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「ということがあったの」

「ああ、俺多分その子のこと知ってる」

「はあ?」

「あ! こらプレィト机を揺らすな!」


閉店間際のカフェテリアのカウンターで、いつものようにうちの名物であるハンドドリップコーヒーを頼んだウェンズはカップを持ち上げた。それからカウンターの向こうに立つ、いや今は身を乗り出してしまっているけれど、私を睨み上げる。


客席とキッチンを隔てるカウンターは年月を反射して、この薄暗い店内でもほの光るようだった。私はそろそろと両手を挙げる。目にも明らかで、万国共通な降伏のポーズ。


ウェンズは白い陶器のカップを机上のソーサーに戻し、目を眇めた。そのまま藍色のカジュアルなジャケットに包まれた腕を組む。


「ウェイトレスのくせにそそっかしいなんて致命的だな」

「今のはたまたまですー」

「たまたまじゃないだろ。また皿割ったらどうするんだ?」

「またって、失礼な。前だって割ってはいないんだけど」

「客に危なげに見られる時点でどうかと思う」

「……失礼しました」

「ん」


こんの減らず口め! まあ事実だから私が悪いけどね! 


唇を突き出しながら大人しく頭を下げると、ウェンズはちょっとえばった仕草で肩をすくめた。お前の顔が好みじゃなくて、お客様でもなかったら舌打ちしてたからな。


けれど彼は、私の淹れたコーヒーに口をつける。心から愛おしそうに、カップに口元を寄せる。その様子を見るだけで、許してしまいそうになるのだ。本当に、我ながら救えないほど単純だ。


ちなみにウェンズというのも、プレィトというのも、まったくもって本名ではない。プレィトなんて、私の本名と一文字だって被っていない。ならばどうしてそんなあだ名で呼び合うのか。答えは簡単。私達はお互いの本名を知らないから。


プレィトというあだ名は、バイトのときにだけするこの三つ編みに由来する。伸ばした髪の毛を二房に分けて三つ編みにして、その先っぽをくるりと円を描くように上でまとめる髪型からウェンズが命名した。


ウェンズというあだ名をつけたのは私だ。こちらの由来も簡単。毎週水曜日、ウェンズデーの閉店間際に、私のバイト先かつ祖父が経営する、この病院内カフェテリアにやってくるから。


共通点は大学生くらいの年頃ということくらいだったのに、ただのアルバイトの私と、ただの常連客だったウェンズがこうして楽しく親しく話すようになったのは、秋に起こったとある小さな事件が関係している。


けれど、それはさておき。私は彼がコーヒーを堪能している様を見届けてから、今度は注意してゆっくりカウンターに頬杖をつく。それから話題を戻すために口を開いた。


「それでウェンズ、あの男の子と知り合いって本当?」

「本当。この病院に大事そうに絵本を抱えたいがぐり頭の男の子ってのが、二人もいるとは到底思えないからな」

「言い方がまどろっこしい。それで?」

「ほっとけ。あいつの名前は有賀信児。何歳かは忘れたけど、多分まだ小学校には上がってないな」

「へえ。それにしても、ウェンズは子供に嫌われるタイプだと思ってたから、あんな小さい子と友達だったなんて意外だ」


茶化すようにウェンズの顔を覗き込めば、溜息と共に掌を振られた。私は虫でも煙でもないぞ。彼は苦った顔のまま目を細める。クーベルチュールチョコレートを練り上げたような髪が揺れた。


「本当のことを言うな。俺は信児の母親の、有賀のぞみさんと知り合いなんだ。もう何年前になるかもあやふやだけど、俺がひとりで病院の待合室とかにいると、何かと構ってくれたんだ。あの人はさ、根っからの子供好きで、良い人で」


彼はそこでほう、と息を吐いた。私は螺子を締め直すように唇を横に引き、耳をすませた。こうした不自然な会話の切れ目に気づけないほど、鈍感ではないつもりだ。


意図せずして生み出された句読点は、話し手の踏み込まれたくない領域を指し示している。ウェンズは笑った。感情の処理を放棄して、未分化の感情を私に見せるべきでないと判断して、笑った。


「でも最近、病状が良くないと聞いた。最後に会ったとき、入院すると聞いた」


病院という場において、人は呆気なく生死の境を行き来する。そこに他人が関われることなんてほとんどない。幼い頃からこのカフェテリアに通っていた私は、身を以て知っている。知ってしまっているから、ウェンズの曖昧な笑みを咎めないし、彼の瞳から目を逸らした。


「そう、なんだ」


だからほら、こんな相槌しか打てない。干渉しないことが最善だと、私は経験として理解している。けれど、まだ体現することは上手にはできなかった。ままならない空白がこの空間に放り出されたことに気づいて、ウェンズは一度瞬きをした。それから頑張って唇の端を吊り上る。


「まあ、信児が普通に出歩いてるってことは、のぞみさんの容体もそんな悪かないってことだろ」

「そうだよ。間違いない」


ああ、信じてもいないことを言わせてしまった。あーあ。へったくそな笑顔だ。


内声は飲み込んで、喉に蓋をするみたいに笑った。怒っていないだとか、悩んでいないだとか、そんなことを記号的に示すために。これで、この話はおしまい。私は手元のスプーンを摘み上げ、クロスで磨く。ウェンズはコーヒーに口をつける。


私達は当たり前のように誰もかもが生きていけると盲目に信じ、当たり前のように誰かが死んだことから目を背ける世界観へ帰る。そう演じる。


「でもあの子、絵本を持ち歩くなんてなかなかにクラシカルな子だねえ」

「あれ、のぞみさんから信児への誕生日プレゼントなんだよ。毎年一冊何か本を贈るんだってさ」

「なるほど。何か本にこだわりがあるの?」

「ああ。あの人は保育士だったんだけど、ボランティアとして児童図書館の司書もやっていたらしい」

「本当に子供好きなんだねえ」

「ああ、とても」


核心から離れた軽い会話ほどふらふら浮かぶと知っているから、私達は滑稽なまでに懸命に死から離れた話題を繰り返した。


不意にお店の外からオルゴールの音が聞こえる。病院の面会時刻終了十分前を知らせるオルゴール。私はそっと溜息をついた。ウェンズがカップを持ち上げ、残ったコーヒーを飲み切る。


彼はいつもこのオルゴールの音を合図に帰ってしまうから、なんというか、少し名残惜しくならなくもない。思考と言葉を遠回しにして、目の前の感情を曖昧にしてみた。意味も効果もない。


カップをソーサーに戻したウェンズがそのまま動きを止める。どうしたんだろう。彼の視線をたどると、その先にはスティックシュガーがあった。きらきら。この話の発端。有賀信児が、求めていたもの。


「信児はどうして、砂糖が欲しかったんだろうな」

「もしかしたら、スティックシュガーとか、中身の砂糖とかが欲しかったんじゃないのかもしれない」


独り言のようなウェンズの呟きに答えれば、彼は怪訝そうに私を見上げだ。きらきら。私は瞬きをして、脳裏に有賀信児の姿を思い描く。いがぐり頭。薄い皮膚を示す赤い唇。上気した頬。挑むような、すがるような眼差し。それから、胸にきつくきつく抱き締めた絵本。きらきら。目蓋を上げる。


「だって、あの子が持っていた絵本のタイトルは」

「すみません!」


オルゴールをかき消すほどの足音を伴って、かっちりとしたスーツ姿の男の人がカフェテリアへと駆け込んできた。その人は息も荒く、衝突するようにうちの店の看板にもたれかかる。


息も絶え絶えな彼は、それでもなんとか顔を上げて私たちを見据えた。頬は赤く上気していて、そこに光る瞳はすがるような色を含む。彼は何度も荒く呼吸を繰り返した。彼を見てウェンズは、惚けたように小さく声を漏らす。


「有賀さん?」

「え、有賀さん?」


男の人の、ウェンズの、そして私の疑問と視線が交錯して絡まっていく。私は反射的にウェンズを仰いだ。彼も私を見ていた。目が合って、頷き合う。


私はキッチンへ水をつぎに、ウェンズはカウンター席から立ち上がって有賀さんの方へ向かう。キッチンの奥で仕込みをしていた父が、物言いたげな目つきで私を見た。わけあり、私はコップに氷水をそそぎながら唇の動きだけでそう伝える。店内からウェンズと有賀さんの声が聞こえていた。


「有賀さん、落ち着いて。どうかしたんですか?」

「君は、どうしてここに」

「この店の常連客なんですよ。それより」

「あ、ああ! なあ君、君なら見かけていないか!」


私が再び店内に戻ると、有賀さんが掴みかからんばかりにウェンズに詰め寄っているところだった。もう冬だというのに汗が滴る顔で、瞳だけはぐらぐらと煮立つように揺れている。


「信児がいない、どこにもいないんだ! なあ、見てないか、知らないか!」


きらきらが、あるんでしょ。


脳裏で声がした。思考が一直線に駆け巡り、コップを持っていた私の手から力を抜ける。支えを失ったコップは、当然ながら重力に従ってカウンターの上に叩きつけられた。水面が大きく揺れて、溢れた水がカウンターを濡らす。


耳の奥でざあと、血の引く音。有賀さんが睨みつけるほどの怪訝な視線で私を見た。その視線を切り返すように彼を仰いだ。


「今すぐ! 今すぐに、屋上へ繋がる階段へ行ってください!」

「はあ? どうして、そもそもあなたは」

「あの子が絵本を大切に思うなら、もしかしたら、もしかしたら高いところに行こうって、だってあの子は、絵本は」


言葉が、言葉がうまくまとまらない。伝えなければならないこと、言いたいこと、言わないといけないこと、みんな絡まっていく。不意に射抜くように私を見ていた有賀さんが目を見開いた。


あ。短くて濁った声が、彼の中途半端に開いた口からぼたりと落ちた。そのまま店の外へと駆け出していく。私も邪魔なエプロンを外してカウンターに放る。ウェンズだけが呆気にとられていた。その彼の手を引いて、私は走り出す。


「おいプレィト! お前今、どこに向かってる?」

「最上階ラウンジ!」

「どうして!」

「あの子、多分スティックシュガーの中身を砂糖だと思ってない! もっと別のものだって、特別なものだって思ってる!」


病院の面会時間は終了ぎりぎりで、空っぽになっていく病院の中を私とウェンズは走っていく。


きらきら。だってあの子、砂糖ではなくきらきらという物体を求めているみたいだった。それに私に断られた後に言った、じゃあ他のものにするというのも妙な表現だ。ただの砂糖が欲しいなら、別のところで頼むのような言い方をするはず。


一瞬だけ振り返ると、ウェンズは怪訝そうに眉をひそめていた。人の流れに逆らって、私たちはエスカレーターを駆け上る。上へ、上へ、なるべく高いところへ、空の近くへ。


「だってあの子が持っていた絵本の、タイトルは!」


砂糖でないなら、きらきらとは何を示すのか?


あの子の持っていた絵本から推測するに、それは。


「ピーターパンだった」


それは、妖精の鱗粉じゃないのか。


上へ、空の近くへ、その向こうにあると言われる、ネバーランドの方へ、走れ。

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