風の導き

 シャマールはよく話をしてくれるようになった。食事の際、背後で待つ僕の方へ度々、顔を向けて昔の先生の話や今、読んでいる書物の愚痴などを口にした。


「今や使い物にならない古臭くて手順の面倒な魔法を、一から調べなくてはならないのは苦痛だ。おまけにあの古文書、他人に読ませまいと時おり鏡文字にしたり、暗号を用いたりとしてきて腹が立つ。ただでさえ複数の古代語を使って書いているくせに、そこまで周到に機密文書として作り上げてるものだから、よっぽど臆病な奴だったんだろうな、この魔法の立案者は」


 苦労しているように話すが、古文書の解読は滞りなく進んでいるように見えた。机の上に置かれた紙束は枚数が減っていて、後少しで全てを読み終えそうだった。だが、それだけ解読が出来ていても、マーニに掛けられた死の魔法を解く手段は未だ見つかっていないようだった。


 僕の手に刻まれた印は薄くなってきている。もしこれが消えるまでに、魔法を解く方法を見つけ出せなければ、最悪の選択を迫られることになる。シャマールは僕が人を食らうことを許さないだろう。僕も当然、それを避けたいと思っている。


 人の心臓を血の刻印に与えれば、マーニは命を長らえる。でも、同時にマーニが血の魔女になっていくということでもある。次に人を食って、マーニはまだマーニのままでいられるだろうか。血の刻印がどれだけの心臓を求めているのかは分からない。この掌で、心臓を食らう度に大きくなる刻印は最終的にどれだけ肥大化していき、どのような形になるのか、想像も出来なかった。


 血の刻印を見ていると焦りと不安が募っていく。マーニの状態も気になってきた。依然としてマーニは地下室に幽閉されている。シャマールからはまだ許しを得ていないので、地下室にはあの物取りの大男が侵入してきて以来、一度も行っていない。あの時も、遠目だったし、薄暗かったので、はっきりとマーニを見てはいなかった。


 マーニに会いたい。それを口にしたら、シャマールは機嫌を損ねるだろうか。折角、お互いに分かり合えてきたのだから、それが瓦解するようなことはしたくない。頼る相手はシャマールしかいない。シャマールが優先しているのは先生への恩を返すことで、僕が横槍を入れようとも先生から託された使命を果たそうとするだろう。でも、その使命が必ずしも完遂するとは限らない。シャマールが立ち向かうのは時間、知識、力。その一つ一つが限りない労苦を求め、大きな脅威をも孕んでいて、一人の小さな魔女を追い詰めるにはあまりに過剰な大敵となっている。そこで僕がシャマールの足元でネズミのようにうろちょろとしていたら、彼女の気が削がれて大いなる敵に押し潰されてしまうかもしれない。


 シャマールだけが打ち勝つ能力を持っている。僕とマーニを救う英雄となり得る。英雄に惨めったらしく泣きつくのではなく、英気を高めてあげるのが僕に与えられた至上命令だ。マーニに会えないのは辛いが、自分の気持ちを押し殺してシャマールに尽くすしかない。それにマーニへの思いとは別に、シャマールへの同情の念が強くなっていた。育ての親を亡くしたシャマールのためにも、その原因となった自分が彼女を支えたいと心から思うようになった。


 古文書の解読は目覚ましい速度で進んでいた。それが僕の献身的な支援があってのことだと思うのは甚だ烏滸がましいのだろうが、そういうふうに思いたい自分がいた。だが、喜びと興奮を抱く僕とは反対に、シャマールは険しい表情が増えていた。


 次第にシャマールは苛立ちを表に出すようになった。本を床に投げ捨てたり、天井を仰いで大きな溜め息を吐いたり、僕には聞こえない声でぶつぶつと呟いたりした。


 今朝も食事を書斎に運ぼうとした。ドアを叩いてシャマールを呼ぶが、返事がない。開けて中に入ろうとするも、鍵が掛かっていた。


「シャマール、朝食の時間だよ」


 何度もそう呼び掛けると、ドアに何かをぶつける音が返ってきた。シャマールが本でも投げつけてきたのだろうか。相当に荒れているように思えたので、朝食は後にして引き下がることにした。


「落ち着いたら、居間に来て。朝食、用意するから」


 聞こえているかは分からないが、そう言葉を残して退散した。


 シャマールが今までにない、強い感情の吐き出し方をしたことに、僕は恐怖を覚えていた。怒りを僕にぶつけるだけの理由をシャマールが持っている。それが何かは、なんとなく分かってしまう。信じたくない結果が頭に浮かび上がり、それを振り払おうと気を紛らわせる策に出る。


 シャマールを迎える居間に入り、掃除を始める。先生が存命だった時ですら、ほとんど使わなかった部屋だ。大きな暖炉は埃を被り、焼けて朽ちた薪がそのままになっていた。


 先生と此処で過ごしたのはいつが最後だっただろうか。黒くなった薪をバケツへ片付けていく間も思い出そうとしたが、記憶にあるのはこの館に初めて来た時のことだけだった。


 玄関から居間に通されて、僕は硬いソファに座らされた。先生は、マーニの手当てをするからこの部屋で待っていてほしい、と言ってマーニを抱えて出ていった。それから沈黙の時間を居間で過ごした。暖炉で燃える薪を見つめながら、胸に燻る不安と戦っていた。


 先生はすぐに戻ってきた。怪我をした箇所の処置を終えて安静にさせている。もう心配はないよ、と優しい笑みを浮かべて言ってくれた。安堵した僕は全身の力が抜けて、ソファに倒れ込み、そのまま気を失ってしまった。微かに覚えているのは、先生が僕を抱え上げて、別の部屋に運んでいこうとしたことだ。居間を出る際、暖炉の炎が瞼の裏で揺らめいていたような気がした。


 残滓を綺麗に片付け終えると、新たに薪を置いて火を熾した。部屋に張り詰める冷たい空気が溶けていき、温かさが充満していく。体に熱が沁みて、血流が速くなっていくのを感じた。


 意気を取り戻し、居間全体の掃除を始めた。机の下やソファの溝に溜まった埃など、細かいところまで丁寧に汚れを落としていく。暖炉を背にして床を磨いていると、蓄積されるはずの疲れが炎によって燃やされるような気がして、不思議と疲労感を覚えなかった。


 経過した時間を計れる疲れが来ないために、掃除に没頭していた。現実に引き戻してくれたのは、ドアを乱暴に開ける音だった。僕は立ち上がり、居間に入ってきたシャマールを見る。


 シャマールは僕に目もくれず、暖炉の方へ向かった。手にはくしゃくしゃになった古文書の束が雑に握られていた。暖炉の前に立つと、静かに揺れる炎に古文書を投げ入れた。


「何してるんだ!」


 僕は炎に飲まれそうになる古文書を助け出そうとした。しかし、シャマールが僕を蹴飛ばして邪魔をした。


「無駄なことすんな。あんなもの、残しておく必要はない」


 自分の推測が、真実になろうとしている。シャマールは無気力な笑みを見せながら言葉を続ける。


「何にもなかったんだ。血の刻印を解く方法の糸口すら書かれてなかった。忌むべき魔法の術だけ練り上げて、それで満足しやがった」


 シャマールの声が耳に突き刺さる様な感覚に陥った。おそらく絶望を顔に見せているであろう僕に向けて、シャマールは更に言葉を続ける。


「他者の肉体を新たな器として復活するこの魔法は、行使された時点で器側の精神の死が決定づけられる。たったこれだけだ、この忌まわしき魔法に掛かってしまった者に対する記述は。師匠が最初に解読した部分で、この記述は終わってた。私は何の意味もないことに時間を費やしていたというわけだ。ちゃんと考えてみれば、当然といえば当然の帰結だ。魔法なんてものには犠牲が付きもの。それを逐一、考慮するなんて現代の魔女ですらしない。古の魔女だって、そうだろう。私たちは常に代償を払って魔法を使う。魔法で得られる利を越えた不利益が他者に生じようとも、魔女には関係ない。自分さえ良ければ他が不幸になっても構わない。魔女というのはそういう生き物なんだ」


 シャマールは止まらなくなっていた。溜まっていた鬱憤を晴らすかのように言葉を吐いていった。


「どうしてこんな身勝手な生き方しか出来ないんだろう。こんな全能感を満たしてくれる代物を持っているのに、それは自分自身のためにしか使えない。何のために、私は魔法を学んできたんだ。師匠の意志を継ぐなどとほざいて、この有り様か。私は結局、師匠の望みを一つも叶えてやれないのか。師匠の正しさを証明できないで終わるのか」


 声が震えてきていた。シャマールは顔を隠すように僕に背を向けて、暖炉の炎を見下ろした。


「先生は正しかったよ。だって、僕とマーニが血の魔女狩りの戦火に飲まれた時、死の淵から救ってくれた。先生が降らせた雨がなければ、僕たちは炎に焼かれて死んでいた。先生の魔法は身勝手なものじゃなくて、こんなにも弱い僕たちに幸福を齎したものだよ」


 僕の反論に、シャマールは振り向かずに応じた。


「その雨がどれだけ降っていたか、覚えているか? 十日は止まなかったはずだ。大地に降り続けた豪雨は、数多の川で洪水を引き起こしただろう。鉄砲水に飲まれて死んでいった者がいたり、畑が冠水し作物が駄目になってしまったり、お前たち二人を助けるのに莫大な被害と犠牲が生じたに違いない。それを師匠が頭に入れずに魔法を使うと思うか? 師匠は、自分の感情に負けた。目の前で命が失われるのを見たくない、という我儘で大きな代償を払って子供二人を助けたんだ。あれほど魔法を嫌った師匠がそれを使ってしまった後悔と苦悩の大きさは計り知れない。だからこそ、師匠はお前たちに希望を求めたのだろう。戒めを解いてまで救った子供がすくすくと育っていけるように、あらゆる障害を払ってやろうとしてくれていたんだ。師匠が自分の命すら捨てて貫いたその行いを、正しいと言い切るには、お前たちが血の魔女から解放されてからでないと無意味だ」


 シャマールは小声で「そう、無意味なんだ」と繰り返した。


 僕は言葉を失い、視線を泳がせた。じゃあ、無理じゃないか。だって、先生が遺してくれた古文書には血の刻印を解く方法は書かれていなかったのだから。僕たちは先生の正しさを証明できなくなってしまった。


 マーニを救えなくなった事実を口にしたくなかった。シャマールが何も言わなくなってしまったので、絶望が体を侵食していき、考えることも動くことも出来なくなっていった。


 暖炉の前で微動だにしていなかったシャマールが、不意に動き出した。ゆっくりとした足取りで部屋を出ようとしている。ドアを開けて去ろうとする最中に立ち止まり、僕に乾いた視線を向けてきた。


「数日空ける。掃除だけはしっかりやっておけ」


 そう言うと、即座に視線を切って部屋の外へ消えていった。暫くして、強風が館にぶつかる音が聞こえてきて、シャマールが何処かへ行ったことを伝えてくれた。




 シャマールが出掛けてから一週間が経った。数日空ける、と言った言葉をどこまで信じれば良いのか分からなかったが、日に日に心細さと不安が増していた。


 そうした負の気配は、シャマールが帰ってこないからということだけで湧いてきているのではない。掌の血の刻印が、この数日で急激に薄くなっていた。マーニの寿命が尽きかけようとしているために、ただ一人残された無力な僕はおどおどと怯えていたのだ。


 シャマールが留守にしているから、密かにマーニのいる地下室へ行くことも出来る。この寂しい死への嘆きをマーニの顔を見ることで抑えられるか、といえば全く正反対の結果になるのは自明の理だ。だから会いにいくことはなかったし、それにシャマールの言い付けも積極的に破ろうとはしたくなかった。僕にとってはシャマールも大切なものの一部になっていた。


 館を揺るがせてくれる風は吹いてくれない。それでも、マーニの死が刻一刻と迫っている。シャマールが解決する術を携えて帰ってくることを祈るしか出来ないのだろうか。


 シャマールに会いたくて仕方なかった。彼女は僕の不安を取り除く術を持っているに違いない。古文書に血の刻印を解除する方法がなく、少し自棄になっているように見えたが、そうじゃない。シャマールはきっと何か新たな策を思いついて、出掛けたのだろう。シャマールの先生への思いの強さは痛いほどに知っている。多少の苦難で挫折を味わっても、先生の望みを叶えるためなら、彼女は絶対に諦めないはずだ。


 諦めないシャマールが、こうも館に帰ってこないのは出掛けた先で何かが起きたからではないだろうか。何かに巻き込まれて、帰ってこれない状況に陥ってるとしたら、誰がシャマールをその窮地から救い出せるか。


 僕に出来ることは、シャマールを支えること。今までも彼女のために体を使ってきた。それはこの先も変わらないだろう。魔法も知識もない僕には、そうした途方もない力を持つ人に尽くすしか出来ない。マーニを理不尽な呪いから解放するために、僕はそれを全力で実行しなければならない。


 言い付けを一つだけ破ることにした。玄関のドアに手を掛けると、深く呼吸して心を落ち着かせる。シャマールへの謝罪は帰ってきてから、玄関に入ってからにしよう、と決めてドアを開ける。新鮮で冷たい空気を感じた。どれくらいぶりかは分からないが、遮る物のない世界に懐かしさを覚えた。


 館を囲む木々は静かだった。時おり吹くそよ風に、枝葉が揺れて擦れる音が鳴るくらいで、ただ整然と佇んでいた。館の庭は雑草がこれ見よがしに伸びていて、先生が存命ならば発狂していたのではないかと思えるほど混沌とした状態になっていた。


 そんな酷い有り様の庭の端に奇妙なものを見た。小さな鳥の羽毛のようなものが、くるくると渦を巻いて上がり、ふっと解放されてゆらゆらと落ちていき、地面に付きそうになるとまた巻き上がっていくのを繰り返していた。


 その光景に惹かれて近付いていく。目前まで近づいてみると、ひゅーひゅーと風の鳴る音が微かに鳴っていた。浮き上がる羽毛に思わず手を出して掴み取ろうとした。指先に羽毛が触れた瞬間、途轍もない風圧がそこから生じた。


 渦巻く風に体が巻き込まれ、抗う暇もなく空に弾き飛ばされてしまった。天と地の区別も付かずにぐるぐると宙を舞い続けて、旋風に空高くまで運ばれた。


 小さく見える館の屋根を一瞬だけ確認したが、それもすぐに遠くなっていった。凄まじい速さと体が千切れんばかりの強さで、僕は飛ばされていた。この風は僕を無理矢理に何処かへ連れていこうとしている。そこがシャマールのいる所なのか、または全く別の場所なのかは知らないが、この体に絶えず感じる痛みと、生涯味わったことのない気分の悪さから解き放ってくれるのなら何処だって構わないと思った。


 視覚もまともに機能しなくなり、早く終わってくれと思うことしか出来なくなっていた頃合いに、その拷問のような旅は終わった。体が硬い地面に叩きつけられて、一番の痛みを感じた。頭がくらくらとして、あらゆる感覚が混乱していた。自分がどういう状態にあるのかを朧気に感じられるようになったのは、暫くしてからだった。


 どうやら石畳の上に落とされたようだ。頑丈に作られているものらしく、上空から落ちてきたであろう僕を受け止めても、ひび一つ入っていなかった。同じく、石で造られた壁のようなものが横に広がっていて、その影の中に溶け込むようにして、一人の老爺が瓶を片手に持ったまま壁を背にしてうたた寝をしていた。


 老爺は僕に気付いたのか、瞼を少しだけ持ち上げて、僕の方に首を傾げた。赤らんだ頬と此方まで届いてくる酒気のきつい臭いから察するに、彼は酔っぱらっているようだった。


「なんだ、此処ぁ、俺だけのとっておきの場所だってのに」


 呼気からも酒の臭いが来る。手に持ってる酒瓶だけでは、こんなに泥酔できないだろうと思った。


 老爺は酒瓶を煽り、長く息を吐くと、後頭部を壁に預けて空を見上げた。


「おめえ、この地区のガキじゃねえな? 俺は、人の顔を覚えるのは得意なんだ。おめえの顔なんて、此処でも、赤の地区でも見たことねえ」


「赤の地区?」


 聞きなれない言葉をそのまま返すと、老爺は酒瓶を持ったまま前方に人差し指を向けた。その先には整然と建てられた家々が並ぶ広大な町並みが広がっていた。僕が父や母たちと暮らしていた町よりも遥かに広大な町だ。しかし、その町並みに圧巻されそうになったが、すぐにそれを越える光景が見えた。


 奥の方で磨り潰されたかかのように大きく抉れた地が見えた。その範囲は手前にある町並みの半分以上はあった。抉り出された大地は黒く焦げたような色をしていて、遠目からだと生命の気配が微塵も感じられない状態だった。


「こっからだとよく見えるんだ。俺が生まれて、ジジイになるまで住んでいた場所さ。女房と息子夫婦も一緒に、あの赤の地区で暮らしてたんだが、血の魔女とかいう化け物のせいで住んでた場所も家族も無くなっちまった」


 あれほど広範囲の被害を血の魔女が齎したことに戦慄した。人も町並みも、容赦なく飲み込み、消し去ってしまう力を血の魔女は持っていた。血の魔女狩りが終結して一年。なおも深い爪痕が残るこの無惨な光景に、自分の手に施された忌まわしい魔法の持ち主の強大さを再確認させられたように感じた。


「おめえはどっから来たんだ。スモウブルフで起きたことすら知らねえなら、此処でも近くの村の人間でもねえよな。行商の連れか何かか?」


 スモウブルフとは、王都スモウブルフのことだろうか。これだけ大きな町なら、王都であっても可笑しくない。この場所からでは王城は見えないため、確信は持てなかった。


「なんだ、違うのか?」


 老爺が顔をしかめて僕を見る。真実を話して訝しがられるのも面倒なので、老爺の言葉に乗ることにした。


「はい。家族で旅の行商をしています。父も母もあんまり、行き先のことを詳しく教えてくれないもので、此処がどういう場所なのかも知らないんです」


 自分でも少し苦しい言い訳だと思ったが、老爺は追求してくることはなかった。鼻で軽く笑い、酒を一口飲むと、息を吐く間を置いた後、再び話し始めた。


「王都であるスモウブルフを知らねえってのは、とんだ田舎者だな。来るときにでけえ城、見ただろ?」


 やはり、イィルス王国の王都スモウブルフで違いなかった。適当に相槌を打って返すと、老爺は続ける。


「でも、塔が三つも壊れてりゃ、王都かどうかも分からなくなっちまうのかもな」


「塔?」


 疑問を口にすると、老爺は呻きながら重い腰を上げた。ついてこい、と目で促されたので老爺の後を追って壁沿いを歩いていく。そのまま壁に沿って曲がり、人通りがある大きな道に出た。その道の真ん中にわざわざ立ち、また酒瓶で指し示した。道が続く先に示されたのは、城壁に囲まれた大きな城、そしてその壁の奥に居城の前に立ち塞がるかのように立つ長大な塔があった。


「あれは紫の塔だ。両側にも見えるだろ? 右が緑の塔で左が黄の塔」


 城の両端にも塔がそれぞれ見える。色で呼ばれているが、どれも灰色ばった色をしていて、それらしい要素は皆無だった。


 黄の塔は他の二つに比べて短かった。半分にも満たない長さで先端も歪な形をしている。それに注目していると、老爺は僕の視線を察したのか答えをくれた。


「ありゃ、血の魔女に壊されたんだ。まあ、まだ形が残ってるだけマシだわな。赤と青は、跡形もなく消し飛んだんだから」


 老爺は更に続けて語ってくれた。


「元々は五つの塔があったんだ。赤、青、黄、緑、紫。その塔はそれぞれ花守とかいう魔女たちが管理していて、配下の魔女たちと共に王様と城を守っていた。そして、花守たちはスモウブルフの城下町も、五つの地区に分割してそれぞれ与えられていた。塔の色に倣って、赤の地区、青の地区……という具合にな。血の魔女がスモウブルフを襲撃してきた時、赤の塔と青の塔はその地区ごと消し飛ばされちまった。当然、そこの花守も死んじまった。黄の塔と地区も半壊したが、それだけで済んだとも言える。血の魔女も、大勢の魔女を相手にして疲弊してたんだろう。黄の塔の花守と大勢の魔女たちとやり合って、最期はあっけなく死んじまったって話だ」


 血の魔女はスモウブルフで死んでいたようだ。初めて知った事実と、彼女が最期に招いた災いを目の当たりにして、虚無感を覚えた。


 きっと、血の魔女は多くの癒えない傷を各地に残していっただろう。このスモウブルフや僕が先生に拾われたあの場所と同じような被害を死ぬまで与え続けて、そして死した後も傷は膿み、治る兆しを見せない。治ったとしても、その傷跡は一生消えないだろう。


「血の魔女が死んでくれたってのに、復興は全く進まない。人手が圧倒的に足りないってのもあるし、赤と青の地区は土地自体が駄目になって小屋の一つすら建てられないらしい。おまけに最近、血の魔女の亡霊が出るだなんて噂も立って、魔女たちが町中を巡回してひりついてる。静かに、しんみりと出来る場所はもう、あの図書館の裏しかねえんだ、俺にゃあ」


 老爺は酒瓶を逆さにして底に残った一滴を喉に落とすと、来た道を戻っていこうとした。まだ聞きたいことがあるので、老爺を呼び止めるようにして、それを聞いた。


「血の魔女の亡霊、ってなんですか?」


 老爺の足どりがふらふらと揺れる。戻るよう思えた足が建物の小道へと向かう道筋から逸れてその建物の前にある段差で止まり、そこに腰かけた。僕は老爺の隣に座り、彼が話すのを待った。


「数日前から、城の中に血の魔女と同じ臭いがする魔女が侵入して、何かを求めて徘徊してるらしい。白い外套を着ていて、見つけたと思ったら、ふっといなくなるもんんだから、血の魔女の亡霊って呼ばれてんだとよ。城に眠る宝を狙ってるのか、王様の寝首を掻こうとしてんのか、目的は分からねえが、鉄壁を誇るスモウブルフ王城に正体不明の魔女が入り込んだってんで、城内は大騒ぎだ」


 白い外套を着た、血の魔女と同じ臭いの魔女。それが現れた時期とシャマールが何処かへ行った時期が重なる。それに、館の前からスモウブルフに飛ばされた意味を考えると、その血の魔女の亡霊と呼ばれる魔女がシャマールであると考えざるをえなかった。


 血の魔女に施した血の刻印を持つ僕やマーニと接触する機会があったから、シャマールに血の魔女と同じ臭いを感じるのも間違いではないのかもしれない。だとしたら、僕もその臭いを放っているということになるが、そもそも、どうやってその臭いを判別できたのだろう。


「臭いなんて、分かるんですかね。動物じゃあるまいし」


「ラメラには簡単なことだ。あいつが飼ってる奴隷たちは鼻が利く。血の魔女の臭いなんか、血の魔女狩りの時から覚えてるだろうから、確かだろう」


 ラメラ、とは何者なのか。そう聞く前に、老爺は説明してくれた。


「ラメラは紫の塔の花守だ。この地区の奴らからすら、良い評判は聞かない。犯罪者や浮浪者、身寄りのない子供、とにかく身分が低い者をかき集めて、そいつらを魔法で自分の奴隷に変えちまう。強力な魔法らしく、奴隷となった奴は自我を失って、ラメラの命令だけに従う忠実な犬になっちまうんだ。俺だって、此処で寝泊まりさせてもらえなかったら、ラメラの奴隷になってたかもしれない。奴は人間を自分の駒としか思ってないんだ」


 親指で背後にしている建物を指しながら、そう言った。


「今、あの城壁の向こう側じゃあ、ラメラの犬たちが、血眼になって血の魔女の亡霊を探し回ってる。町の方でも夜になると、兵士と犬たちが巡回してる。少しでも怪しいと思われたら、否応なく捕まっちまう始末だ。そのせいで夜の酒場にも行けなくなっちまったから、俺ぁ明るい内に飲んでんのさ」


 老爺の飲酒事情はともかく、夜になる前にシャマールを見つけ出さなければならなくなった。魔女ラメラの犬たちに僕が嗅ぎつけられてしまったら、逃げ切ることはできないだろう。一人で帰るにも手段がないので、絶対にシャマールを見つける必要がある。限られた時間を無駄にするわけにはいかない。焦りが芽生え始めて、何をすべきか頭の中でまとまらなかったが、まずやらなければならないのは情報収集だというのは分かった。


 欲しいのはシャマール、血の魔女の亡霊の情報だ。その情報を目の前にいる老爺から搾り取れるだけ搾り取ることにした。


「実際に、血の魔女の亡霊は町の中に隠れていたりするんでしょうか」


 老爺は考えているような素振りを見せた。空の酒瓶に口を付けて、もう中身がないことに気付いてから口を離すと、長く息を吐いた。まだ残る呼気の酒臭さに顔を背けそうになったが、老爺は声を出す予兆を感じて、老爺の顔を見続けた。


「俺たちの耳に届くのは所詮、噂でしかない。町の連中は誰も血の魔女の亡霊なんぞ見ちゃいねえさ。でもよ、俺にはなんとなく心当たりがあるんだ」


 老爺は淀んだ瞳で正面を見ながら、言葉を続ける。


「亡霊騒ぎが起きる少し前、この後ろの図書館にな、いたんだよ。白い外套を羽織った魔女が。子供くらいの見た目だったが、あれは間違いなく魔女だった。暇潰しに本でも読もうかって、面白そうなもんを探してうろついてたんだが、まあ余所見しながら歩いてたもんだから、前から来るその魔女に気付かなかったんだ。魔女も魔女で本をたくさん抱えてたらしく、俺に気付かなかったんだろう。そのままぶつかって、魔女の持ってた本が床に散らばっちまった。俺ぁ、すぐに謝って本を拾うのを手伝ったんだが、その本はどれも魔女に関係した本だったんだ。なんだったかなあ。確か、イィルス王国における魔法のなんたら、とかいうのがあったな」


 その本には心当たりがある。書斎の机に積んであった本の一冊だ。シャマールは以前からスモウブルフに来ていたようだ。


「まあ、そんなもんばっかだったから、こりゃ魔女だなってすぐ分かった。そいつは礼も言わずに本を抱えて逃げてったんだが、その後ろ姿は白い外套がよく靡いててよ、今に思えば、亡霊のように見えねえことはねえなって。もし俺が出くわしたそいつが血の魔女の亡霊だったら、きっと城にそいつが現れたのは、何かを探してるからなんじゃねえか? まだ子供みたいだったから、色んな魔法を知りたくて、城の中に隠された禁書みたいのを探してるとかよ。好奇心で城ん中に潜り込んだら、意外と大事になっちまって後に引けねえんだよ。ただ、なんで血の魔女と同じ臭いがするかってのは謎のままだがな」


 貴重な情報を手に入れることが出来た。シャマールは僕たちの背後に立つ図書館に出入りをしていた。此処で血の刻印を解くための方法を探していた。顔を横に向けて図書館を見ると、僕たちの館よりも遥かに大きかった。王都にあるが故に大きく、そして数多の本を保管しているのだろう。だから、シャマールは自分の不知の学を得るために、この図書館を頻繁に訪れ、いくつかの本を館に持ち帰っていたのだろう。


 そして、今もシャマールはこの王都で手掛かりを探している。しかも相当の危険を冒して、マーニを救う可能性を見つけ出そうとしてくれている。僕はシャマールを助けたいと思って館を出たが、一人奮闘し続けるシャマールへ、水を差しに来ただけなのではないか。


 後ろめたさが過った。僕が血の魔女の追跡者が蔓延る場所に来てしまったことで、シャマールが負担を増やしている。それも本人が知らない内にだ。自分が犯した失態を和らげるには、やはりシャマールを見つけるしかない。合流して一度館に帰る以外に、この危機を脱する方法はないと思った。


「今はもう、その血の魔女の亡霊を図書館では見ないんですか?」


「俺が見たのも、それっきりだからな。もう来ちゃいねえだろうよ」


 町には下りずに、城の中に身を隠し続けているのだろうか。そうだとしたら、僕も城へ侵入しなければならなくなる。正面から入るなんて絶対に不可能だし、城壁を登って忍び込もうとしても、そんな体力はないし、すぐに見つかってしまうだろう。ましてや、血の魔女の臭いを追う犬たちがいるのだから、シャマールよりもその臭いが強いであろう僕が城に近付いたら、彼らに嗅ぎつかれて捕まってしまうのは間違いない。


 出来ることがあまりにもなくて、もうシャマールの方が僕を見つけてくれることくらいでしか、再会できない気がしてきた。それもシャマールは僕が王都に来てしまったことに気付いていないだろうから、見つけてくれるなんて偶然でしか起こりえない。結局、僕から何かしなければ、その偶然も起こしようがない。


 考えれば考えるほど自分の行動が裏目でしかないことに落ち込むが、嘆いてばかりでは先に進めない。僕は町の中でシャマールと会える可能性に賭けることにした。この広い町の中で、何の手掛かりもなく見つけ出すのは無謀かもしれないが、僕に出来るのはこれしかなかった。


 僕は老爺に礼を言うと、町の中を当てもなく彷徨い歩いた。大きな通りではなく、身を隠しやすそうな裏路地のようなところを重点的に探し、本を売る店や骨董品が置いてある店など、魔法に関わりがありそうな要素を持つ店には片っ端から入っていった。


 日が落ちるまでに見つけ出さなくてはならないので、なりふり構っていられなかった。体力の続く限り走って、これだと思った店に飛び込む。自分が何処にいるかも記憶する余裕がないので、同じ店に入って不審がられることもあった。そういったことを何度も繰り返したが、シャマールはおろか、その痕跡の一つすら見つからなかった。


 まだ日は高い位置にあるのに、僕は疲れ切っていた。成果を得られない労苦ほど辛いものはない。闇雲に走り回っていたら図書館のある大きな通りに戻ってきていた。老爺がいた段差の所に腰を下ろし、項垂れるような態勢で体を休めた。


 簡単ではないことは分かっていた。それでも自分が尽くせる努力はしたつもりだ。出せるものは出し切った。これ以上、何を絞り出せば僕は報われるのだろう。負の感情が溜まって重くなった頭は、どんどん沈んでいく。狭まる視界の上に方に、誰かの足が映り込んだ。首に力を込めて頭を上げると、鉄の鎧を着た兵士のような風体の男が目の前に立っていた。


「こんにちは。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」


 兵士は作り笑顔でそう聞き、僕の返答を待たずに問いかけた。


「色んなお店から連絡があってね。見慣れない子供がきょろきょろ見回った挙句、何も買わずに去っていくって。しかも、もう一度やって来て同じことを繰り返されたお店もあったっていうんだ。それで、その子供の右手に黒い模様みたいのが書いてあって、どうも普通な様子じゃないから、最近騒ぎになってる血の魔女の亡霊なんじゃないかって心配になってるんだよ」


 垂らしていた腕に力を込める。右手は固く拳を作り、決して開かないようにした。兵士の笑っていない目が僕の手を見ていた。


「私たちとしても、調べないわけにもいかないんだ。この町の平和を守るのが使命だからね。心苦しいけど、君のような子供にも疑いを向けなくちゃいけない。君はこの町の子じゃないよね? 何処から来たか言えるかい? それと、右手の掌を見せてもらってもいいかな?」


 冷えた血が体を巡り始める。思考が凍り付き、四肢が震える。捕まりたくない。その気持ちだけは熱を帯びたまま残ってくれていた。強く強く、何度も捕まりたくないと頭の中で唱えると、震えが治まっていく。正常に体が動くようになると、僕は兵士の脇を潜るようにして抜けて、只管に走った。


 兵士の声が聞こえてくる。僕を呼び止める言葉以外に、仲間へ向けた言葉も叫ばれた。鉄と鉄が擦れて軋む音を立てながら、足音は増えて言った。


 大きな通りから脱し、裏路地を駆けた。静寂の中にあった狭い裏路地は、僕と兵士たちの息遣いと足音で満たされた。本来は日陰でひっそりとしていたかった此処に住まう人々の機嫌を損ねてしまっているのを窓越しに覗いてくる顔を見て感じた。


 入り組んだ道を直感的に進みながら、分かれ道を何度も曲がって兵士たちを撒こうとした。彼らは手分けをしながら追ってきているようで、背後にいる追手の数は少しずつ減っていった。


 彼らが完全にいなくなるまでもう少しだろうと思いながら、横道に入っていく。しかし、入った道の先の方で、兵士たちが此方に向かって走ってきていた。


 引き返しても、後ろから追ってくる兵士たちと鉢合わせになる。かといって、このまま直進してしまったら、前から来る兵士たちに捕まってしまう。不幸にも一本の狭い道に入ってしまった。逃げる道は他にない。家の中に逃げ込もうとも考えたが、それでも結局、逃げ道を確保したわけではなく、袋小路に追い詰められるのと同じだ。


 家と家の間には、道とは呼べないほどの小さな隙間がある。僕ならば、なんとか体を滑り込ませられそうだ。鎧を着た彼らなら入り込むことは間違いなく不可能で、一時的には振り切れるだろうが、この隙間に入るので精一杯で、抜け切るのに時間が掛かる。彼らが無理して追わずに先回りしてきたら、逃げ場はない。


 もうあれこれと考えている時間もなくなってきた。前方からも後方からも兵士たちが近付いてきている。石造りの家の壁に手を付き、指を掛けた。これしかない。僅かな凹凸に指と足を掛けて、壁を登っていった。扉も窓もなく、それらを利用して登ろうとすることが出来ず、不安定な壁に指先と足先を集中させて、力を込めながら登っていくしかなかった。


 腕を迷わせる暇はなく。ただ上へ上へと向かわせて、指の掛かりか悪くとも、指を壁から離さずに体を持ち上げていった。


 兵士たちが追いつく頃には、壁の頂上に手が届いていた。平淡な屋根の上まで登り切った後に見下ろしてみると、彼らは罵声を上げながら、僕を睨んでいた。安心したいところだったが、兵士の内の何人かが隣家に入っていくのが見えた。この石造りの建物には入り口がなかったので、隣から僕のいる屋上まで来ようとしているようだ。


 力を使い果たして震える足に鞭を打ち、逃げ道を探して屋上をうろついた。周りを見回すと、近場の建物の屋根は傾斜があり、飛び移っても滑り落ちそうだった。何処が比較的、安全に飛び移れるかと考えながら、足元に視線を落とす。すると、くるくると回転しながら浮き上がる羽毛を見つけた。


 館で見つけたものと全く同じだ。あの羽毛に触れたことで、スモウブルフに飛ばされた。この羽毛に触れたら、同じように何処かへ飛ばされるのだろうか。


 躊躇いながらも、僕はその羽毛に触れた。あの時と同じ、強烈な風圧が羽毛から生じ、風に飲み込まれるようにして空へと飛ばされた。

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