履行

 曇りのなくなった窓ガラスに達成感を覚える。懸命に、無心に、磨くことだけに注力した結果が、内と外の境界を濁りなく区別してくれる。


 外に見える世界では、青く広がる空に向かって針葉樹たちが真っすぐに伸びていた。季節を感じさせない常緑のその木々たちは先生の拘りによって規則正しい間隔で植えられている。整然と、乱れのない世界が何よりも落ち着くらしく、館の周囲に出来た森は無駄な植物を排除している。雑草が生えようものなら、それを腐らせる薬を撒くくらいで、僕も偶にその手伝いをしていた。


 だだっ広い廊下の窓を一つ残らず磨き終えて、外気を感じようと窓を開ける。ぎっちりと植えられた木々の間隙を縫って届いた冷たい風がまもなく冬がやってくることを知らせてくれた。館の中に外側の空気を混じらせると、境界が曖昧になり、館の中を侵略されていくように感じる。窓を開けっぱなしにし続けるのは良くないと思い、冷たい空気の心地よさを惜しみながら静かに窓を閉じて、掃除が終わったことを報告するために先生がいる書斎へと向かった。ドアを強めに叩き、声を張って先生を呼ぶ。


「先生、掃除が終わりました。先生!」


 返事が来るまで少しの間があった。部屋の奥から微かに先生の声が聞こえてくる。


「ありがとう、アリル。入っておいで」


 許諾を得たので、書斎へと入っていく。窓がなく薄暗いこの部屋を照らすのは先生の机にあるやせ細った蝋燭だけだ。部屋の中は本棚が数えきれないほど並んでいて、先生曰く、確かに此処は私個人の自己満足による書斎だが、何処ぞの都の図書館よりも遥かに有益で貴重な本が詰まった書庫、らしい。


 先生は机から椅子を斜めにずらして座り、本を読んでいた。異国の本のようで、若草色の表紙に書かれている文字は読めなかった。机には他にも何冊が分厚い本が積まれていた。それらは今日中に読み切ってしまうのだろうか。僕なら、あの中で一番薄い本でも三日は掛かるだろう。


「済まないね。小間使いのようなことをやらせてしまって」


 伸びすぎた前髪が垂れてきて、先生はそれを指でするりと横に流す。それは先生の癖のようなものになっていて、見ている僕としては邪魔ならば切ってしまえば良いのに、という感情しか湧かなかった。


「居候させてもらっている身ですので、このくらいはやらねばなりません。マーニの分も考えれば、もっと使っていただけないと困ります」


 先生は苦笑いしながら首を振った。


「アリルは真面目が過ぎるよ。もう少し楽に考えてくれ。私は君たちの親代わりなんだ。親は子供を下僕のように扱わないだろう?」


「先生は親ではなく、恩人です。父と母が戦火に焼かれ、焦土の中で彷徨っていた僕とアリルを助けてくれた恩人なのです。どれだけ良く思ってくださっても、我が子のように可愛がってくださっても、僕は救われた他者として先生にけじめを付けなければなりません」


 先生はじっと僕の目を見つめてきた。何かを測るような視線ではない。純粋な慈しみを持った温かい視線だ。


「君はちゃんと、自分の中で正しいと思える道を選べる賢い子のようだ。君がそれで満足するなら、私はもう何も言わないよ」


「でしたら、早速お使いください。町へ買い物に行って参りましょう」


「買い物か」


 先生はまた垂れてきた前髪を流しながら、逡巡していた。


「そうだ、頼んでいた本があった。それを取ってきてもらおう」


 先生は羽織っているローブの中に手を突っ込むと、金貨を三枚取り出して、すかさず僕の手に握らせた。僕は戸惑い、先生に言った。


「一体、どれほど本を頼まれたのです?」


「一冊だけだよ。ただ、遠い国の古い書物だから相応の値がするはずだ。それで足りるとは思う。余るようだったら、残りは君が好きなように使えばいいよ」


「頂けませんよ。それに僕は欲しい物なんてないですし」


「じゃあ、マーニに何か買ってきてあげるのはどう?」


「マーニに、ですか」


 良い考えかもしれない。ここ数日、マーニは高熱に浮かされていた。今朝は眠ったままだったものの、症状は落ち着いていたので、目が覚めた時に何か美味しい物を食べさせてあげたいと思った。


 そういう思いだけで、やはり先生のお金を使うのは気が引けてしまった。断りきることもできずに釈然としない態度を取っていると、先生は痺れを切らして僕を部屋から追い出した。


「とにかく、マーニに何か買ってきてあげること。これも私からのお使いだ。分かったね?」


 先生に迷惑を掛けてしまったようだ。そのご厚意に預かる他なく、命じられたままに町へ買い物に行くことにした。


 館を囲う木々の間に、一筋だけ開けた細い道がある。その道に従って進んでいけば、町へと下ることができる。町には先生のお使いで行くだけで、私用で遊びに出掛けることはなかった。それでも町の人たちは余所者扱いや腫れもの扱いせずに、丁寧に、優しく接してくれたので、気負わずに自分の仕事を完遂させることができた。


 今日も同様、平常の心のまま町に入った。血の魔女狩り、と呼ばれる戦いが終わったのは一年前。その戦火に飲まれた町は多かったが、僻地でひっそりと栄えていたこの町は被害がほとんどなかった。他の町から流れてくる物が減ったらしいが、困窮するほどでもなく、生活は戦前とたいして変わらないという話をよく聞く。


 先生に頼まれた本は町で一番の大通りから、横道に逸れた裏通りの店で受け取ることになっている。露店が並んで賑わう大通りを歩いていると、見知った青年が声を掛けてきた。


「よう。最近見なかったが、どうした?」


 明朗な声がカイルの特徴なのだが、今日は声の調子がいつもと違うように感じた。だが、気に留めるほどでもなく、そのまま彼の問いかけに答えた。


「妹が熱で寝込んでいて、看病をしていたんです」


「ふーん、そうか」


 カイルは言葉を切り、僕の顔をじろじろと見る。妙な視線と沈黙が嫌になり、自分から言葉を発して誤魔化すことにした。


「今朝は落ち着いてたので、その隙にお使いに来たんです。先生が本を頼まれたので、今からそれを受け取りにいくところです」


「容赦がないな、あの魔女は」


 ああ、そうか。頭の中で理解を単純な言葉にした。カイルは先生への不信感を態度にしていただけだ。


「先生は優しいですよ」


 そう言っても誤解は解けないだろう。魔女への偏見は血の魔女狩り以降、より強固なものとなっている。血の魔女と呼ばれた一人の凶悪な魔女が起こした戦いは、生き残った人々に決して消えることのない恐怖を植え付けた。血の魔女を殺し、戦いを終結させたのも魔女たちのおかげであるはずなのに、彼女たちの理不尽な力を目の当たりにしたことで、全ての魔女を同じ人間として捉えられなくなってしまった。


 先生は魔女だが、魔女らしいことはしない。先生の魔法を見たのは、僕とマーニが焦土の中で炎に飲まれそうになった時だけだった。館に住まわせてもらうようになってからも、先生は自分の手と足で物事を済ますし、マーニが体調を崩した時も薬学の知識をもって薬を調合して与えてくれていた。


 魔女への強烈な偏見はこの町に来るようになってから肌には感じていた。先生も自身への風当たりが強くなったことを察している。渋い顔をして町へ出かける先生に耐えられないから、僕が代わりに町への用事をしに行くようになった。


 カイルも悪気があってそう言ったのではないだろう。心の奥で燻っていた不安が、つい表に出てしまっただけだ。良い魔女と悪い魔女を判別する術もない。得体の知れない存在に蓋をしておけば、とりあえずの安心に浸れる。今はそういう手段で避けておくしかないのだろう。まだ彼らの心の傷は癒えきってないのだから。


 カイルにはそれ以上の弁明はしなかった。笑みを作って彼を見送り、裏通りの方へ抜けていく。表の通りに比べて狭く、人も疎らで密集した建物の影で暗い。湿気をも錯覚する陰鬱な雰囲気に、先程の出来事もあってか心にも翳りが差してきた。足に重さを感じながらも、目的の店には支障なく到着した。店のドアの上には小さな看板が付いているが、そこに書かれた文字はくすんでいて、はっきりと読み取ることが出来なかった。


 先生が言っていた『雑貨屋』に違いないと思い、ドアを開ける。


「ごめんください」


 店内はとても埃っぽかった。思わず咳き込みそうになったが、店主らしき初老の紳士と目が合ったので、我慢して息を飲み込んだ。


「先生の、ハク先生の使いで来ました」


 そう伝えると、店主は頷いて店の奥へと引っ込んでいった。彼が帰ってくるまで、店の中を眺めていた。装飾品やら木像やらが並んでいたが、どれも埃を被っていて商品として扱っているとは思えない。黄ばんだ織物や下半身だけの獣の毛皮、瓶に詰められた砂利など、意味の分からないものも多数置いてあり、興味は尽きなかった。だが、満足を得る前に、店主が戻って来た。


 店主は何かを包んだ布を持っていた。その包みを丁寧に剝いでみせると、中から古びた紙の束が現れた。表に見える紙には見たことのない文字がびっしりと書かれていて所々に濃淡様々なシミが付いていた。


「大抵、ハク殿は薬学や植物についての本を買われるのですが、今回は魔法の書物を御所望されまして」


 店主はそう言いながら、数枚、紙をめくって見せた。他の紙も同じように文字が書き込まれていて、店主の言葉通り、書物の一部であることを示してくれた。


「太古の魔法書の、ほんの数ページですがね、希少な物です」


 僕は金貨を三枚、掌に乗せて店主に見せた。店主はその内の二枚だけを摘まみ取ると、紙の束をもう一度、丁寧に包み直して渡してくれた。


 店を出る間際、店主がから不意に声を掛けられた。


「ハク殿とは上手くやっておられますか?」


 ドアの取っ手に手を掛けたまま、振り返って答えた。


「はい、良くしてもらってます」


「そうですか。喜ばしいことです」


 その後、店主から「お気をつけて、お帰りください」と言葉を貰って店を出た。


 包みを脇にしっかり抱えながら、店主のことを思い返して歩く。彼は先生をひとりの人として見てくれているように感じた。店主と先生にどのような交流があるかは知らない。だが、店主との短いやりとりの中からでも、二人は多大な情勢の変化によっても揺るがない、絶対の信頼関係を築き上げていることを推測させた。


 皆がそのように色眼鏡を外して、先生を人として見てくれれば良いのに。難しいことを考えず、見たままの先生を受け入れてほしい。淡い願いは今は胸の中に秘めておこう。今は、もう一つの目的であるマーニへのお土産をどうするか考えなければならない。


 表の大通りに戻り、露店を見て回る。果物を扱っている店は多く、目移りしてしまう。暫く迷っていたが、病床のマーニが食べやすい物を考えて葡萄を買うことにした。


 粒の小さな葡萄を一房だけ買うと、先生から貰ったお金はかなり余った。行きはたった三枚だった貨幣が、帰りには小銭となって増えていた。その小銭も、先生に返さねばならないから、一枚でも失くさないように注意して館へ戻っていった。


 館に帰ってくると、まずは先生のいる書斎に向かった。先生は変わらず、本を読んでいたが、机に載っている本の数は減っていなかった。


「ただいま戻りました。これが頼まれていたものです」


 布の包みを渡すと、先生は読んでいた本を積みあがった本の塔の天辺に放り載せて、机の上に布を広げた。中身を見ると鼻から息を深く吐き、手を付けずに表の紙の文字をじっくりと眺めていた。


 僕のことをもう認識しなくなっていたようなので、買い物で余った小銭を視界の端に映るように、先生の顔の横に突き出した。


「これが残ったお金です。それを買うにも、マーニのお土産を買うにも充分すぎました」


「ああ、そうかい」


 先生は気のない返事をして小銭を受け取ると、それを机の上に散らすようにして置いた。もう紙に書かれた文字に夢中になっている。集中なされているのなら、邪魔するわけにはいかない。僕は静かに後退りをして書斎を出た。


 マーニの部屋は二階にある。大きな窓があって日当たりも風通しも良く、外の景色をベッドで寝ていても見られる部屋だ。養生するには打って付けの場所だが、マーニの体調が全快したことはない。もっと言うなら、血の魔女狩りが始まった四年前からマーニの体調は悪化し続けていた。当時のことは今でも、昨日の出来事のように思い出せる。


 戦いが激しくなると、王都に近い僕たちの町にもその影響が及ぶようになった。空を飛び交う魔女たち、町の中を険しい顔で歩き回る重装備の兵、血の魔女との戦闘が予感されるようになると、父は家を捨てて家族皆で逃げる選択を取った。馬車を急いで準備し、生きるのに必要な物だけを持って町を出た。僕は鞄に本をぎっちりと詰め込んでいた。どの本も商家の跡取りとして学ぶべきことが書かれたものだ。家を捨てたとしても、まだ僕には父が築き上げた名声と実績を継ぐ義務がある。今まで受けていた教育を放棄することは、自分の存在を失うことに等しい。僕は夢を抱くことが許されない立場だった。だがら、進むべき現実を、逸れることなく突き進む術が自分の命と結びついていた。


 マーニは何も持ち出せなかった。母に与えられた毛布に包まって、馬車が揺れる中、後方の車窓から遠のいていく町を呆然と眺めていた。その時のマーニの瞳は父たちと違って、儚い輝きを放っていて美しかった。きっとマーニは不安や絶望などは感じていなくて、閉じ込められていた檻から脱した嬉しさと当てのない旅路への希望を胸の中に宿していたのだろう。マーニのそうした心と体が反した様相に気付くと、居た堪れなくなってしまった。


 逃避行の結末は悲惨なものだった。戦いから逃げてきたはずなのに、魔女の戦いに巻き込まれて父と母は呆気なく死んだ。その死を受け入れる間はなかった。マーニは怪我によって更に体への負担が増し、命の灯が消えかけていた。辺りは炎に包まれ、上空で戦っていた魔女たちもほとんど殺されて、生き残った者も早々に逃げていなくなっていた。地上には目もくれずに魔女たちは逃げたので、助けを望めるはずもない。ああ、僕も死ぬんだな。だけど、僕が死ぬのはマーニが死んだ後になるだろう。僕は孤独を味わいながら死ぬんだ。両親が死に、継ぐべき未来も閉ざされ、愛する妹もいなくなってしまったら、僕には何も残らない。何もないなら、生きている意味なんてない。マーニが最後の希望だ。僕の生きる理由は灼熱の炎によって爛れて、マーニの輝かしい夢に癒着してしまった。でも、それは喜びでもあった。この肉体が死を迎える時、恐怖や絶望もなく、苦痛だけで済むのだから。


 結局、恐怖も絶望も苦痛さえも僕にはやってこなかった。唐突に降り出した強い雨が炎を消していき、僕たちの前に先生が現れた。先生は僕たちを見つけると、羽織っていた白いマントを脱いで、マーニに掛けてくれた。


「辛かっただろう。ごめんね」


 先生の声は少し震えていた。降りしきる雨に濡れる姿が、悲しみを映し出していた。どうして僕たちに悲しみの感情を向けてくれたのか、どうして僕たちに謝ったのか、それを聞くのなら正にその時だけしか機会はなかった。今はもう、先生はそんな顔をしてくれない。本に向けてしかめっ面をするか、僕が作る料理で子供のように顔をほころばせるか、単純な表情しか見せてくれなくなっていた。


 それでも先生に嘘や偽りはないと信じている。マーニと僕を生かしてくれる、その事実だけがあれば、僕たちが知ることのできない先生の心を勘繰ろうとは思わない。先生がくれる優しさを甘受し、僕がそれに報いることで此処での生活は充分だ。


 その先生の優しさの一片で手に入れた葡萄を手に、マーニの部屋に入る。朝に少しだけ開けた両開きの窓はそのまま、風が緩やかにカーテンを揺らしている。


「マーニ?」


 マーニはベッドで眠っていた。だが、何か様子がおかしい。近付いて、マーニの顔をよく見る。


 今朝まで紅潮していた顔はすっかり治まり、うなされることもなく静かな寝息を立てている。しかし、その額に赤黒い紋様が浮かび上がっていた。荊のような線が幾重にも絡まり円を形成しているそれは、血で描いたかのような色合いで気味の悪さを助長させていた。


 不安を覚えながら、何度も呼び掛ける。葡萄を放り捨てて肩を揺らしたり、頬に軽く触れたりもしたが目覚める気配はない。一切乱れることのない呼吸が続くだけだった。


 僕は何をどうと判断できる状態ではなくなっていた。部屋を出て先生を大声で呼びながら、書斎に走った。


「先生! 先生!」


 その絶叫が届き、先生はすぐに飛んできてくれた。


「どうしたんだい? 落ち着いて話してごらん」


 先生は極めて冷静だった。反して、動揺しきっていた僕は事態を上手く説明できずにまごついてしまった。


「マーニが、その、起きなくて、額に何か出てて」


「分かった、見てみよう」


 先生は拙い言葉にも顔をしかめずに受け止めてくれた。僕は先生に背中を擦られながら、マーニの部屋に戻った。


 先生がマーニの傍らで膝をついて容態を見ている間、僕は部屋の入り口で立ち尽くして、呆然と二人を眺めていた。マーニの身に何が起きているのだろう。あんなに穏やかな顔をしているのに、額に不気味な紋様があることで安心を得られない。何か、奇妙な病気にでも罹ってしまったのだろうか。これ以上、か弱いマーニに過酷な試練が続くのは、僕自身も耐えられない。先生だけが頼りです。どうか、穢れを知らない純真で無垢な妹をお救いください。僕たちを炎の中から救ってくれた時のように、この病も先生の魔法で祓ってください。


 先生が静かに立ち上がった。振り向いて見せたその表情は、僕の祈りが無意味だったと瞬時に分かるくらいに、暗いものだった。


「アリル、こっちに来なさい」


 先生に言われるがまま、僕はマーニの眠るベッドに近付いた。。


「掌を見せてくれないか」


 僕は両手の掌を上に向けた。


「あっ」


 声を出すと同時に、血の気が引いていった。右手の掌にマーニの額にある紋様と同じものが刻まれていた。


 先生は何か、良くない感情を堪えるかのように息を小さく吐き、努めて平常にこう聞いてきた。


「君たちは、血の魔女と接触したことがあるかい?」


 僕も声を震わせないようにと、意識しながら言葉を返す。


「先生に助けていただいた時にそう呼ばれてる魔女を見ましたが、それだけです」


「よく思い出してごらんなさい。あの血に塗れた魔女と何処かで出会って、契約とか約束みたいなものをしてはいないかい?」


 血に塗れた魔女と約束。その二つの言葉が、頭の中に血の魔女の姿を鮮明に過らせた。血の魔女狩りの前、僕とマーニが今より幼かった頃、血塗れで裸の魔女を間近で見た。不帰の森と呼ばれる禁断の地で、僕とマーニは血の魔女と出会っている。忘れられるはずのない衝撃的な思い出が、今になって漸く思い出された。


「会いました、会ったことがあります。血の魔女狩りが始まる前に、僕たちは血の魔女に助けてもらったんです。森で迷子になった僕たちを家に帰す代わりに、血の魔女が困った時は助けるって約束をしました」


 思い出したことをそのまま口にしたので早口になってしまった。それでも先生は聞き返すこともなく、僕の言葉を噛み締めるように沈黙した。


 僕が少し冷静さを取り戻すくらいに間が空くと、それを待っていたかのように先生が口を開いた。


「魔女と交わした約束は魔法の行使を意味している。君たちはそこで血の魔女の魔法に掛かり、血の魔女の死によって君たちと交わした約束が完全に回収されることになったんだ」


 先生はマーニに視線を向けた。


「マーニは血の魔女の復活の依り代となってしまったに違いない。血の魔女がこの体に宿るまで、マーニが目を覚ますことはもうないだろう」


 それが死の宣告だと気付くのに数秒掛かった。そうと気付いてから、声を発そうとするも、口の中が渇き切って上手く喋れなかった。


 口を動かすだけの僕に、先生は僕が聞きたいことの全てを話してくれた。


「まだマーニが絶対に死ぬ、というわけではないよ。私もまだ、この魔法については知識が不足してる。だから少しだけ時間をくれないか」


 先生は僕の頭を優しく撫でた。


「それまで、マーニを見ててくれ。頼んだよ」


 僕が返事をする間もなく、先生は小走りで部屋を出ていった。


 先生の言葉と温かい手が僕の不安を和らげてくれたようだ。希望はまだある。僕は先生に言われた通り、マーニを見守り続けた。いつもと変わらないことだ。高熱を出した時、お腹を酷く下した時、頭痛で立ち上がることすら出来なくなった時、馬車から放り出されて体を痛めた時。いつもマーニの傍に居続けて、看病し、慰めて、頭を撫でてやった。魔女に魔法を掛けられたとしても、僕は同じことをし続けるだけだ。


 マーニの頭に手を伸ばそうとした。その時、自分の掌とマーニの額にある紋様が目に入って、手が止まった。


 マーニにある紋様は、血の魔女がマーニの体を乗っ取るための証だろう。だが、僕の掌にある紋様は何のためにあるのか。僕もマーニと同じく、血の魔女に体を奪われるのか。でも、マーニのように意識を失ってはいない。それに紋様は額ではなく、掌にある。


 先生はマーニの額の紋様を見てから、僕の手を確認していた。そして、ずるずると僕の記憶を蘇らせて、血の魔女による魔法であることを探り当てた。先生が魔女だからこそ、魔法の知識を持って、それを当てたのだろう。この紋様が理不尽な復活の魔法の印だと判別したのなら、それが僕にも付けられた意味も、これが何を齎すのかも分かっているはずだ。なのに、どうしてそれを教えてくれなかったのだろうか。


 気付くと、掌の紋様を見つめていた。見れば見るほど不安が募っていくのに、目が離せなかった。恐怖が心に満ちきる前に、手を握りしめて呪縛から逃れた。同時に、行き場を失くした感情が涙となって溢れ出して、それでも足りずに嗚咽となって露わになった。


 ベッドの端に顔を埋めて、声を殺そうとする。そうしている間にも、どうして、どうして、と思考が最悪を想定し出して止まらなくなった。


 どうして僕たちばかりが不幸になるのだろう。どうしてマーニが死ななければならないのだろう。マーニはとても良い子で、僕にはない輝きを持っていて、この小さな体には収まりきらないほどの大きな夢を持っているのに、どうしていつもそれを邪魔するものがいるのだろう。


 そして、いつも僕はその可哀想なマーニを救えない。ただ、傍にいることしか出来ない。僕にはマーニしかないのに、そのマーニのためにしてやれたのは気休めだけ。マーニの苦しみを取り去ってやれたことなど一度もない。


 今もこうして泣き喚くだけで、先生の言い付けすら守れていない。僕は無力だ。僕に残された唯一の希望、それが潰えるのを恐怖し、絶望して待つだけの意味のない存在だ。


 悲嘆したまま意識が遠のいていく。まるで深い闇の中に沈んでいくようだった。マーニもこの闇の中で揺蕩っているのだろうか。そうであれば嬉しい。このままマーニも僕も、闇の中で溶けあってしまえれば、僕はまだ救われる。

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