児の手の上に誰かの温もりが重なって、そっと離されていく。
私は溜息をついていた。それは鬱屈を吐き出すものじゃなくて、気が緩んで漏れたものだった。彼が有賀信児を見つめていた瞳がこちらに向けられる。その、知恵と新月を固めた瞳。私は笑った。
「遅いよ、ウェンズ。探偵をやめてヒーローにでもなるつもり?」
「やめられないよ。ただ開店時間を待ってたんだ、プレィト」
「あーあ、律儀なお客様だ!」
「まあな。ほら、注文をとってくれ」
「必要ないよ。常連客のオーダーと品物を持っていくタイミングは把握しているんだ。だって私は優秀なウェイトレスだから」
ひらひらと手を振れば、小さな爪痕が並んでいるのが目に入った。咄嗟に隠そうちしたけれど、ウェンズはもう一度私の腕に触れる。それだけ。それだけ? それだけで! 私はなにもかもどうでもよくなってしまった。
助手を気取るつもりなんか毛頭ないはずなのに、敗北ばかりが胸を占める。なのにウェンズはまっすぐに私を見た。曇りのない、うつくしい眼差しだった。
「知ってる。これでも信頼してるんだ」
きみの信頼なんかいるかよ。
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