狂犬飼いのラメラ
着地と同時に甘い匂いを感じた。柔らかい地面が衝撃を抑えてくれたので、痛みはなかった。すぐに体を起き上がらせて、自分が何処に飛んできたのかを確認する。
青紫色の花が海のように広がり、風で波立っている。僕は花畑の真ん中に飛ばされたようだ。美しい光景と香しい香りに呆然としてしまったが、花畑の先に見える見覚えのある巨大な城を見て、我に返った。
後ろを振り向くと、天を貫かんと聳え立つ大きな塔が立っていた。他にも、少し遠くに塔がもう一つ、反対方向には折れた塔も見える。王の居城と塔に挟まれた場所に僕はいる。つまり、シャマールがいるはずの城内に計らずも侵入できてしまったということだ。
しかし、それは同時に自ずから死地に飛び込んでしまったことも意味している。老爺が言っていたことが真実ならば、城内はラメラという魔女の奴隷、犬たちが血の魔女の臭いを頼りにシャマールを探しているはずだ。その犬たちはシャマールよりも血の魔女の臭いが濃いであろう僕を簡単に見つけてしまうだろう。
どうやって犬たちに見つからずにシャマールを見つけるか。考えがまとめられなかったが体は動かすしかない。僕は花が散るのも折れるのも厭わずに懸命に走った。不安と恐怖が花の香りに紛れていく。舞っていく花弁を美しいと思える余裕さえ出てくる。花守、ラメラがいるであろう塔が遠のけば遠のくほど安堵が芽生え、花の中で泳ぐ楽しさを見出していった。
匂いによる一時の快楽から目を覚まさせたのは、別の匂いだった。心を安らげる甘く透き通った花の香りの奥から、強烈な刺激臭が駆け寄ってくるのを感じた。
その匂いの既視感で恐怖が蘇ってきた。獣のような悪しき匂いが近付いてきて、その気配に振り返ると、美しい花を蹴散らして焦点の定まらない目をしたみすぼらしい男が駆けてきているのが見えた。
人とは思えない速さで迫ってくる男に、僕は瞬く間に組み伏せられてしまった。男の荒く臭い吐息が顔に掛かり、体臭も相まって眩暈がした。体の力が抜けてしまい、抵抗できずに男に担がれた。男はふらふらと蛇行しながらも、塔の方へと歩んでいく。その歩みの最中、僕は悪臭に耐えられなくなって気を失ってしまった。
硬い地面に投げおろされて、意識を取り戻した。スモウブルフに落ちてきた時は違って高さはないものの、敷かれた石畳に僅かな隆起があり、そのせいで体に刺さる様な痛みを感じた。
明かりのない暗く、じめじめとした部屋にいた。館の地下室に似た雰囲気があったが、あそこよりも狭く、部屋を閉ざすドアは頑強な鉄格子で出来ていた。悪臭を放つ男は僕を投げ捨てた後、鉄格子を鍵で閉めて何処かへ行ってしまった。起き上がって男の行方を確かめようと鉄格子に近付いた。握りやすそうな筒状の鉄格子に手を伸ばした瞬間、静電気のような痛みが指先に走り、反射的に手を引っ込めた。
もう一度、鉄格子に触れようとするが、やはり静電気が走り、自分の意思に反して手が引っ込んでしまう。何度やっても、鉄格子に触れることは出来なかった。
ややあって、外からコツコツと高く響く足音が聞こえてきた。足音は明かりを伴って前方から迫ってくる。光を作る蝋燭がローブを纏った何者かの輪郭を浮き上がらせて、その顔を照らした。
目鼻立ちから女性だと分かると、その正体も自ずと見えてきた。あれは魔女だ。魔女が嬉々とした表情を見せて、向かってきていた。僕は背後の壁に背中をべったりと付けて、近付いてくる魔女を目で捉え続けた。
鉄格子の前まで来ると、魔女は明かりを持つ腕を部屋の中に突っ込み、様子を窺ってきた。魔女からは花畑で嗅いだ花と同じ香りがきつく匂っていた。
魔女は照らし出される僕を見ると、此処に来るまで浮かべていた笑みを次第に歪ませていった。
「違う。どう考えても、違う。何をしているのだ、駄犬め!」
魔女は睨みを利かせた顔を後方へ向けて叫ぶと、舌打ちを暗闇に投げてから此方に向き直った。
「何処からどうやって迷い込んだのかは知らないが、此処は『リンネの園』に属する魔女のみが立ち入ることを許された花園だ。例え子供であろうと無断で侵入したのなら、我々独自の判断で罪を問い、罰を与えても良いとされている」
魔女はローブの胸元に付けられた花を象ったような金色の勲章を見せつけてきた。
「お前も、城下の町で暮らしているのならこれで私が誰だか分かるだろう。お前たちのような脆弱な存在を守ってやっているというのに、面倒ばかりかけさせられる。こんな子供を容易く城内に入れた門番にも折檻が必要か。さてそれでだ、君の今後は私の裁量によって決められるわけなのだが、残念なことに今はそれどころではないのだ。お前よりも遥かに危険な臭いを放つネズミが王城に入り込んでいて、その対処をしなければならないのでね」
この魔女が何者なのか、推測できた。おそらく塔に住まう魔女、花守のラメラだ。ラメラは翻りながらも独り言のように言葉を続ける。
「どいつもこいつも、苛立たせてくれる。この積もりに積もった苛立ちと不満を亡霊にぶつけなければ、治まりが効かん。そうだ。お前はこの苛立ちが亡霊を捕まえる前に爆発しそうになったら使わせてもらおう。それまでに亡霊を捕まえられたら、釈放してやるか。だからといって安心はするなよ。私はとても気が短いからな。それに、亡霊は何処からともなく現れる。奴が本当に血の魔女ならば、気まぐれにお前を殺すかもしれないぞ」
ラメラが去る間際に、花の芳香の中から獣が放つ悪臭を感じた。暗闇に視界が閉じられていき、臭いだけが残った。
この強烈な悪臭は花畑にいた男からもしたが、それ以前にも嗅いだことがある。館に侵入してきた物取りも同じ臭いを放っていた。それにあの物取りも、花畑にいた男と同じように、正気を保ってはいなかった。しかも、何かを盗みに来たわけでもなく、地下室に向かって、マーニに危害を加えようとしていた。あれはもしかしたら、マーニから漂う血の魔女の匂いを辿ってきた、ラメラの犬だったのかもしれない。どこから彼が来たのかは分からないが、匂いを頼りに町はずれの森の中にぽつんと立つ館にまで辿り着いたのだからら、人並外れた嗅覚を持っていることになる。ラメラは魔法によって人間を自分の隷属にするだけでなく、特殊な力を授けているのだろう。
その鋭い嗅覚に嗅ぎつけられて、僕は捕まってしまった。ラメラは気付いていなかったが、僕の手にある血の刻印は確かに血の魔女の匂いを放っているようだ。僕はこれほど簡単に捕まってしまったが、シャマールはまだ捕まってはいない。僕とシャマールで放つ匂いの強さに差があるのか、シャマールの逃走術が秀でているのか、理由は定かではないが、シャマールがまだ捕まっていないことには安堵した。
ある程度、状況が見えてきた一方で、自分がシャマールの足枷となってしまったことをひたすら後悔した。シャマールは僕を助けるという目的を追加させられてしまった。シャマールが置かれている立場が僕のせいで苦しくなっていく。僕がスモウブルフに来てしまったために、シャマールに迷惑をかけてしまった。全くの役立たずである自分に情けなくなってくる。
館でシャマールに閉じ込められた時は、何かが作用して扉を破壊できた。それと同じようなことが起こらないかと試そうにも、鉄格子に魔法の力が働いているようで触れる行為そのものに至れない。僕はこの牢の中でシャマールが僕が捕まっていることを知り、助けに来てくれるのを待つしかできない。仮にシャマールが血の刻印を解く術を見つけて、無事に館に戻ることが出来たとして、そこに僕がいなければ、その術を実行できずに全てが終わってしまうということもあり得る。事態を好転させられる思惑を僕が破綻させてしまっている。余計な気を起こさなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
暗闇と狭い牢に圧迫されて、心がどんどん萎んでいった。膝を抱えて、顔を埋めて、目を閉じて、自分を責める言葉だけが頭に浮かんできてしまう。逃れられない悪夢の中にいる気分だ。ああ、でもそれは今に始まったことではない。僕は、僕とマーニは、いつからこの悪夢に囚われていたのだろう。目を開けた時、光を目にした時、そこにマーニがいて、いつも見せくれた眩い笑みと煌めく瞳で僕を迎えてくれたら、今まで魘されていた絶望を綺麗さっぱり忘れることが出来る。この長い悪夢が、血の魔女と出会ってしまったあの時から今までが、幻であったのだと安心させてほしい。
顔を上げて、瞼をゆっくりと開く。目覚めることは許されなかった。この悪夢の中で、僕は生きていかなければならない。何も見えない暗黒の世界で、あるかも分からない希望の光を見つけ出さなければならない。でも、闇を彷徨う旅人は僕だけじゃない。
「シャマール」
闇の中、小さな光と共に現れたその人の名を呟いた。
「面倒をかけてくれる。ちょっと離れてろよ」
壁際まで下がると、シャマールが鉄格子に息を吹きかけた。すると、鉄格子のドアは強い力が加わったかのようにひしゃげていき、きりきりと悲鳴を上げて此方側に飛んできた。
足元に転がる鉄格子に驚く僕を、シャマールは、はためく白いマントを手で抑えながら急かした。
「すぐに奴らに嗅ぎつけられる。さっさと退散するぞ」
牢から出ると、シャマールに連れられるようにして暗く伸びる道を走った。気になっていることがどうしても頭から離れてくれなかったので、我慢できずに聞いてみた。
「どうして僕が此処にいるって分かったの? それに見つからずに此処まで来るなんて」
「いちいち説明してやっても理解は出来ないだろう。魔法のおかげとだけ思っていればいい」
シャマールがそう言うや否や、暗闇に灯る灯りが次々と現れ始めた。闇に満ちた廊下を抜けた先は、大きな吹き抜けのある広い空間が待っていた。下を覗いても底は闇に閉ざされていて、天を仰ぐと遥か上空に花の大輪を模した鮮やかなステンドグラスの天井が見えて、それを通して日の光が微かに降り注いでいた。。
壁に沿って上下に伸びる螺旋階段の各所にある踊り場にはドアがあった。それが次々と開いていき、中から正気を失った男たちが出てきた。男たちは迷いなく此方へ向かって走ってきた。
シャマールは何かを早口で呟いた。それは僕の知る言葉ではなかった。違う国の言葉か、或いは古い時代の言葉か、無意味な推量は即座に中断させられた。シャマールが呟きながら駆け上ってくる男たちに掌を向けると、鋭い音と共に突風が吹き、男たちを吹き飛ばした。
そのまま昇りの階段の方へ掌を向けて、下りてくる男たちにも突風を浴びせて吹き抜けの大穴に落としていく。それでも続々と出てくる男たちを見て、シャマールは呟くのを止めた。
「きりがない。上から逃げる、離れるなよ」
返事を待たずに、シャマールは階段を駆け上がっていった。慌ててシャマールに追随し、螺旋の階段を上っていく。上から襲ってくる男は、シャマールが迎撃していったが、後を追ってくる男たちには手を出す余裕はなかったようだ。彼らに追いつかれないように、足を止めることなく駆け上がっていった。
上れば上るほどステンドグラスからの光が強さを増していく。頂上が近いことを意識し始めると、疑問が湧いてきた。上り切ったとして、僕たちに逃げ場はあるのか。シャマールはこの危機をどうやって脱しようというのだろう。それを問うことは出来ない。走りながら謎の言葉を呟き、風の魔法を使い続けるシャマールに答える余裕はないはずだ。シャマールを信じて付いていくしかない。シャマールの考えは、状況を打破するその瞬間に理解すればよいだろう。僕はただシャマールに守られるだけの存在に徹して、邪魔にならないようにしていればよいのだ。
最上階が近付いてきた。シャマールは前方の敵を蹴散らすと、転回して僕の後ろに回り、視認できる下方の敵を魔法で一掃した。天井を仰ぎ見ると、目を閉じて息を整えながらゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。僕はそれを黙って見守った。
言葉が止まり、シャマールは両手の掌を天に向けた。深く長い息を吐き、全てを吐き終えると、目を開いて唸るような声で叫んだ。シャマールから風圧が迸り、僕は思わず尻もちをついてしまった。シャマールの掌から大きく強い風が唸りながら吹き上がり、ステンドグラスを砕いた。ステンドグラスの破片が光りを反射しながら闇の中に次々と落ちていった。
両腕をだらりと下ろしたシャマールに、天井に空いた穴から一筋の光が注いだ。絵画のような姿と光景に、僕は暫し見惚れてしまった。
「あの穴から、外に出る」
短い言葉から疲れを感じた。それを気にかけてあげる隙もなく、シャマールは僕の腕を掴み、靴の底で地面を強く叩いた。すると、シャマールの体が宙に浮きあがり、僕もシャマールに吊り上げられるようにして浮上した。
緩やかに上昇しながら、光が射すステンドグラスの穴に吸い込まれていく。穴を抜けると、浮遊感が弱まっていき、ステンドグラスの上に足が着いた。分厚いガラスで出来たそれは、人が乗っても悲鳴一つ上げず、横殴りに吹く強風を受けても揺るがない強靭さを持っていた。
この強い風に煽られながら、周囲を見渡す。見えるのは青く澄んだ空と優雅に漂う白い雲、荘厳な城と一本の塔だけが空の世界に突き立ち、下界は遠くに望む山脈だけが見えた。
シャマールは風を浴びながら、遠くの空を凝視していた。何かを見定めたような目つきに変わると、視線の先の方へ歩き出した。
懐から羽毛のようなものを取り出すと、ステンドグラスの床にそれを落とした。強い風が吹いているのに、羽毛はひらひらと素直に床に落ちていった。
「風の回廊が出来上がるまで、少し時間が掛かる。待ってる間、風に飛ばされて落ちるなよ」
冗談だとは思えなかった。風は僕を攫っていこうと、常に機会を窺っていた。腰を落として重心を下げながら、狡猾な風に対応した。
「風の回廊って?」
言葉が風に流されてしまわないように、。声を張ってそう聞いた。
「お前も、それに乗って王都まで来ただろう。私が作り出した唯一にして無二の魔法だ。羽毛が運び手、渦巻く疾風が道となり、遥か遠い地にも瞬く間に辿り着くことが出来る。体への負担が大きいという点と、空を飛ぶ鳥たちがそれと知らずに風の回廊に触れて千々に裂かれてしまう点は課題だがな」
シャマールは床に張り付く羽毛を見つめて言った。館の庭と城下町の石造りの建物の上にあった羽毛も、シャマールが用意した魔法だったようだ。犬たちに捕まらずにいたのも、この風の回廊を使ってスモウブルフの城内と城下町を行き来していたからなのだろう。
「知らなかった。魔法って作れるものなんだ。じゃあ、血の刻印を解く魔法だって作れるんじゃない?」
「簡単に言ってくれる。魔法を打ち消す魔法なんて今まで存在しなかったものだ。おそらく多くの名だたる魔女がそれを求めて研究し、辿り着けなかったことだろう。そんなものを作り出そうにも、知識も技術も時間も足りない。その足りないものたちを補うために、この城に眠る秘匿文献を探りに来たのだがな」
シャマールはそう言うと口を噤んでしまった。続きの言葉が気になる反面、怖さもあったので聞き出せなかった。
シャマールと同じように羽毛を見ていると、羽毛が優しい吐息に吹かれたかのように浮き上がった。
風の回廊が出来つつある兆しが見え始めて、それが完成する様子を眺めていたが、急にシャマールが何かに気付いたように振り向いた。僕もそれに釣られて振り向くと、ステンドグラスに空いた穴から、ラメラが姿を現した。
後に続いて男たちが次々に這い上がり、息を荒げながらラメラの背後に並んでいった。
「不可解だな。見つかるのを覚悟で、こんな子供を助けるとは。余程お前にとって有益な存在なのか、血の魔女の亡霊よ」
シャマールは僕の方へ静かに歩み寄り、ラメラから隠すようにして前に立った。
「大人しく投降した方が身のためだ。あれだけ派手に暴れて、魔力も残っていないだろう。此方は犬がまだまだ残っている。この場にいるものたち以外にも、塔の中にはいくらでもいる。それに主である私もいるのだ。私たち全てを倒して、此処から脱するなど無理な話だとは思わないか?」
「この程度で諦めろとは、リンネの園の花守は随分と温いことを言うのだな。はっきりと言わせてもらおう。お前たちごときに、私は止められない。獣臭い魔女よ、死にたくなければ、その躾のなっていない小汚い犬どもを連れて犬小屋に帰るがいい」
挑発的な言葉にラメラは眉を顰めた。男たちからも明確に殺気が向けられていた。
「分かった。警告はこれでお終いだ。お前にはかなり辛酸を舐めさせられたからな。私の溜まり切った怒りの全てをぶちまけさせてもらうぞ。いけ!」
ラメラの号令で男たちが一斉に向かってきた。シャマールは彼らを迎え撃つようにして一歩、前に出ると風を起こすための不思議な言葉を口ずさんだ。
今吹いている風とは異なる、雄々しい風がシャマールの掌から吹いた。その風は男たちを迎撃し、場外へ弾き出していく。シャマールは彼らに触れられることすらなく、風の魔法によって難なく処理しているように見えた。
一方で、ラメラの犬たちは下から逐次補給されて、シャマールの魔法に怯まずに突っ込んでくる。シャマールも攻撃の手を緩めずに彼らを撃退していく。目の前で繰り広げられる終わりのない戦いを、僕は唖然と眺めていた。
犬の増援が減ったかのように見えた時、シャマールは雄々しき風をラメラに向けた。ラメラの壁となっていた取り分け屈強な犬たちは、体を寄せ合って互いの体をがっしりと掴むことで、風を受け止めてラメラへの攻撃を凌いだ。
その攻防から徐々にシャマールは劣勢になっていった。犬たちがまた数を増やしていき、シャマールは魔法で彼らを吹き飛ばすものの、風は勢いが弱まり、吹き飛ばせずに堪えられてしまうことが多くなった。肩で息をし始めて、呟く言葉に詰まるようにもなっていた。
打ち漏らした犬の一人がシャマールの懐に迫ってくる。シャマールは開いていた手を人差し指だけ残して閉じ、その指で犬の首を切った。犬の首から血が噴き出し、濁った呻き声を残して犬は息絶えた。
シャマールが僕の方を振り向く。返り血を浴びて真っ赤になった顔からは怖さを感じた。
「先に風の回廊に入ってろ」
シャマールは顎でそこを指した。その場所では、羽毛がくるくると舞い上がっては力なく落ちていくのを繰り返している。館の庭で見たものと同じ現象が起きていた。
「やり方は分かってるよな。あれに触れば館に飛べる。急造だから少々荒い航行になるだろうが、我慢しろよ」
「君が残る意味はないじゃないか。一緒に逃げようよ」
そう言った最中にも犬たちが襲い掛かってきていた。シャマールは風の魔法で追い払いながら、言葉を返した。
「回廊を閉じる前に、こいつらにもついてこられたら面倒だ。ある程度、片付けてから私は行く」
その言葉を信じて先に行くことは出来なかった。シャマールの疲弊しきった戦いぶりが、戦況を覆してくれるだろうと思わせてくれなかった。
「このままじゃ、シャマールが死んじゃうよ」
今、シャマールを置いて行ってしまったら、取り返しのつかないことになる。マーニを救える希望の欠片が、粉々に砕けて二度と元に戻らなくなってしまう。でも、それだけじゃない。また僕は、大切な人を失ってしまうかもしれない。
何も出来ずに、戦況を眺めていた。シャマールは僕に言葉を掛ける余裕もなくなっていた。犬たちの爪牙がシャマールを捉え、体が切り刻まれていく。返り血か、自らの流した血か、区別も出来ないほどに血に塗れ、シャマールは犬を仕留め続ける。鮮やかに咲くステンドグラスの花が、黒く濁った血に染められていった。
その花弁の一片で伏していた犬がふらふらと立ち上がった。辺りを見回すその犬の視線と僕の視線が重なると、矢庭に僕の方へ走り出した。標的になるとは思ってもいなかったために、犬からの敵意を真正面に受けて、それをいなすことが出来ずに思考が停止してしまった。
強風が吹き荒び、呻くような声が木霊する騒々しい戦場で、響く音が一つ鳴った。指を弾く音が高らかに空に鳴ると、全ての雑音が消えて体を温かな風が包んだ。
母に抱きしめられるような、懐かしい感覚だった。もう味わうことなどないと思っていた温もりが、僕を血生臭い戦場から遠ざけようとしていた。僕を狙う犬の手が顔を掠めて、離れていく。温かな風に抱きしめられたまま、僕は風の回廊の入り口に導かれた。
シャマールが一瞬だけ僕の方に向いた。血に塗れたその顔からは表情は読み取れなかった。
身を包む静寂が弾けるようにして消えた。波及する風に体を貫かれ、心臓に打たれた見えない銛が僕を空へと強引に引き揚げていった。
荒れ狂う風に揉みくちゃにされ、体の自由が利かなかった。スモウブルフの王城と二つの塔、そして城下町が小さくなっていき、そこに残した人の姿は見えなくなっていた。ただ、塔の一つだけはいくら遠のいても、その血のような赤をはっきりと見せていた。
体が引き裂かれるような痛みに襲われ始めた。乱暴すぎる回廊の風は、ただ僕を運んでくれようとはせず、壊れることも厭わずに弄んできた。
肉体と精神が切り刻まれていくのを感じた。猛烈な吐き気に耐えられず、吐瀉物を垂れ流していた。胃が空になるまで吐くと、もう何も感じなくなっていた。
次に痛みを感じたのは、地面に叩きつけられた時だった。遥か空の上から放り捨てられ、豊かな雑草の絨毯であってもその強すぎる衝撃を抑えられなかった。
鈍い痛みが全身に広がり、風によって受けた痛みを生き返らせた。幾重にも折り重なった苦痛に声すら出ず、その場に転がったまま静かに涙を溢した。
失ってはいけないものを置いてきてしまった。それを取り返す方法はもう残っていない。あとはシャマール自らが死地を脱するのを待っているしかなかった。
きっと生きて帰ってきてくれる。シャマールは先生の意志を継ぎ、叶えなければならないという使命がある。血の魔女が僕とマーニに刻んだ呪いを解くまで、シャマールは死なない。生きることを諦めはしない。だから必ず、この館に帰ってくる。そう強く願い続けなければ、絶望に心が飲まれてしまう。早く、姿を見せてほしい。空気を震わせる風と共に、僕の前に降り立ってきてほしかった。
風を切る音が空から聞こえる。だんだん、それが近付いてくるのが分かったが、見上げられなかった。
何者かが降り立ち、地面が少し揺れた。僕は涙を拭って立ち上がり、遅れて来たその人を見た。
「シャマール」
血塗れのシャマールの首を持ち、ラメラが立っていた。
「凄まじい魔法だ。飛行の魔法は数あれど、この長距離を短時間で移動できるものは見たことがない」
犬たちが相次いで落ちてきた。地面に体を打ち、すぐには起き上がってこなかった。
ラメラは彼らを気にする様子もなく、髪を掴んで提げていたシャマールの首を僕の方に投げ捨てた。
「彼女は何も吐かずに死を選んだ。故にお前に問う。お前たちは何者だ。何を隠している。答えなければ、お前もそうなる」
足元に転がってきたシャマールを見てしまった。生気のない目と視線が合い、悲鳴が出た。逃げるようにして後退りするが、足がもつれて転んでしまった。
腰が抜けて立つことが出来ず、這いずりながら後退を続ける。しかし、回復した犬たちが駆け寄り、次々と伸し掛かってきた。
「やりすぎだ、駄犬ども!」
ラメラが激しく怒鳴ると、犬たちは一人ずつ引き下がっていき、残った一人が僕を羽交い絞めにしてラメラの前に突き出した。
激しく抵抗するが、逞しい犬の腕力からは逃れられなかった。ラメラは、僕の苦しむ顔を冷ややかな目で見ていたが、僕の右手に気付いて目を瞠った。腕を振り回してても届かない程度に顔を近付けて、臭いを嗅いできた。
「私も鼻が良く利けば、お前を捕まえた時点で気付けたのだがな。お前からもあの魔女と同じ、血の魔女の臭いがするようだ。何も言うつもりがないのなら、殺すだけだ」
ラメラが手で合図を送ると、犬たちが僕に群がり、体中に噛みついてきた。鋭く尖った牙が肉を貫いて骨まで到達し、それすらも嚙み砕こうとしてくる。体を抑える爪も加減がなく、激痛が全身で発生し、気がおかしくなってしまいそうになった。
「食い殺されたくなければ、全てを吐け。お前たちが何者で、何をしようと企んでいるのか。犬どもは加減ができない。躊躇ってる間に四肢を捥がれ、命乞いをする前に喉笛を引きちぎられるぞ」
ラメラは愉悦が混じった大きな笑い声を上げた。
痛みが意識まで支配しそうになる中、生き残った小さな感情が抵抗を続けていた。さめざめと泣く、悲しみの感情はシャマールの死を想っていた。
シャマールも同じように死んでいったのだろう。犬と呼ばれる狂人たちに肉を裂かれ、耐え難い苦痛に屈してしまった。その最中で、やはり僕と同じく、悲しみが最後まで残っていたかもしれない。その悲しみはきっと、先生の望みを叶えられなかった無念だ。多大な恩を返せずに自分も死んでしまうことが悔しかったのではないだろうか。
転がるシャマールの顔が思い浮かんだ。彼女の顔は血に染まっていた。涙の跡などなく血の仮面が顔を覆い、渇いた眼が開いたままだった。
ああ、違う。シャマールは悲しみなど抱いてはなかった。死の瞬間まで諦めていなかった。先生のために、体が八つ裂きにされようとも戦っていたんだ。シャマールは心を殺されることなく、死んでいったんだ。
僕はそれを受け取ることが出来た。死なずに残ったシャマールの心。最後の最後まで大切なもののため、己の信念を貫く意志。僕がそれを引き継がなければならない。全てはマーニを救うことに繋がる。無力な僕を後押してくれる力を授かった気がした。
痛みが馴染んでいく。どれだけ体を貪られても死なないでいた。血の魔女の復活を担うこの体は普通の人間の体ではなくなっている。通常ならば致命傷になり得る傷も、今の僕には擦り傷と変わらないのかもしれない。
犬たちは僕の右腕だけには手を出さなかった。気付いているのか、それとも直感的に避けているのか。どちらにせよ、無傷の右腕を動かすのには苦労しなかった。体に食らいつく犬の一人を、血の刻印が刻まれた手で掴んだ。
掌が犬の肌に吸い付く。血の味が手の内側に広がり、大きな塊が激しく拍動しながら入ってくる。生温い感覚に満たされながら、掌が頬張ったそれを堪能する。藻掻くように疼いていた肉塊はやがて大人しくなり、体内ではない何処かに消えていった。
掌が熱くなっていった。右腕は次々に犬を捉えて、彼らの心臓を食らっていく。食らう度に体に出来た傷が癒えて、より機敏に犬を捕まえていった。
血の刻印が肘の辺りまで伸びてきた。僕の腕を縛る様に赤黒い荊が鮮明に纏わりついていく。
悪臭のする灰の山が周囲に残り、犬たちはいなくなった。もう襲ってくる者はいない。ラメラは呆然と僕を見ているだけだった。立ち尽くすラメラに、覚束ない足取りで近付いていく。
「や、やめろ。来るな、化け物!」
ラメラは後退りをするが、転がるシャマールの首に足を取られて転倒した。
僕は止まらなかった。止められなかった。右腕は怯えるラメラの胸に伸びて、掌が強く押し当てられる。心臓の鼓動がはっきりと伝わる。ラメラの恐怖が伝わる。清らかな花の香りが一瞬だけ過り、血と獣の臭いに即座にかき消された。
酷い臭いは灰と共に木々をそよぐ風に流されていく。此処に留まったのはシャマールの首だけだった。僕はそれを拾い、強く抱きしめた。
「ごめんね、シャマール。ごめんね」
僕は赤ん坊のように泣きじゃくった。止め処なく溢れ続ける涙がシャマールの顔に零れ落ちても、こびり付いた血は落ちてくれなかった。
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