純真な魂

 今日は恐ろしく静かだった。父は商談に出掛け、母も王都の方から呼び出しを受けていなくなった。家に残っていたのは使用人の数人だけで、彼女たちも主がいないことを幸いとして、朝食を終えて父と母が家を出た後は仕事を怠けてどこぞに引っ込んでしまっていた。


 食卓で見たマーニはいつもより元気にしていた。食事時にも関わらず口数が多いのは常だが、それに劣らずよく食べている。今日は体調が幾分かマシなのだろう。父も母も、それを察していたのか、不安の色もなく家を出ていった。


「いくら元気だからといって外には連れ出すなよ。いつ体調を崩すかは分からないんだからな」


 ただ一つ、そう釘を刺されたこと以外は。


 マーニは滅多に外出を許可されない。それは当然、体の弱さへの配慮からだったが、マーニの熱情をも危惧していた上でのものだった。病気がち故の儚さや悲嘆的な思考とは無縁のマーニは常に窓の外に広がる世界に夢を見て瞳を輝かせていた。


 父がまだ若い頃、商人として世界各地を巡っていた。その話をマーニは物心が付く前から聞かされていた。海原のように広がる花畑、竜と呼ばれる巨大な怪物が潜むと云われる大瀑布、ダイヤモンドのように硬く美しい氷塊が眠る洞窟。どれも誇大で真実味に欠けるものだったが、マーニはそれを疑うことなく胸をときめかせた。


 父のそうした話が起因して、マーニは旅に出るという夢を持つようになった。自分の目で世界がどうなっているのかを見たい、という願いは家に籠りきりのマーニにとっては途轍もなく大きいものだった。体調が良い日も悪い日も、外に出たい、という言葉だけは口癖のように呟いていた。父は病弱なマーニを元気づけるために昔話をしたのだろうが、想定以上の効力があったために後悔しているようだった。


 僕自身もマーニに無茶はしてほしくない気持ちはあった。どれだけ強い望みを持っていても、それに耐えられる体ではない。今は自分の体のことだけを考えてほしい。健康な体になってから、その夢を叶える努力をすべきだと思っていた。


 マーニの夢は純粋だ。世界への憧れから生まれた穢れのない夢だ。商家を継がねばならない僕には、それが煌めいて見えていた。夢を語るマーニの笑顔は何よりも誰よりも綺麗で、自分の心をどれだけ磨いてもそこに辿り着けないことが明白で、羨ましいと思うことさえ出来なかった。その夢の一助となりたい。悲運な境遇にあるマーニのために、兄として力になりたい。ただそう思うばかりだった。


 父と母が出掛けた後、マーニは自室へと戻っていった。体調が良いのなら本を読んであげよう、という提案にも乗ることはなく、


「今日は大人しくしていたいの」


 と先程までの元気な様子とは変わって、やけに気怠そうな素振りを見せて部屋に引きこもってしまった。過剰に心配するほど具合が悪そうにはしていなかったので、僕も自室に戻って勉強に勤しんでいた。


 不気味な静けさが不安を煽っていく。教本に目を走らせながらも、考えていたのはマーニのことだ。体調の急激な変化を見せたことは今まで一度もなかった。朝食の時はうるさいくらい元気だったのに、何があったのだろう。文字の羅列も認識できなくなるほどにマーニが心配になり、本を乱暴に閉じた。


 父も母もいない。使用人たちも何処かへ消えてしまったので、当てには出来ない。今、この家でマーニを想えるのは僕だけだ。自室を飛び出て、急いでマーニの部屋に向かう。ノックする手間さえ厭い、ドアを開ける。


「マーニ」


 その呼び掛けは何も意味をなさなかった。マーニがいるはずの部屋、マーニが眠っているはずのベッド。其処にマーニはいなかった。


「マーニ!」


 叫んでも、何も反応は返ってこなかった。部屋を隅々まで見渡し、毛布をめくっても、机の下を探しても、マーニの姿はなかった。


 開け放たれた窓に気付き、理解した。罠だったんだ。マーニを甘く見過ぎていた。マーニが滾らせていた意志に、マーニの体が応えられる状況が出来ていたんだ。監視の目が消え、自由を得たマーニは自らの願いを叶えようとしている。マーニの旅の第一歩が今日であってはいけない。自分がまだ不完全だと気付けていない。マーニを止めなければ、マーニは一生、夢を実現できなくなる。マーニがそうしたであろう様に窓枠を飛び越えて庭に降りた。家の裏にある庭は開放的で見通しも良いが、マーニの姿も痕跡もなかった。マーニが行きそうな場所も見当が付かないので、表の通りに出て探すことにした。


「マーニ! マーニ!」


 人目も憚らずに妹の名前を叫ぶ。喉がひりひりと痛みだすまで、絶え間なく叫び続けるが、それに反応してくれるのは行き交う人々だけだ。奇異の目を向ける人がほとんどの中で、心配して話しかけてくれたのは顔馴染みのおばさんだった。


「何があったの? マーニちゃんがどうかしたのかい?」


「マーニが、いなくなったんです。部屋の窓から出てったみたいで。今日は体調が良かったし、父も母も留守だったから」


 おばさんに説明している際中にもマーニが何処かにいないかと辺りを見回した。


「そりゃあ大変だ。でも、そうだねえ……あたしは朝からこの辺りをぶらついてるけど、マーニちゃんは見なかったね。知り合いにも見てないか聞いてみるよ」


 おばさんは頭を優しく撫でた後、踵を返して何処かへ行こうとした。走り出そうと言う寸前で、何かを思い出したかのように此方に振り返り、声を上げた。


「探すのは町の中だけにするんだよ。不帰の森の方へは絶対に行っちゃ、駄目だからね」


 ゾッと血の気が引いていくのを感じた。おばさんが見えなくなってもその場で立ち尽くしていた。


 盲点だった。マーニが好奇心を持て余しているのならば、其処に行かないわけがない。父からも母からも、入ってはいけないとしつこいくらい言われていた禁断の場所。足を踏み入れたら戻ってくることは出来ない迷宮。そこに何が眠っているのか、何が待ち構えているのかを知る者はいない。だが、町の人々は揃って其処の主を断定する。


 不帰の森。それは悪しき魔女の住処。人の姿をした人ならざる存在が、其処にいるという。


 家の裏庭から不帰の森は遠くはない。もう既に森の中に入ってしまっただろう。帰ってこられないという話が本当だったとして、魔女が潜んでいるという噂が真実だとして、それがマーニを追わない理由にはならない。寧ろ、その得体の知れない脅威から救い出すのが僕の使命だ。


 強くそう思っても、不安が付随して覚悟を揺るがせようとしてくる。不安が吐き出す恐怖の念を置き去りにするように駆けていく。不帰の森の前まで辿り着いた頃にはその不安は振り落とされて、疲労感に代わっていた。肉体的な辛さのおかげで、森に入るのに抵抗が生まれなかった。闇を湛える木々の中に飛び込み、マーニの名を呼びながら、慎重に奥へと進んでいく。


「マーニ、いるなら返事してくれ! マーニ!」


 昼間だというのに薄暗く、しかも湿り気もかなりあるため、空気がべったりと肌に張り付くような感触があって気持ち悪かった。足元は腐った葉が敷き詰められていて、踏むと水分が滲み出てくる。それがずっと続くので、靴の中に水が入ってきてしまい、足が濡れて冷えてしまった。


 不快感と戦いながら進み続けるが、マーニは未だ見つからない。風で葉が擦れる音と、鳥の囀りばかりが耳に入り、人の声は自分が発するもの以外にはなかった。


 マーニは本当にこの森にいるのだろうか。もしかしたら、町の中で他愛ない旅の真似事をするだけに留めているのではないだろうか。いや、それで満足するような性格であるはずがない。わざわざ僕を欺いてまで家から出ていったんだ。絶対に不帰の森に来ている。じゃあ、返事がないのはどうしてだろう。見つからないのは何故だろう。まさか、マーニは魔女に捕まってしまったのか。


 無くなったはずの不安が再び顔を見せ始めたことに気付く。焦りが心臓の拍動を早めていく。声を荒げ、走り回り、マーニを探す。最悪の事態を避けるには必死になるしかない。


 どれほど森を駆けたかは分からなくなった。喉は枯れてしまい、マーニを見つけるには目と耳にしか頼れなくなっていた。


 森の奥深くまで来たようで、茂みが増していき、掻き分けなければ視界を確保することも進むことも出来なくなった。ガサガサと大きな音を立てながら進んでいると。何処からか同じように草むらを掻く音が聞こえた。


 足を止めて、耳をそばだてる。不用心なその音は、少しずつだが遠ざかっていた。


 マーニである可能性と、それ以外の可能性を考えたが、怖れている猶予はなかった。音を立てる何かを急いで追っていく。視界の悪い草むらの中から、人影がうっすらと見えた。その後ろ姿を確信して、声を掛ける。


「マーニ!」


 マーニは振り返った。傍まで近づくと、呆気にとられたかのような顔で此方を見上げた。


「良かった、無事で。怪我はしてない? 具合は大丈夫?」


 マーニはぽかんと口を開けて小さく二度、頷いた。


「勝手に家を出たら駄目じゃないか。体が良くないんだし、急に倒れでもしたらどうするの?」


「平気。今日はとっても調子がいいんだもの。一人でこんなところまで来られるくらいにね」


「そうだ。よりにもよって、不帰の森になんか入るなんて……」


 その名を口にすると、絶望感がこみ上げてきて、言葉に詰まった。此処は不帰の森。踏み入った者は帰ってこられない場所。マーニは見つけ出すことが出来たが、帰ることは出来るのだろうか。


「お父様もお母様も、ここには怖い魔女がいるんだよって言ってたけど、見つからないね。このもっさり生えてる草の先にいるのかな?」


 マーニは呑気にそう言った。どうやら魔女に会うために不帰の森に来たらしい。恐怖だの禁忌だのは、マーニの膨大な好奇心の前では無力なようだ。


「魔女に見つかる前に此処から出よう」


 僕にはマーニのような余裕は一切なかった。渋るマーニの手を取り、来た道を戻っていく。幸い、歩いてきた道は草が倒れていてくれたので、それに沿って進めば迷うことはないだろう。そう思っていたのだが、少し進んだ所で作り上げてきたはずの道が途切れていた。


 茎が傾いていた跡すらなく、根に近い部位は踏んで折れているといったような様子もない。初めから何も此処を通らなかったかのように草が生い茂っていた。辿るべき道筋が消えて、動揺が心を襲った。


 マーニと繋いだ手から嫌な汗が滲み出した。それでも絶対に離してはいけないと思い、しっかりと握り直す。立ち止まっていても仕方ない。意を決して、道筋のない草むらの中を前進していった。


 何度か草むらを抜けたかと思う場面が訪れたが、またすぐに生い茂る草むらが行く手に現れた。自分が通って来た道とは明らかに違ったが、それでも前に進み続けるしか出来ない。時間が経つにつれて、草むらから出られない恐怖の他に、もう一つの恐怖が大きくなってきた。


 魔女と遭遇してしまうのではないか。見通しの悪い草むらで魔女と鉢合わせてしまったら、逃げることは出来ないだろう。そうなってしまう前に、この草むらから抜け出さなければ。


 単調な景色が続くと他に囚われるものがなくなり、魔女に気を取られてしまう。実際に魔女を目にしたことはないが、王都の方では軍に属する魔女たちがいるらしい。魔法と呼ばれる超常的な力を持ち、それによって多くの災いを起こすと言われている。戦争ではもっぱら魔女たちが戦線に躍り出て戦うらしいが、争いとは無縁の地にいるために、魔女たちがどのようにして戦うのか、魔法とはどんなものなのかは知る由もなかった。だが、町の人はみんな口を揃えて、魔女は人の形をした化け物で、己の欲を満たすためなら人を殺すことに躊躇がないと言う。


 恐怖がだんだんと輪郭を見せ始めてきた。余計な事は考えない方が良い。足を動かすことだけに集中する。雑念を振り払うように、進め、進め、と頭の中で繰り返すが、そう強く思うほど、恐怖はより鮮明になっていく。細い腕、華奢な体、長く伸びる脚、腰に届く髪を静かに揺らす影。


 頭の中だけでなく視界にもそれは現れた。逃れる術は目を瞑る以外にない。どうせ、何処をどう歩いているかも分からないのだから、見えなくても構わない。マーニの手をしっかり握ったまま、もう片方の手で草を掻き分けて進む。


 道を作る手が何かを捉えた。目を閉じている上に、雑念と戦っていたために判断が遅れてその何かとぶつかった。軽い衝撃と手に伝わる生暖かい感覚を受けて、目を開ける。


 影だ。恐怖を象った影が実体を持って目の前に立っていた。衣服を纏わず、裸体を晒す女は全身が赤黒い。それが血だとすぐに気付いた。女から異常な鉄の臭いを感じたからだ。


「魔女さん?」


 マーニの声が背後から僕の体を貫いた。その問いかけに軽く頷いて、血塗れの魔女は金色の瞳でマーニを見つめた。


「可哀想に」


 見た目は若く見えるが、その声は老成していた。不釣り合いな声の所為で、言葉の意味を理解する思考にならなかった。


「ねえ、坊や」


 次の言葉は自分に投げかけられていた。口を開くことが出来ず、魔女の目だけを見る。金色の瞳からは射殺す視線が向けられ、自分は既に仕留められて食われるのを待つ死体に成り下がっていた。


「そんなに怯えないで。貴方の命になんか興味ないんだから」


 魔女は僕を殺してはいなかった。殺すつもりもないという口ぶりだった。


「貴方たち、迷子でしょう? この森から出してあげる。でも私と一つ、約束してちょうだい。私が困った時は、坊やが私を救って。それを約束してくれるなら、お家に帰してあげるわ」


 早くこの異常な存在から離れたいのと、マーニと一緒に家に戻りたいという気持ちで逸りながら頷いて応えた。魔女はいやらしい笑みを浮かべると、マーニの額を指で突いた。


「それじゃあね」


 額から指を離すと同時に指を鳴らす。長い残響を認識している間に、意識が音と共に細く遠のいていく。景色が渦を巻き、中心に飲み込まれていく。マーニも血塗れの魔女も、色を帯びた全てが失せる。


 真っ白になって世界が消えた。




 気怠さを感じながら目を覚ました。頬をくすぐる芝を疎ましく思いながら体を起こす。先程まで見ていた陰鬱な景色はなくなっていて、見慣れた家の裏庭に戻ってきていた。


 目の奥から鈍い痛みを感じる。いつの間に不帰の森から帰って来たのだろう。記憶が酷く曖昧で、森の中でマーニを見つけ出したこと以外は覚えていない。そうだ、マーニはどうしたんだろう。周囲を見回すと、少し離れたところでマーニが横たわっていた。


 マーニに駆け寄り、体勢を仰向けに直す。すると、マーニは眠たそうに目を擦りながら意識を戻した。


「お兄ちゃん?」


 大事にはなっていないようだ。安堵の溜め息を吐くと、それに釣られたようにマーニも欠伸をした。乱れた前髪を直そうと指で額の辺りを払う。髪に隠れていた額から、とても小さな血痕を見つけて、冷やりとした。


 軽く拭うと、それは簡単に消えて傷跡もない。マーニも痛がっている様子がないので、特に気にすることはなかった。帰ってくることが出来ない森を脱出できたということだけで充分で、それ以上のことを考えられるほど体力が残っていなかった。


 眠っていたはずなのに疲労感は変わらず残り、体が重かった。マーニもまだ目を閉じて眠りそうだったので慌てて起こし、家の中に入っていく。


 マーニをベッドで寝かした後、僕も自室に戻ってベッドに倒れ込んだ。睡魔が急激に襲ってきて、何かを考える暇もなく眠ってしまった。


 この日の奇妙な体験は以降、一度も鮮明に思い出すことはなかった。気にすることもなくなっていき、穏やかに日々を過ごしていた。


 しかし、その日々は束の間のものだった。不意に訪れた災禍によって平穏は崩され、僕はマーニ以外の全てを失った。

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