重なる義

 ここ数日、シャマールは書斎から出てこなかった。何処からか手に入れてきた本の山を消化することに専念しているようだった。


 僕は館から出してもらえないので、貯蔵してある食材を使って食事を用意した。書斎に運び、目を皿にして本を読むシャマールの傍らに料理を配膳した。シャマールは文句を言うこともなく、出された料理を片手間に食べながら、本を読み続けた。ほとんど噛まずに飲み込むようにして食べるために、早々に皿は綺麗になり、さっさと片付けて去れ、と言わんばかりの視線を一瞬向けて、また本に集中した。


 これを朝昼晩に繰り返す日々が続き、いよいよ食糧も尽きかけてきたので、昼食の折に買い出しに行かせてもらうように懇願した。


「君に食べさせるものがなくなってきてる。町に買い物へ行きたいんだけど、駄目かな」


 シャマールは一瞥すらくれずに言った。


「駄目。町の人間をつまみ食いされたら、堪ったもんじゃない。私が適当に買ってくるから、書斎の掃除でもしていろ」


 相変わらず棘のある言い方だったが、シャマールは僕の仕事を迷惑だとは思っていないようだった。食事の用意くらいしかしてなかったが、今、シャマールの城とも呼べる書斎の掃除を頼んでくれた。ある程度は僕のことを信用してくれているのかもしれないと思った。


「机の上にある物は片付けなくていい。埃が酷いから、帰ってくるまでに床だの本棚だのをなんとかしてくれ」


 シャマールは気怠そうにしながら、書斎を出ていった。彼女が買い物にどれだけの時間を使うのかは分からない。帰ってきてから小言を言われるのは嫌だったので、効率良く行うことを意識して掃除を始めた。


 シャマールの定位置である机の周りを重点的に掃除し、近くにある本棚から順に埃を落として、綺麗にしていった。先生との生活で培った技術は活きていて、時間を掛けることなく、あっさりと書斎の埃を排除できた。部屋の中を歩いて見回り、完璧な状態であることに愉悦を覚えた。


 整理された本棚の本を指でなぞりながら悦に入っていると、机に雑然と置かれている本が目に付いた。シャマールは手を付けなくて良いと言っていたが、あまりに汚いので気になってしまった。


 思っていたよりも早く掃除を終えたし、シャマールも帰ってきていない。お節介かもしれないが、机の上も綺麗にしておくことにした。適当に積まれた本を整えようと手を伸ばすと、一番上に乗っていた本の題名に気を取られた。


『イィルス王国における魔法学史、および魔女の変遷 ~リンネの園の創設~』と書かれている。イィルス王国とは僕たちの住む国の名だ。リンネの園というものの名は微かに聞いた覚えがある。詳しいことは分からないが、イィルス王国に属する魔女の軍隊をそう呼んでいる人たちがいるらしい。


この本は王国の魔女たちの歴史が綴られているのだろうか。気になったので、開いて中を流し読みしてみた。学術書らしく難解な言葉が並べられているので目が滑った。ほとんど内容を理解できなかったので諦めて閉じようとした時、ドアの開く音が聞こえた。


「何を勝手に読んでいる」


 シャマールが帰ってきた。呆れた口振りでそう言っている間に、僕は急いで本を机に戻そうとした。だが、慌てていたために、積んでいた本が崩れて、床に散らばってしまった。シャマールは大きな溜め息を吐いた。


「余計なことばかりしてくれる。もういいから、飯の準備でもしてくれ。久しぶりに人間と話さなくてはならなかったから、変に体力を消耗させられた」


 シャマールは本を拾おうとする僕の手を払い、書斎を出る様に促してきた。手間を煩わせたことに情けなさを感じたが、シャマールは必要以上に責めてこなかった。何も言わずに、床に落ちた本を前と同じ並びで雑に積み上げていった。


 僕のことは眼中に入っていないようだったので、言われた通りに食事の準備をすることにした。申し訳なさだけを見せながら書斎を出ていき、厨房に小走りで向かった。シャマールは何も考えずに買い物をしたようだ。統一性のない食材を前にして、献立を考えるのに苦心した。気取ったものは作れそうになかったので、適当に煮込んでシチューを作るしかなかった。シャマールからの難題に答えられなかったような感じがして悔しかったが、悪いのは作る側の気持ちに立てないシャマールだ、ということにして気を落ち着かせた。




 空になった皿を下げようとすると、珍しくシャマールが声を掛けてきた。


「血の刻印を見せてみろ」


 手を皿から離し、掌をシャマールに向ける。血の刻印はまだ輪郭を鮮明にさせていた。シャマールも状態を把握し、小さく頷いた。


「差し迫ってはいないな」


 本に視線を戻してそう言った。シャマールが読んでいる本は、僕が少し中を見た王国の本だった。


「……リンネの園」


 つい口から言葉が漏れた。シャマールは訝しんで僕を見た。


「魔女でもないのに、こんなものに興味を持つなよ。無意味な知識が身に付くだけだ」


「でも、魔女とか魔法をある程度でも理解していたら、僕でもマーニを助ける方法を見つけられるかもしれない」


 シャマールは鼻で笑った。


「無理に決まってるだろ。お前はただの人間だ。魔法を使えない男の小童が、魔法に対抗する手段を得られるわけがない。お前が女だったら、砂の一粒くらいは可能性があったかもしれないがな」


「女だったら、ってどういう意味?」


 意味ありげな言葉に僕は素直に疑問を返した。シャマールは逡巡するように視線を宙に向けた後、本を閉じて机に放った。


「魔女と呼ばれる者たちがどうやって生まれるか、知ってるか?」


 考える間もなく首を振った。


「知らない」


「魔女っていうのは、元は普通の人間なんだよ。普通の人間の年端も行かない少女が、ある日突然、体の内側にはっきりと認識できる異常な力が芽生え、自分の感覚にこの世の理が溶けて混ざっていき、魔女として進化する。幼い女の子に限って、そうなる可能性を持っているんだ。何故かは分からないがな」


 魔女が僕と変わらない、ただの人間から成った者だとシャマールは言った。五十年以上生きていると自称する少女の言葉を、そのまま受け取るには抵抗があった。だが、シャマールの背後に先生の幻影が見えたような気がして、それが正しいと思わせられる理由となってしまった。


「大抵はその才が発現する前に、魔女によって秘密裏に攫われる。自分の後継者が欲しいとか、都合の良い下僕として使えるとか、まあ理由は数多だが。だから、人間は魔女が人間だったなんて知る由もない。あいつらは悪魔に魂を売ったから魔法が使える、だとかいう与太話を人間どもは平然と信じている。まったく見てみたいものだ、悪魔とかいう妄想極まった化け物をさ」


 魔女が人間たちに気味の悪い存在だと思われていることは実感していた。町の人たちから感じる先生への風当たりの強さは、血の魔女狩りで魔女への懸念が大きくなったとはいえ酷いものだった。魔女への異常な偏見が人間たちに根付いているのは、悲しいことでもある。個々を見ずに、魔女と呼ばれる人々を一緒くたに捉えて、自分たちに災厄を齎したたった一つの巨大な悪を万象とする。その悪から救ってくれたのも魔女だという事実を、彼らは見て見ぬふりをしている。僕が解せない理屈を、多くの人たちは当たり前のように持ち合わせていた。


「魔女が悪に染まった存在ならば、その身を犠牲にしてまで誰かのために戦おうとはしない」


 思わず呟いてしまった。先の血の魔女狩りでの王国軍の魔女たちだけを指した言葉ではない。マーニを救おうとして命を捧げてくれた先生、そしてシャマールも、この言葉の意味を真実にしてくれる人物だった。ただ、何故シャマールが僕たちを助けてくれるのか、その理由はまだ分からなかった。


 シャマールはじっと僕のことを見つめていた。目を細めて、少しだけ口角を上げて黙って見ている。何かを測られているような感じがして、気持ちが悪かった。耐え切れなかったので、シャマールの視線から逃れる様にして顔を逸らした。


「師匠の遺言通り、子供の割には分別が良くできるらしい。それも師匠の教育の賜物か?」


 霧の中に隠れていたものが、見え始めようとしているのを感じた。この絶好の機会を今を逃したら、次はいつ訪れるのか分からない。僕はシャマールが僕から興味を失う前に、彼女の言葉に食い下がった。


「先生は君に遺言を残したの?」


「ああ、そうだ。でなければ、お前たちなどとっくに見捨ててる」


 シャマールは机の引き出しから、二枚の便箋を取り出した。


「まず最初に、師匠は私の下に手紙を寄越してくれた。内容はほとんどない。世話をしている子供に血の魔女が宿ってしまったので助力を頼む、と。師匠は常にとても丁寧に字を書くのだが、この手紙に書かれた文字は走り書きされてかなり読みづらかった。緊急性を感じて私は旅を中断し、国を三つ跨いでこの館にやってきた。だが、もう遅かった。お前が作ったみすぼらしい墓を信じられるはずもなく、師匠がいつも籠っていた書斎で真実を確かめようと思った。そこには師匠の姿はなかった。師匠が使っていた机の上には薄汚い紙の束と、この遺言書が置いてあった」


 取り出した便箋の一枚を誇示するようにはためかせた。


「私が来るまで持ちこたえられないと踏んで、これを残していたようだ。もう自分は充分に生きたから、未来への希望と無限の可能性を持った少女を自分の命を捨ててでも救いたい、と書かれていた」


 先生が自ら口にした理由とは異なっていた。先生は自分の妹である血の魔女が犯した罪を償うために死を選んだ。おそらく、シャマールには先生と血の魔女に血縁関係があることを教えていないのだろう。


「そして、自分の命でも救えなかった場合、全てが終わってから来るであろう唯一にして最後の弟子であるシャマールに、血の魔女に取り憑かれてしまった子供たちを託す、と。師匠を殺した奴を救わねばならないのは釈然としないが、私以外に師匠の望みを叶えられる者はいない。血の魔女の器がいるなど大衆に知られては、お前たちはあらゆる手段で殺されるだけだしな。師匠と私に感謝するがいい」


 まだ、見えてこない。先生には先生の大義があった。僕とマーニを匿うということは血の魔女の復活を手助けしていると取られかねない。その危険な行為に加担するだけの大義がシャマールにも確実にあるはずだ。


「でも、それだけじゃ、先生に言われたからってだけじゃ、君が僕たちを庇う理由にならない」


 シャマールは鼻で笑った。


「なるんだよ、充分な理由に。師匠が私に託した。だから、お前たちを救う。それ以外に必要な理由などない」


 分からなかった。シャマールの返答に迷いはなかった。ただ先生に言われた、というだけで血の魔女に侵された者を救おうという意志を持てるのか。


「師匠が残してくれた紙束は、古文書の一片だ。古の時代、命を思いのままに操ろうとした魔女の備忘録らしく、師匠はこれを解読して、血の魔女がお前たちに施した魔法を解き明かそうとした。まあ、全ての解読が終わる前に血の刻印に限界が来てしまったんだが」


 先生のお使いで買ってきた紙の束が、自分たちに深く関わる代物だとは思いもしていなかった。もしかしたら、先生は血の魔女が殺されても、何かしらの手段で復活すると思ってそういった魔法に関するものを手に入れようとしていたのかもしれない。


「師匠はこの紙束の半分くらいまで解読していた。それを翻訳したものを読んだが、確かに血の魔女がお前たちに付けた血の刻印に類似した現象が書かれていた。詳細をいくら話しても理解できないだろうから割愛するが、これを書いた魔女はあくまで魔法の体系的にそれが可能であることを立証しようとしていただけで、魔力や魔法式の問題で実現は不可能だとしていた。だが、げに恐ろしき血の魔女は、この古文書を何処かで手に入れて、実行してみせたわけだ」


 シャマールは積まれた本の脇から古文書を引っ張り出して、ぺらぺらと捲った。


「まだ解読の済んでいない部分に、魔法を解除する方法が書かれているはずだ。まったく、魔法史について真面目に学んでおくべきだった。師匠がもう少し厳しい人であれば、私の頭の中に無理矢理、知識を詰め込んでくれたのだろうが。黴臭い歴史など学んでも、私や師匠が欲しいものは手に入らないなんて思っていたために、こんな苦労をさせられる」


 古文書を机の上に戻し、背もたれに添って体を伸ばした。


「休憩しすぎたな。お前も自分の仕事に戻れ」


 そう言うと、シャマールは本と古文書を読むのに没頭してしまった。僕には一切視線を向けないが、話しかけられるのを許さない圧力だけは明確に感じ取れた。


 もっとシャマールのことが知りたいと思っていた。シャマールが充分だとした、その理由には、まだ隠された何かがある。僕に出来ることは彼女の心を知ることなのかもしれない。




 眠れずに夜が更けていった。ベッドに入る気すら起きず、部屋の中を所在なく歩き回った。


 時折、窓の外を見るが、暗い闇が空を閉ざしたままで変化も情緒もなかった。眠気も一向に襲ってこないので、どうしたものかと考えた末にシャマールはこの時間に何をしているのかが気になり、確かめてみることにした。


 暗く冷え切った廊下をひたひたと歩き、書斎へ向かう。書斎のドアを静かに開けて、中を覗くと、奥の方で蝋燭の灯に照らされて机に向かうシャマールの姿が見えた。どうやら、まだ眠らずに調べものを続けているようだ。


 マーニのために寸暇を惜しんでいるシャマールの邪魔をしたくはない。無関係であるはずなのに、自分たちに尽くしてくれるその姿が一層に、彼女の見せていない心の内を知りたいと思わせた。


 気付かれないようにドアを閉めて、厨房へ急いで向かった。パンを薄切りにし、ハムとレタス、ピクルスを挟んだ、片手で食べられる簡単な軽食を作り、先生が遺してくれたハーブティーを淹れて、書斎に持っていった。


「シャマール」


 ノックをしっかりして、シャマールの返事を待つ。反応は少し間を置いてから返ってきた。


「入れ」


 トレイを抱えながら慎重にドアを開けた。一直線に灯りのある方へ向かっていくと、シャマールは無言で机の上を片付けて皿を置く空間を作った。


「凝ったものじゃないけど、お腹空いてると思って」


 机の上に皿とティーセットを置くと、シャマールの手がパンに伸びた。小さい口でちまちまと食みながら、椅子に片足を乗せて太腿の上に立てかける様に本を置いて読んでいた。


 僕もシャマールも、何も喋らなかった。僕は食事が終わるのをシャマールの背後で待ち、シャマールは僕を意に介さずに、行儀悪く食事をしていた。


 食べるものがなくなり、ハーブティーに手が伸びた。一口、それを含めた後に溜め息と共に声が漏れた。


「懐かしいな」


 ティーカップに視線を落としながら、シャマールは言葉を続ける。


「こうして夜遅くまで魔法の研究をしていると、師匠もハーブティーを淹れてくれた。飲むと頭も体も休みたがって、研究どころじゃなくなる。師匠は私に無理をさせたくなかったのだろう。それを直接、口にして言わずに伝えてくるのだから、ずるい人だ」


 シャマールは不意に振り返った。


「お前にも、そうだったか?」


 僕を小さく首を横に振った。


「どちらかと言うと、僕がそうする側だった。先生は食事すら忘れて読書に没頭するから。マーニの体を良くしようと思って本を読み漁っているのは知ってたけど、それでも先生に無理はしてほしくなかった」


「師匠がいなくなると、後ろ盾がなくなるからか?」


「そんなふうに考えたことはないよ。僕とマーニに居場所をくれたから、その恩を返さなくちゃって。それだけのことだよ」


 だが、返すべき恩を返し切れずに先生は逝ってしまった。死の原因さえ僕たちが作ってしまった。受けた恩に仇でしか返せていないことを、今でも後悔している。


「もっと何か、してあげられることはあったんだろうな。先生が求めてること全部をやってあげたかった」


 そう嘆くと、シャマールは椅子を横にして、半身で僕と向き合った。


「何故、もう恩返しが出来ないと決めつける? 私は今も、師匠に恩を返している最中だぞ」


「え?」


 つい間抜けな声が出てしまった。シャマールはそれに構わずに話を続ける。


「師匠は私の魔女としての師だけではなく、人としての恩師でもある。今より遥かに小さい頃、魔女の力が覚醒した時、生みの親の前でそれが露わにしてしまった。あらぬ噂が立つのを恐れたのだろう、私は両親に人の寄り付かない深い森に連れていかれ、そこで置き捨てられた。理解が追いつかず、父と母を求めて泣き叫びながら暗く怪しい森を彷徨っていると、薬草採りをしていた女性と遭遇した。彼女は一目で私が魔女として覚醒していることに気付き、こんな所にたった一人でいる訳も見抜いた。不安と恐怖で潰れそうになっていた私を抱きしめて、こう言ってくれた」


 シャマールは一息、間を置いて言った。


「安心して。私は何処にも行かない。君が泣き止むまで一緒にいてあげる」


 清らかな言葉だと思った。救いを求める者にとって、これほど頼りになる言葉はないだろう。


「その人は、ハクと名乗った。自分は魔女で、君の中で目覚めた力を正しい方向に導けると言ってくれた。その言葉通り、私は彼女に導かれた。彼女と共に生活し、魔法の研鑽を積み、一人で生きていくのに充分な魔女となった。彼女が、師匠が私を見つけてくれなければ、あの森で獣に食い殺されるか、野垂れ死んでいただろう」


 境遇が似ていた。シャマールも僕たちと同じように、先生に命を救われていた。昔の先生も、僕がよく知る情に厚い人だったことに安心した。


「師匠は本当に多くの魔法を熟知していた。私も師匠に負けじと本を読み漁ったが、知識の量も魔法の扱いも、師匠の足元にも及ばなかった。それでも挫けずに魔法の鍛錬を続けていたが、ある日、師匠は私に破門と追放を言い渡した。突然のことで動揺し、師匠に激しく詰め寄ったのをよく覚えている。私が不出来な弟子だからなのか、それとも一緒に生活するのが苦痛になったのか。様々に理由を問いただしたが、どれにも首を縦に振らなかった。吐ける言葉もなくなり、感情が沈み始めた頃に師匠は答えを教えてくれた。常に魔法というものの在り方に疑問を抱いていたらしく、この超常的な力がか弱き人々に還元されていないのではないか。反対に、そのような人々を不幸に陥らせているのではないか、と悩み続けていたという。そうした疑念と苦悩が膨れ上がって耐えられなくなってしまい、魔法を捨てて魔女として生きるのをやめる、と。申し訳なさそうにそう言った師匠に、私は考えなおしてくれ、と追い縋ることは出来なかった。師匠を恨んではいない。私を人としても魔女としても育ててくれた人は他の誰でもなく師匠だ。例え破門となっても、師匠の意志は継ごうと思った。誰も不幸にしない、絶対の幸福を齎す魔法を求めて、旅に出ることにした。イィルス王国だけでなく外の国を色々と放浪してきたものの、目当ての魔法は未だ見つかっていない。これじゃあ、師匠への恩返しが出来ないともどかしさを感じていたところに、師匠から手紙が届いて今に至る、ということだ。もう師匠に幸福を齎す魔法を見せてやれないが、師匠の最期の頼みごとは聞いてあげられる。師匠が命に代えても守りたかったものを、私も命を懸けて守ってやる。それが私の恩返しだ」


 シャマールはカップのお茶を一気に喉に流し込んだ。空になったカップにポットに入っているお茶を注ぐと、今度はカップの淵を唇に添えながら言葉を発した。


「ずっと気になっていたんだが、どうしてお前は師匠のことを先生と呼ぶのだ?」


 当たり前のように『先生』と呼んでいたので、そう聞かれると少し思案しなければならなかった。思い出したのは極めて単純な由縁だった。


「マーニの看病とか薬を作ってくれたし、僕にも家事と、たまに勉強も教えてくれたから、そういうこと全部含めて僕たちの先生だなって思って、そう呼んでた」


 シャマールはカップから口を離して、笑い声をあげた。


「なんだよ、それ。医者で教師ってことか? 魔女を捨てたと思ったら、そんな肩書きが付くとはな」


 堪える様な笑いが言葉の後ろに続き、今まで見たことのない笑みを浮かべていた。


「まあ、何を教えるのも上手い人ではあったか。だったら、こんな陰気な場所に引き籠らずに、町の子供たちのために学び舎でも開けばよかったのに」


 冗談を言う声色も明るく、見た目相応に感じられた。そうした姿を見て、やっとシャマールを知ることが出来たのだと思った。


 師匠と先生。呼称は違えど、その人は僕とシャマールに大きな影響を与えてくれた。シャマールは師への恩を返すために、僕たちを救おうとしてくれている。その一途な思いは見習わなければならない。


 マーニへの思いは変わらない。それが揺らがずにいられる、と自信を持って言える。だが、あるのは意志だけだ。マーニを救う力が僕にはない。それを持ちうる人を頼るしか出来ない。


 シャマールは大切な人だ。動機に差異はあるが、成し遂げようとしていることは僕と一致している。僕にない力と知識をシャマールは持っている。それを惜しみなく使ってもらわなければ、マーニを救うことは叶わないだろう。


 僕に出来るのはシャマールを支えること。それが今、マーニを救うための最上の手段だ。

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