風来の魔女
遺言に従って、館の外に墓を作った。先生はこうなることを見越していたのか、墓標になり得る石板を二つ、館の裏手に用意していた。僕が抱えて持つには少し大きくて重いものだったが、それを一つずつ、開けた場所へ運んでいった。
掻き集めた白い灰が入った小瓶を地面に埋めて、その上に石板を置いた。名前を彫るための道具はなかったため、手頃なナイフで削っていくしかなかった。ナイフの柄尻を拳で叩きながら、石板を少しずつ傷付けていく。遅々として作業は進まなかったが、終わらなくて良いと思った。これが済んでしまえば、僕にはもう何も出来ることが残されていないからだ。
先生が僕に残したのは自分自身の後始末だけだ。マーニが血の刻印から解放されなかった時にどうすべきなのか、教えてくれなかった。
マーニの命は助かったかもしれないが、それは一時的な物で、先生の心臓を食らったことで血の魔女の復活への道は続いてしまっている。確認したところ、マーニの血の刻印も、僕の掌のそれと同じように色を濃くして紋様を拡大させていた。先生の犠牲はただ単に、マーニの死を先延ばしにしただけだ。
儚いものだ。死が死を招き、何もかもを終わらせていく。僕も血の魔女に心を腐敗させられていくのを感じる。マーニはどうだろう。眠り続けるマーニの心は、まだ強く輝いているだろうか。幼い時から数々の困難を抱え、やり過ごしてきたマーニは以前と変わらずに、大きな夢だけを見ているのだろうか。僕の心の腐敗を止めてくれるのはマーニだけだ。マーニが目を覚まし、その燦然とした眼で僕を見てくれさえすれば、僕の心の腐った部位を切り捨てることが出来る。其処に未練がなくなる。失ったものの重さを忘れられる。
石板に名前を刻み終えてしまった。『ハク』と記した墓標を呆然と眺める。もう一つ墓を作る様に言われていたが、作る気が失せていた。血の魔女は死んでなどいない。マーニの体の中に潜み、命を肥やしに雌伏の時を過ごしている。
まだ、なのだろう。エリュティアの墓を用意するのはマーニから血の魔女を消し去ってからだ。でも、
「無理だよ、先生」
僕には何の力もない。知識もない。頼る人も、もういない。マーニを救う術を一切持っていない。ただマーニが死んでいくか、血の魔女となるか、そのどちらかの結末を見届けることしか出来ない。
ざわざわと木々が騒ぎ出した。冷たい風が僕の頬を叩くように吹く。いつもなら密集した木々が館まで来る風を弱めてくれるが、今日の風は先生が築き上げた防風林を槍のような鋭さで貫いた。
木々のざわめく声が大きくなっていく。吹き付ける風も強さを増す。風音が煩わしく耳に響き、砂が巻き上げられて目に入ってしまった。目を瞑り、風を耐えようとしていると、地面から風が巻き上げられるのを感じた。風音が空へと逃げていくと、木々は次第に静まっていき、穏やかな空気を取り戻した。
目に入った砂を拭い、視覚を回復させる。ぼんやりとだったが、人の姿が見えた。ローブのような白い布で体を覆っている。フードを被った頭からは癖の強い髪が肩まで伸びている。その人物が此方に近付くにつれて視覚も元に戻っていった。
身を包んでいた白い布はローブではなくマントだった。身の丈には合わない大きさのマントを、体に巻き付けていたようだ。フードを取り、はっきりと顔立ちが見えるようになると、女性であることが分かった。マーニよりは年上、僕と同年代くらいの少女だ。
「師匠はどこだ」
少女は僕を睨みながら、不躾に聞いてきた。状況も分からないのにそう聞かれても、返せる言葉はなかった。
「師匠はどこで、なにをしているのだと聞いている」
苛立ちを隠す様子もなく、強い語気で再び問いただしてきた。少女の高圧的な態度が却って我に返らせてくれて、その問いかけに応じる助けとなった。
「師匠って誰のこと? それが分からないと答えられない」
少女はわざとらしく舌打ちをすると、足元に視線を落とした。視線の先にあるものに気付くと、目を見開き、屈みこんでそれを見た。
「まさか……まさか、そんな……」
少女は墓にぎこちなく刻まれた文字を凝視し、瞳を潤ませた。分かったような気がする。少女が言っていた師匠とは、ハク先生のことなのだろう。少女の師匠が先生ならば、彼女の正体も自ずと見えてくる。先程の類を見ない強風や少女が突然、目の前に出現したこととも辻褄が合う。
「君は魔女なの?」
少女は僕を見上げた。鼻を赤くし、唇を震わせている顔からは先生への強い思いを感じた。
少女から答えが返ってこなかった。じっと睨みつけられたかと思うと、少女は徐に立ち上がり、館の方へ歩いていった
「ちょっと、待ってよ」
少女の後を追いながら、館の中へ入った。少女は足を迷わせることなく、何処かへと向かっていた。目的の場所が先生の書斎であることは、其処に近付いてきたことで判明した。
書斎に来るまで後を追われているのを気にしなかった少女だったが、書斎のドアを開けると、ひと際険しい視線で僕を睨んで牽制し、部屋に入った瞬間に叩きつけるようにしてドアを閉めた。
少女はそのまま書斎に立て籠り、結局その日は出てこなかった。少女の正体、先生との関係が気になった。明日になれば、それを話してくれるだろうか。先生がいなくなった今、頼れる者もない僕たちに、あの少女は何を齎してくれるのだろうか。
吉兆か、凶兆か。
月明りが差す明るい夜。地下室から部屋に連れて戻したマーニの、変わり果てた寝顔を見ながら、僕は静かに瞼を閉じた。
深い眠りに就いていたのだと思う。意識が戻ると同時に瞼が自然と開いていき、固くなった体の痛みに小さな悲鳴を上げた。
窓から差す光には朝の日差しの眩しさはなかった。落ち着き払って澄ましている白昼の光だ。マーニのベッドから枕にしていた腕を下ろし、そこにいるはずのマーニを見た。だが、ベッドの上にマーニの姿はなかった。
跳ねるように立ち上がり、ベッドをよく見る。自分が顔を埋めていた場所はシーツが縒れて皺になっていたが、マーニが横たわっていた大半の部分には掛けていた厚手の毛布がなくなっていて、丸出しになったシーツにはマーニが横たわっていた痕跡が皺となって残っていた。
もぬけの殻になっていたベッドから離れて、部屋を見回す。ベッドの下や鏡台の陰など、マーニが隠れられそうな所も探したが、マーニはいない。
右手の掌を見る。そこにはくっきりと血の刻印が刻まれている。血の魔女の魔法が解けて、一人で何処かへ行ったということではない。誰かに連れ去られた。誰かが、マーニを僕から奪っていった。
犯人がすぐに脳裏を過った。昨日、いや昨日かどうかも定かではないが、とにかく館に断りもなく入り、先生の書斎に閉じこもった小さな魔女が攫っていったに違いない。理由など知る由もないが、マーニを取り戻さなければならない。
部屋を出ようとドアへ走り寄っていく。取っ手を掴み、乱暴に引っ張った。だが、ドアは壁とくっついているかのように、ぴくりとも動かなかった。引いても押しても開かず、物音すら立たない。拳で叩いても、体ごとぶつかりにいっても、微動だにしなかった。
ドアから部屋を出ることを諦めて、窓からの脱出を試みることにした。だが、窓も同じように、何をしても開くことはなく、脱出する道は絶たれてしまった。
「出してくれ! マーニは何処にいるんだ!」
強固なドアを叩きながら、部屋の外に向かって叫んだ。叫ぶ度に声を強めて、絶叫と呼んでも差し支えない、惨めな声を出し続けた。
もはや自分の声以外は耳に入らなかった。誰かが部屋に近付いてきたのに気付いたのは、此方側からは何も反応を示さなかったドアの外側から、何故か荒い音と衝撃が伝わってきてからだった。
「耳障りなんだよ、黙ってろ」
その声は魔女の少女のものだった。慌てて彼女にマーニのことを問う。
「マーニは何処にいるんだ。返せよ!」
「あんな死人も同然の人形、何処にいたって変わりはしない。だが、お前は別だ。勝手をやられて、贄を蓄えられちゃ困るからな。そこで大人しくしてろ」
少女は血の刻印のことを知っていた。マーニが血の魔女になってしまうことも知っているだろう。世界に恐怖と死を振り撒いた悪が復活するとなれば、何をしてでも阻止したいはずだ。
僕にとっての最悪はマーニが死ぬことだ。もし、この少女が血の魔女を蘇らせない方法としてマーニを殺そうというのなら、絶対に止めなければならない。
「お願いだ。マーニには何もしないでくれ。あの子は何も悪くない。何も悪くないのに、耐え難い、辛い試練ばかりが与えられるんだ。僕なんかより立派で輝きに満ちた未来を持っているマーニの命を奪うのだけはやめてくれ」
ドアの向こう側は静かだった。だが、少女の気配はなんとなく感じた。残り続ける僅かな気配に縋る様にして、ドアに凭れ掛かった。暫くすると、少女が此方に微かに聞こえる程度の声量でこう言った。
「師匠を殺したくせに」
ドアを蹴る衝撃が体に届いて、驚きのあまりドアから離れた。もう一度、耳をそばだてたが少女の気配は遠ざかっていた。
外を探る意味もなくなったと思い、ベッドに戻った。枕を抱え込み、染み付いたマーニの残り香で気を紛らわしながらも、少女が最後に言った文句に心を淀ませた。
僕は先生を殺した。僕はマーニを救うために、先生はエリュティアの罪を償うために、お互いの利によって先生の命は消えることになった。先生は死んだことで己の全ての重荷を下ろしたのだろう。でも、僕は先生の命さえも背負うことになっていた。その重みを今、初めて実感した。僕は人殺しだ。どのようにして僕が先生を殺したことを知ったのかは分からないが、少女は僕に対してその罪を突き付けてきた。
先生を殺さなければ、マーニは死んでいた。だが、それで得た命には、まだ血の魔女の呪いが残っている。再び血の刻印が薄くなったら、僕はまた誰かの心臓を食らわなければらなくなる。そうしてマーニは死から遠ざかり、血の魔女に近付いていく。マーニを死なせないためには、僕は人を殺し続けなければならなくなるのだろう。心臓を食らうことは、マーニを救うことに繋がらない。血の魔女の復活を手助けするだけでなく、人を殺せば、その命と罪を僕が背負わなければいけなくなる。
あの少女が表したような恨みだって買うだろう。恨み、怒り、非難。その負の感情と数多の死体の上にマーニか、血の魔女が立つことになる。それが血の魔女なら、などと考えたくはない。
マーニには悟らせたくない。自分の命が、多くの犠牲の下に救い出されたことを。僕だってこれ以上、命を奪いたくない。もう既に掛け替えのない命を失っている。先生が死んだことで僕が味わっている悲しみを、あの少女も同じように感じているだろう。この先、誰かの命を奪えば、何度だってそれを味わい、傍らに負の感情が寄り添ってくる。血の刻印に踊らされることなく、マーニがこの呪縛から解放される術を見つけ出さなければ、僕は笑ってマーニの目覚めを迎えられない。
でも、そんな日は来るのだろうか。他者の命を奪うことも、マーニが目を覚ますことも、今のままでは起こりえない。その二つを成し得る僕は、小さな魔女によって外界と断絶させられてしまった。
幸と不幸、相半する感情が心に同居していた。だが、現状を噛み締める内に、その比率は狂っていった。この不条理さに耐えられない。もどかしさで体中を搔きむしるようになった。
何をすれば良いのか。何が出来るのか。僕に与えられた使命は、この檻の中では遂げられなかった。鉄のように硬くなった窓を通して、過ぎていく時間を漠然と眺める日々が続いた。
心が煮え出してきた。見えるのは太陽と月だけ。聞こえるのは窓を叩く風の音、小鳥の呑気な囀り。
玄関から人の出入りの音が偶に聞こえる。あの少女だと思う。少女が館を出る時は、玄関のドアが開く音の後、窓が悲鳴を上げるほどの風が吹く。帰ってくる時には、風が先にそれを知らせて玄関のドアが無遠慮に開く。昼夜問わず、少女は館の出入りを繰り返し、それが数刻の内にある時もあれば、何日も間隔を空けてくる時もある。出ていってからどれだけ日にちが立っても、少女は必ず館に戻ってきていた。
冬は目前まで来ているのだろう。窓越しに見える景色は代わり映えしないから、体の感覚で季節の節目を感じ取った。
時間の経過を如実に示していたのは掌の血の刻印だった。先生を食らって薔薇のように瑞々しい紅の色で描かれていたそれが、今や日光に照らして見れば、鮮度を失った魚の腸のような赤色に代わっていた。
血の刻印の変色はマーニの命の消耗を示している。このまま何もしなければ、血の刻印は消えて、マーニが死ぬ。血の刻印が残っている内に、行動しなければならない。マーニを救う道を探さなければならないのに、部屋からは出られずにいる。
もどかしさが不安を呼び、焦りを生み出す。このままではマーニは死ぬ。僕は何もせず、助けようともせず、掌を眺めながらマーニを見殺しにする。僕の生きる希望が潰える瞬間を、僕の命と呼べる最愛の妹が死ぬのを、掌で感じなければならなくなる。
募った焦燥が頭の中で膨れていく。あらゆる思考がそれに飲まれて機能しなくなっていく中、最後に残った沈着な感情の一つはそれに圧迫されながらも生き延びていた。
掌に血の刻印があるということは、薄くなっているということは、マーニがまだ生きている証だ。マーニは、あの少女に殺されずに何処かで無事にしている。それが分かっただけでも、微量の安寧を取り戻せた。その安寧を無にしてはならない。それを原動力として、この部屋でやれることを探すことにした。
肌に感じる冷たい空気に考えが向いた。ドアや窓の隙間から流れ込んできたのだろうか。試しに床に這いつくばってドアの下を覗き込んだ。
鼻腔に入ろうとしてくる埃が嫌だったが、我慢して頬を床に張り付ける。確かにドアと床の間に隙間はあり、その隙間からは廊下に敷いている赤い絨毯が少しだけ見えた。
得られた情報はそれだけだった。誰かがいる気配も、いた形跡もない。そういえば、少女は昨日から館に戻ってきていない。この部屋から抜け出す絶好の機会であるはずなのに、どんな手段を用いても、ドアと窓は開いてくれない。マーニがいる世界へ続く隙間に指さえ通らなかった。
赤い絨毯を未練がましく見ていると、床を通じて物音と微かな振動が耳に届いてきた。。引きずるような重たくて鈍い足音が聞き取れる。
少女が帰ってくる報せの風は吹かなかった。少女ではない何者かが、館に入ってきたようだ。足音は何かを探すように右へ左へと彷徨い、時々立ち止まって逡巡するような足取りを聞かせた。
少女の仲間とは思いづらい。留守を狙って、物取りが侵入してと考えるべきだろう。僕にとっては、盗まれて困る物はもう置いていない。どれだけ奪われても、失っても、何の意味もない。でも、もしマーニが館の何処かに匿われているなら、今の事態が大きな問題になる。
物取りがマーニを見つけてしまったら、何をされるか分からない。攫われるのか、乱暴されるのか。想像すらしたくない結果が勝手に頭に浮かんでくる。
嫌だ。マーニを奪われたくない。マーニを他の誰にも触れさせたくない。マーニを守れるのは僕だけだ。僕だけしか、マーニに寄り添ってあげられないんだ。
体が熱くなっていくのを感じた。マーニへの強い思いが体内を巡る血を滾らせているのだと思った。心臓の音がよく聞こえる。耳の中で何度も脈打つ。それが鋭い耳鳴りに変わったかと思うと、瞬時に消えていって体の熱さも落ち着き始めた。
気が付けばドアの前に立っていた。迷っている暇も、なりふり構っている余裕もない。マーニを守るために、ドアに体当たりした。閉じ込められてから何度もやっていて、効果がないことも分かっていたが、ドアを打ち破ることでしか、この部屋から出る方法はなかった。
ドアは鉄のように硬く、いくら体でぶつかっても不動だった。痛みと疲労が動きを鈍くさせていく。力を振り絞ってドアにぶつかるが、やはり開かない。そのままドアに凭れかかろうとして手を出した。右手の掌がドアに触れると、妙な感覚が走った。
手の内側から何かが出てくるのを感じた。それをはっきりと認識する前に、ドアが瞬く間に黒ずみ、焦げた臭いを発しながら崩れた。
唖然とする内に、掌から違和感が消えていた。眼前には懐かしさすら覚える、館の廊下が見えていた。何が起きたかを考えている暇はなかった。物取りに見つかる前に、マーニを見つけ出さなければならない。木っ端となった残骸を飛び越えて廊下に出ると、そこに並ぶ部屋を片っ端から調べた。
二階の部屋にはマーニはいなかった。ならば一階を探すしかないが、二階で物取りの姿を見なかったので、下りてしまうと物取りと遭遇する可能性があった。
怖がっている場合ではない。本当に怖いのは、マーニが僕の前からいなくなることだ。恐怖で恐怖を打ち消し、細心の注意を払いながら一階へ下りていく。
開け放たれた玄関のドアが目に付く。冷たい空気がそこから流れ込んできていた。絨毯には泥で出来た足跡がはっきりと残っていて、物取りが向かった先を示していた。
不確かな足取りを見せる痕跡だったが、その行き先の一つが目に付いた。幾度も迷わせていた足が地下へ続く階段に真っすぐ続いていた。嫌な予感がした。あの少女はマーニを地下室に隠したのではないだろうか。根拠はないが、そんな気がしてならない。
足跡は帰ってきていない。物取りは確実に地下にいる。鉢合わせになるのは避けられないが、マーニを守るには其処に飛び込むしかなかった。暗闇の階段を躊躇なく駆け下りていき、加速した勢いをそのままに地下室へ入った。
臭気が、いの一番に襲ってきた。初めて地下室に来た時とは違った臭いだった。獣が放つ汗と血と糞が混じった、饐えた臭いがした。その悪臭が何処から来ているのか察した。地下室に備え付けられた頼りない篝火が、薄汚れた布を一枚身に纏っただけの屈強な大男の背中を照らし出した。
男は此方に気付く様子もなく、体を左右に大きく揺らしながら部屋の奥へと進んでいく。男に回り込むように近付きながら、奥に何があるかを確認した。
脆弱な木材の足で支えられる粗末なベッドの上に、マーニが横たわっていた。男は虚ろな目をしながら、だらしなく開いた口から夥しい量の涎を垂らしてマーニに近付いていた。
「やめろ!」
怒声を上げて、男を止めようとした。だが、男は振り返ることも立ち止まることもなく、涎を垂らし続けてマーニの方へ向かっていた。尋常ではない様子の男に、一層の恐怖を覚えた。
男を止めるには、その懐に飛び掛かるしかない。恐怖を齎す者に近寄るのに、勇気は必要なかった。怖いと思えば思うほど、絶対に止めなければならないという意志が強くなった。
声を上げながら、男の脇腹に突っ込んでいった。大木の幹のような厚みのある男の体は、力のない体当たりを受けても揺らがなかった。男は漸く視線を此方に向けて立ち止まった。口から溢れる涎と息が顔に掛かり、悪臭で眩んでしまいそうになった。
男から離れようと反射的に体が動いた。だが、男の腕がすかさず伸びてきて、僕の首を乱暴に掴んだ。
凄まじい握力で首が締まっていくのを感じた。見苦しく暴れるも、男は鬱陶しいという感情すら表情に出さず、指に力を込め続けている。
意識が遠のく。視界が白くぼやけていく。周囲の音が遠ざかり、代わりに耳鳴りが迫ってきた。抵抗の手段は、首を掴む腕を掴み返すことのみ。痺れる右手を持ち上げて、男の腕を掴もうとする。感覚はもう残っていなかった。
消えた感覚の中から、生暖かさが湧いて出てきた。人の体温のようでありながら、温もりとまでは呼べない、何かが欠落した熱だ。
更に感覚が蘇る。質感、肌触り、男の逞しい腕を掌に感じる。皮膚の下で蠢く血流が伝わってくる。生暖かさは此処から来ていたようだ。だが、血そのものがその熱を発しているようには感じない。
血流の深くに何かが潜んでいる。熱を持ったそれが近付いてくる。掌にはもうはっきりと熱さが感じられて、男の腕と癒着して離れられなくなっている。
熱源が皮膚の下にまで辿り着き、歪な隆起を見せて激しく脈を打つ。掌の内側から血の味を感じる。たった一度だけ経験したあの味が、再び掌に流れ込んできた。
皮膚を破り、血の刻印が心臓を丸飲みにした。男は灰となって崩れていったが、僕の首を掴む手は最後まで残った。
手首までしかないそれを無理矢理剥がそうとすると、遅れて灰に変化していき、新雪のように脆く、ボロボロと散っていった。
全ての感覚が正常に戻った。体の怠さと喉の痛みで立っていられなかった。這いつくばって呼吸を整えながらマーニににじり寄っていく。途中、灰を吸ってしまって激しく咽せた。男の残り香が混じった灰は悪臭が強く、目に入ると刺すような痛みを覚えた。
苦しみが強くなっていく。疲労も相まって、体を動かせなくなった。マーニの眠るベッドに手が掛かりかけていたが、力尽きた。意識が緩やかに薄れていき、冷たい闇の中に沈んでいった。
雨音がした。窓に打つ強い雨が僕を眠りから覚ました。寝心地の良いベッドから体を起こすと、部屋の隅の置かれた机で本を読む小さな魔女の背中が見えた。
「やっと起きたか」
少女は本を閉じて、此方に振り返った。
「マーニは……」
思っていた以上に、声が出なかった。掠れたその声に、少女は溜め息を吐いてから応えた。
「お前のおかげで、血の魔女に一歩近づいたぞ。良かったな」
自分がしてしまったことを思い出した。マーニを助けるためとはいえ、人を殺してしまった。しかも、ただ殺したのではない。心臓を食らって血の魔女の復活に手を貸してしまったのだ。右手を確認すると、血の刻印は色が濃くなり、荊のような紋様も増えていて、太く逞しくなっていた。
「お前には聞きたいことが山ほどある。部屋から出た方法、玄関に残っていた足跡、地下室の悪臭を放つ灰、色を取り戻した血の刻印。全部、説明しろ」
僕は一つ一つ順を追いながら何が起きたのかを話した。少女は頷くことも相槌を打つこともなく、僕を睨みながら話を聞いていた。
覚えていることを話し終えると、少女は視線を逸らし、口の中でぶつぶつと僕には聞こえない言葉を呟いた。
そうして一人で考え事をする素振りを見せている少女を、ただじっと見つめて待っていると、暫くしてからまた此方に目を向けてくれた。
「血の魔女は死して尚も、恐ろしさを示したか。手に負えないな」
「だったら、僕たちを自由にしてよ。僕はマーニを元に戻す方法を探さなくちゃいけないんだ」
「お前が? 笑わせてくれるじゃないか」
少女はベッドに近付いてくると、僕の両手首を掴んで押し倒してきた。
「ただの子供が、古代魔法を解く術を見つけ出せるわけないだろ。師匠ですら無理だったのに、どうやってお前が見つけるんだよ」
少女を押し返すことが出来なかった。僕より細くて柔らかい手なのに、そこに込められた力は圧倒的なものがあった。
「お前は血の魔女を喜ばせるようなことしか出来ない。この右手に刻まれた呪いで、清濁の分別なく命を啜っていく。妹の命を繋ぎとめるって名目で何度も何度も殺し続ける。そうなる未来が私には見えるんだよ」
言い返せなかった。自分の意志とは無関係に、血の刻印が命を貪ることを身を持って理解していた。奪いたくないと思っても奪い、奪うつもりがなくとも奪う。制御することが不可能な恐ろしい力が右手に宿っていた。
でも、でもと言葉を探す。此処にいてもマーニを救えない。救う術を見つけるために、僕が何かをしなければならない。その何かが、思いつかなかった。
迷いと戸惑いが表情に出ていたのだろうか。少女は僕の顔を見て、それに応えた。
「何もしなくていい。私が師匠に代わって、お前たちを血の魔女の呪縛から解き放ってやる」
少女は拘束を解き、ベッドから降りた。机にある本の束を抱えると、部屋を出ようとする。僕は言うことも決めないままに、少女を呼び止めた。言葉を迷わせていると、少女は大きな溜め息を吐いて、こう言い残して去っていった。
「何か用があるのなら、後で書斎に来い。入る前にはノックと、私の名を呼べ。シャマール先生はいますか、とな」
監禁されることはなくなった。ただ、館を出るのは禁じられたし、地下室にいるマーニに一人で会おうとすることも許されなかった。
シャマールは館にいる間は書斎に籠っていた。相変わらず何処かへと外出して、帰ってくると髪は強風を真っ向から浴びたかのようにぼさぼさになっていて、疲弊しきった顔をしながら、たくさんの書物を小脇に抱えて書斎に直行した。
シャマールから何かを求められることはなかった。最低限のことだけを守れば自由にしていてよい、と告げられていた。とはいえ、手持ち無沙汰でやることがない。
この感覚は、館に住まわせてもらった当初を思い出す。先生は僕とマーニを慮って、遠慮せずにゆっくり養生しなさい、と言ってくれた。ただ、受けた恩はきっちりと返さなければいけない、と父に教え込まれていたので、何もせずに過ごすわけにはいかなかった。
何か手伝えることはないか、と尋ねると、先生は苦笑いをしていたが、僕の心情を汲んでくれたのか、館の掃除を皮切りに、町への買い物や食事の準備や洗濯なども任せてくれるようになった。
家事は使用人たちがやってくれていたので一度もやったことがなかったが、先生に教わりながら、少しずつ腕を磨いていった。自惚れかもしれないが、どれもこれも、先生が喜んでくれるようになるほどの技術を身に着けられていた。
こうして努力の末に得た能力を、シャマールのために使おうと思った。実際に何をしているのかは知らないし、どんな目的があって僕たちを助けようとしているのかも分からないが、マーニを救う術を見つけ出そうとしてくれているなら、その恩に報いる必要がある。何より、やることがない状態が続くのが精神的に辛くなっていた。
書斎に軽食を持っていってあげようと考えた。準備をするために、久しぶりに厨房へ向かった。その時ふと、あることに気が付いた。
最後に食べ物を口にしたのは、いつだろう。
先生を殺してしまってから、何かを食べた記憶がない。監禁中ですら、そのことに気付かなかった。部屋の中では何かを摂取することも、排泄することもなかったし、生理現象と呼ばれるものの予兆を一切、覚えなかった。
僕の体はどうなってしまったのか。この掌にある血の刻印が、正常なつくりを消してしまったのか。自分の体が自分のものでないような感じがして、気持ち悪くなった。
保存用の干し肉をナイフで薄く切り、口に運ぶ。硬さのある肉を根気よく噛むと、味が染み出て口の中に広がった。程よく噛み砕き、堪能し終えてから喉に流す。ちゃんと食べられる。旨いと感じる。でも、腹が満たされる感覚はなかった。
料理をする気が失せていた。この忌々しい違和感を払拭したいという気持ちが強くなっていった。
シャマールなら僕の体の異変について知っているかもしれない。僕は書斎へ小走りで向かい、ドアを叩いた。
「静かに叩け、馬鹿者が!」
ドアの向こうから、怒声が飛んできた。それを入室の許可と捉えて、ドアを開けた。シャマールは本を片手に横目で睨みながら、椅子の背もたれに体を完全に預けて、前の二本の足を浮かせて揺れていた。
「入っていいとは言ってない」
「聞きたいことがあるんだ」
シャマールは空気を潰し出すような乾いた音をわざとらしく立てて本を閉じた。
「礼節というものを弁えろ。お前のような小童が、馴れ馴れしく私に接して良いとでも?」
「大して年も変わらないじゃないか。それに君は横柄が過ぎる。確かに君は魔女で、僕よりも出来ることは多いけど、それで僕を見下すような態度を取るのは感心しないし、不愉快だよ」
「年が変わらないだと?」
シャマールは嘲る様な口ぶりで言うと、本を机に投げ捨てて立ち上がった。
「お前は師匠の下にいながらも、恐ろしいほどに魔女のことを知らないのだな。魔女を外見で判断するなよ。私はお前より五十年は長く生きている。師匠は更に上、三百歳くらいはいっていたはずだ」
驚きで言葉が出なかった。シャマールはどう見ても子供にしか見えなかったし、先生が人間の寿命を遥かに超越して長命だったことが信じられなかった。
「年長者には畏敬を示せよ。ましてや、徒に年を取っただけの老人と私は違う。魔女としての才を持ち、知識も有しているのだ。敬って当然だろうに」
自ら主張するようなことではないと思った。先生と比べると、シャマールは何もかもが小さすぎる。シャマールを先生と同列にしたくないという抵抗心から、態度を改めるつもりはなかった。
此処へ来た目的に思考を戻した。シャマールの渋い顔を見ながら、自分が何も食べず、何も出さずに生きていられた理由を尋ねた。
話している最中、シャマールは椅子に座り直り、投げ捨てた本をもう一度開いて、僕の話を聞き流していた。伝えるべきことを全て言葉にしたがシャマールから返答はなく、机に片肘をつき、ページを摘まんでちらちらと弄んでいた。
「ちゃんと聞いてた?」
苛立ちを隠しきれず、少し声が大きくなった。シャマールは舌打ちをして、冷たい視線を僕に向けた。
「不思議に思うことなんてないだろ。血の魔女の魔力が作用して、腹も減らなければ出す必要もない体になっているだけだ。妹の方だってそうなんだからな」
血の魔女が僕たちに齎したのは憎き血の刻印だけではなかったらしい。僕とマーニは血の魔女に都合の良い体に作り替えられてしまっていた。血の魔女の復活のために僕たちは生かされている。この世に再び姿を現す手立てに抜かりはない、と耳の奥で血の魔女に囁かれているような気がした。
「聞きたいことはそれだけか? 調べることが山ほどあるんだ。妹を助けたいと思うなら、私の邪魔をしないことだな」
加えて嫌味ったらしい口振りで言葉を放ち、僕への興味を完全に消失させた。
「次は静かにノックしろよ、アリル君」
言い返す気力もなく、沈んだ気持ちで書斎を後にした。
僕の命はマーニのためにある。僕に今、出来ることは血の魔女を蘇らせることだけ。マーニを死に近付ける行為は、自分の存在理由を否定している。いくら自分の意志が血の魔女側に寄っていなくとも、撥ね退けようとしても、既に血の魔女と同化してしまっている。もう、僕はマーニの兄として生きていない。血の魔女の傀儡として、ただ生かされているに過ぎない。
でも、まだマーニが残っているじゃないか。マーニは眠りに就いただけで、そこに存在している。何も変わらない。マーニは今までのように、また重たい病に罹ってしまったとするなら、僕は死んではいないのではないか。変質してしまった僕の体に僕がいなくとも、不変であるマーニの中には僕がいるはずだ。そこに僕の存在理由もある。
マーニを守り、マーニの望みを叶える。マーニがいつも見せてくれた希望に満ちた瞳には、僕は一度も映ってはいなかった。だって、僕はマーニの瞳の中にいたのだから。僕は初めから、この肉体に魂を宿してなどいなかったのだ。
この体には血の魔女と僕の執念の二つが込められていた。それ以外には何も入っていない。漸く僕は、自分の抱く本懐を完全に理解した。単純なものしか此処に残っていないことが分かり、その上、血の魔女が余計な仕組みを削ぎ落してくれたおかげで、体が軽く感じた。
日常が帰ってきた。両親を失い、病弱な妹と二人、町はずれの館で過ごす日々。其処には魔女が僕たちのために尽力する姿がある。輝かしい未来をこじ開けるために、僕たちの戦いは淀みなく続いていた。波乱すらも、起こってはいない。
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