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結論から言えば、有賀信児は屋上へと向かう立ち入り禁止の階段の途中で発見された。
有賀さんに見つけられた彼は、すぐに火がついたように泣き始めたらしい。事情を聞こうにもずっと泣いているし、有賀さんもいっぱいいっぱいみたいだし。私とウェンズはまた明日挨拶に来ると言う有賀さんの言葉を受けて、とりあえずカフェテリアまで引き上げることにした。
泣き喚く声の断片から、私の推測は概ね当たっていたと知れた。きらきら輝くグラニュー糖を母親の病室から持ち出し、それを被って夜空へ飛んでいこうとしていた。彼の両親はそれを見落とした。いいや、見ていなかったからこそ実行されたのだろう。母親の具合が急変し、緊急治療室へ運ばれた直後のことだったから。
エスカレーターは、ごうん、ごうんとやけに大きな音を立てて私達を運ぶ。
きっと本当は大きな音なんてしていなくて、ただこの場所が、この夜の病院という空間が、暴力的なまでに静かなのだ。静かで、けれど確かにその静寂の膜の下に、赤く張り詰める糸のような緊張感が潜んでいる。私は、幼い頃からこの病院にいる私は知っている。
「ウェンズ」
呼びかけてから後悔した。私は彼にかける言葉を持ち合わせていない。一瞬だけ俯いて、思考をぐるぐる巡らしつつ彼の茶色の髪を仰いだ。でき合わせ台詞を口の端に乗せかけて、止まる。
彼の視線は薄暗いあまたの病室へ向けられていた。唇の真ん中に小さく穴が開いている。口元は緩んでいるけれど、それただ単に力を入れ損ねたからだ。そこに意志は見受けられない。
瞳は、まるで薄い雲がかかっているように焦点が定まっていなかった。彼の視線は真っ暗の院内に向けられている。確かにそのはずなのに、私は彼が今現実の一切を見ていないと奇妙なほどに確信できた。
私はウェンズの事情を知らない。本名も、年齢も、聞いたことすらない。けれど分かる。病院の、その中にあるカフェテリアの常連客なんだ。彼に関係する誰かが、毎週だってお見舞いに来るような誰かが、ここに入院しているのだろう。しかも、その人の入院期間は長期にわたっている。
この、静かな静かな病院のどこかに、病と戦う親しき誰かがいるのだろうだなんて、想像に容易い。ウェンズがもし蝕まれ、やつれていく誰かをずっと見守っているのなら、彼が今、目に浮かべているものは。
「……何か言った?」
エスカレーターの上の段に立ったウェンズが私を見る。声はいつも通り、明瞭なものに戻っていたけれど、瞳の奥にはまだ先程の霞がたゆたっていた。浮世からちょっと外れてしまっているような、そのくせ停滞しているような色。私は瞬きを、意識的に少しだけ長くして。
「ううん。何も言ってない」
笑った。嘘をついたから。
ウェンズは怪訝そうに眉をひそめ、それから視線を逸らす。そうだ、それで良い。私は体内に凝った思考を呼吸と一緒に吐き出して、唇を釣り上げた。不意さえ突かれなければ、笑顔をつくることは得意だ。接客業だもん。偽物の笑顔のまま、だらしなく唇をひしゃげてみせる。
「何はともあれ、あの子が飛び降りる前に見つかって良かった」
「ああ、そうだな。そう、本当に良かった。よかった、よか」
不意に、真っ暗な院内を見つめるウェンズの瞳に探照灯のような光が走った。私は条件反射のように、彼と親しくなったあの日のことを思い出す。あの、密やかで悲しい事件のことを。他にもいくつかの事象が頭を過る。ああ。しまった。
らん。奇妙なほどに明るく輝く光を灯した瞳が私を見据えた。
「あいつは何を求めている?」
らん。探偵が始まる。
ウェンズの瞳には何もかもを切り裂くような光が宿っていた。これはきっと彼の賢さと、我儘の表象だ。
この光を瞳に宿したウェンズは、自らがおかしいと思ったり、腑に落ちなかったりする事態を解決しようとする。そうしてどうやっても、明確な答えを手にするまで止まらない。それはまるで、不明瞭の奴隷のように。私はこっそりと深呼吸をした。こうなった彼は止められない。だけどせめて手伝って、見張ると決めていたから。
「求めていたのってグラニュー糖、あ、そうじゃない。あの子の認識の中なら、空を飛ぶための妖精の鱗粉、かな?」
「そうだ。でも空を飛ぶだけなら他にいくらでも方法があるし、第一有賀さんに頼めば良い。簡単だろ。だけど母親が入院するような状況で、ただ空を飛びたいと思う子供がいるか?」
「……まあ、普通ならあんまりいないかもしれない」
ウェンズは顎を引く。口調は徐々に熱を帯び、生き急ぐための喘いだ呼吸が繰り返される。瞳が爛々と光を放つ。彼の命を削るように、弾けるように、瞳は焦げていく。
「それに俺は、信児は母親がとても好きな子供だと知っている。それなのにこんな時に自分の我儘で空を飛びたいと、理由もなく思うか?」
「私は有賀信児のことを知らないから、ウェンズほど彼の母親への思いを知らない。だからどれくらい親子の絆があるかは論じない。でも、私が今日会った彼はとても切迫した顔をしていた」
エスカレーターが止まる。私達は自然とその場で立ち止まり、目を合わせた。ウェンズは私の方へと身を乗り出していて、その苦そうな茶色の毛先が私の頬に触れそうだ。けれど、きっと今の彼にはそんなこと些事なのだろう。
だって探偵をしているウェンズは、彼の定めた謎しか見たがらない。だから身を乗り出せば接触してしまいそうな距離感でもって、私は彼を仰ぐ。クーベルチュールの繊細な髪の毛に、知恵と新月を固めた黒い瞳。寂しさに似た哀れみが胸を去ってから、私は口を開く。
「私も、彼が求めたものを知りたいよ。どんな理由であれ、結果としてこの病院で飛び降りをはかった有賀信児を許しおきたくない。未来のある人間は、すべからく死を選ぶべきじゃあない」
珍しく、私の言葉はこの状態の彼に届いたようだ。もの言いたげに目が眇められるけれど、それも一瞬。彼はまたすぐに瞳をきらめかせて頷いた。周囲が暗いからか、私にはないものだからか、その瞳の光は暗闇の中でもやけに鮮烈に映る。
「俺は有賀さんから話を聞く。連絡先知ってるから。あとは軽く、事実確認とかをする」
「分かった。任せた。できることがあったら何でも手伝うから」
静まりかえった院内に、私とウェンズの声ばかりが密やかに反響する。私は有賀信児の顔を思い出していた。ぎりぎりと引き締められた真っ赤な唇。目の縁まで盛り上がった涙を拭おうともしなかった。そのくせ、父親の腕の中では安心したように泣きじゃくっていた。そこまで思い出して、私はひとつ気がつく。
「信児の求めているものを見つけよう」
私はまだ、彼の笑った顔を見ていない。
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