1-5話目



 あれから長い時間、何となくぎこちない雰囲気のまま、私とエドが行儀良く二人並んでソファに腰を下ろし、チラチラと互いを意識していると、これはもしや絶対に笑ってはいけない異世界宮殿24時なのでは? などと、暇な余りに明後日の方向に思考が流れてゆくのは、どうしたものだろう。

 もうそろそろ黙ったままでいるのも限界、と思い始めた私とエドが、同時に口を開きかけたとき扉の開く音がして、すわ仕掛け人か、とその方を見やれば、もちろん他の誰でもない、アル兄さまが戻って来たのだった。


 母上さま……じゃなかった、女王陛下とはいわないまでも、誰か連れて来るのではないかと思っていたのに、アル兄さまの後ろに控えているのは侍女がひとりだけ。

 おそらく彼女がアル兄さまの言うところの信頼できる侍女なのだろう。

 だが、いま私がいるこの宮殿と女王陛下である母上さまのいらっしゃるだろう王宮が、どれほど離れているかは分からないが、予想していたよりも早い戻りに、もしや直接の御報告とはいかなかったのだろうかと思う。

 それとも……と私が考え事をしているうちに、アル兄さまは私とエドの傍まで来ていた。腰を浮かせかけたエドに、そのままで良い、と片手を上げ動きを制しながらテーブルを挟んだ向かいの一人掛けの椅子へ座ると、ゆったりと長い脚を組む。

 それから私とエドの間に空いた、ふたり分のスペースにちらと目をやり、アル兄さまは徐に片方の眉を上げた。


「おや? ……もしかして、何かあったのかな? エドヴァルド?」

「……いえ。互いに再会を喜んだ以外、特には」

「ふうん? イチカ?」

「えっと、ええっと……。はい。ありますた。また会う、エド、喜ぶ、私も、嬉しい。でも私、言葉、忘れるます。だから、お口、がんばるます、した。しかし、じょうず、ない。エド、気持ち良くない、です。エド、がっかり。それからエド、言いますした。私だけイク、駄目。イク、言わないのも、駄目。ちゃんと言う、約束。そうしたらエドも一緒、イクする。私、分かった、言った。そして昔より、大きい、なる、忘れてた、エド、硬くなるますした、私、触る、驚きます。恥ずかしい、なりましょう。それで離れるます、しているます。ごめんなさい。エド、アル兄さま、私、約束するましょう。やっぱり、おしゃぶり、もっと、練習、必要です」

「………!!!?!??」


 つまり、再会を喜んだは良いが、私が言葉を忘れてしまったことと、拙いお喋りでエドが気分を害してしまったこと。そして、行動するときにはひと声エドに掛けてからか、エドと共に行動することを約束したこと。成長し、大人になったのに幼い頃の延長で遠慮のない態度で触れてしまい、エドの態度が硬くなったことに気づき、恥ずかしくなったので離れて座っていること。今後は留意し、さらには会話の上達に励む。

 ね? そうだよね? とエドの方を向いて私は、にっこり笑った。けれども残念なことに、どうも上手く伝わらなかったようで、アル兄さまの方を見据えたまま顔を真っ赤に染めたエドは、勢いもよく、ぶんぶん、と音が鳴るほど首を横に振って見せた。

 えっと違う? どこが?

 その上、どうしたことかアル兄さままで私の言葉に、一瞬、ぎょっと目を剥いたように見えたが、私とエドを交互に見やったあとで「まあ、良いよ。うん。何となく分かったから」と、小さく溜息を吐いたのだった。


「エドヴァルドが無理矢理***とは思わないし、まさかイチカが***で**したとは、考えられないけど。まあ……私もイチカの**とか****を全く想像しなかったとは言えないしねえ」

「なに、です? アル兄さま???」

「あの……申し訳ありません、王太子殿下」

「いや、エドヴァルド。畏まる必要はないよ。ここでは楽にして構わない」

「はい」

「まあ、イチカについては思うところが色々あるけれど、そろそろ本題に入ろうか」


 アル兄さまが、そう言い終えると間を置かずして、先ほどの侍女によってテーブルの上にお茶の支度がなされた。蜂蜜や糖蜜、砂糖をふんだんに使った菓子類が並ぶ。見れば、幼い頃の私が好んで食べていたものばかりだ。

 この世界では精製された砂糖は貴重で、高貴な人に供する菓子は、甘ければ甘いほど良いとされている。そのようなこともあって、菓子とは甘いばかりで、正直なところあまり美味しくないものが多い。

 だが……。

 これ! これは美味しいやつだ。

 思わず口の中に唾液が湧いた。

 幾重にも重ねた翅のような極薄のパイ生地に、細かく砕いた木の実をたっぷり挟んで焼き上げ、花の香りがする濃い糖蜜とバターを、これでもか、と浸るくらいにかけたものだ。中に挟むものが木の実ではなく、濃厚なクリームの場合もある。

 この菓子は、私の世界のバクラヴァにそっくりなのだ。というか、もうバクラヴァと言ってしまって良いと思う。甘すぎて、ひと口で充分なのだけれど、また暫くするとどうしてか食べたくなる不思議と癖になる美味しい菓子だ。

 わわっ、恥ずかしい……。知らず、幼い子供みたいに、無邪気にニコニコしていたようだ。そんな私を見たからかアル兄さまは「食べさせてあげようか?」と言うし、エドは昔の癖が抜けないのか、フォークに乗せた菓子を「ほら、これイチカの好きなやつ。口を開けろよ」と、ごく自然に差し出してくる。


「わ、私。大きい、なるました。大丈夫、ひとり、食べるま……むぐっ」


 無理やり口の中に突っ込むとかエド、酷い。

 

「美味しいですか?」


 それこそ身体中、溶けるような甘い微笑みで尋ねたのはアル兄さまだ。

 恥ずかさしから思わず涙目になってしまったが、もう次を準備しているエドを軽く睨んでから、しっかり口元を押さえ、こくこく、と頷く。きちんと、ごくり飲み込んでから口を開いた。


「はい。すごく、甘い。美味しいです」

「ねえ、エドヴァルド。自分で***しておいて***するのはやめなさい」


 アル兄さまの言葉に、どうしたのかとエドを見ると、フォークを握ったままの拳で口元を覆い、私から顔を背けている。

 また、呆れられてしまったようだ。


「ごめんね、エド?」

「いや、イチカは何も悪くないかな。エドヴァルドが勝手に***して****だけだよ」

「兄上……イチカ……いや。なん、でもない。頼む。気にしてくれるな」

 

 

「さて、では話を戻そうか。その前に、ひとつイチカに頼みがあるのだけれど……」

「良いですよ?」

「まだ、何も言っていないのに?」


 アル兄さまが、ふっと優しく目を細めた。肘掛けに腕を置くと、長い指で形の良い唇をなぞりながら私を見る。


「ねえ、イチカ。そう簡単に返事をしてしまって、良いの?」


 私は、アル兄さまから目を逸らすことなく、ゆっくり頷いた。


「ええ、大丈夫です。私、助けてくれた。アル兄さま、エド、オリくん。母上さま、父上さま。ずっと、ずっと、ありがとう、したかった。だから私、やります」

「そう、それなら……実は私の婚姻の儀が明後日に控えていてね」

「わあッ。すごく、おめでとうございます。アル兄さま」


 思わず両手を合わせて、ソファの上で小さく飛び跳ねてしまう。

 もしかして、優しいアル兄さまのことだから、私が婚姻の儀に気兼ねなく参加できるように、頼みがある、などという言い方をしているのではないだろうか。ちらとでも、そう考えてしまった私の、なんと浅ましくて図々しいことか……。


「ところが、困ったことに妃となる予定だった娘が昨夜****してしまったのだよ」


 気づいたのは今朝のことでね、とアル兄さまは、ぎゅっと目を瞑り、眉間に皺を寄せたところを指先で押さえ首を振る。

 

「むずかしい、****なに?? です?」

「離宮に室を与えていたのだが、そこから出奔……遁走を……つまり『逃げる』ことだな」

「えええっ?! どうやって? むり、ないでしょう?」

「いや、それが無理な事ではなかったんだ」

「その娘と共に来ていた魔術師が、気づけなかったことに、なんともまあ彼女と割ない仲でね」


 エドとアル兄さまの話をざっくり纏めれば、嫁入りをする予定だった某姫さまが、国から連れて来ていた恋人の魔術師と手に手を取って愛の逃避行に出たということらしい。

 某姫さまが滞在していた離宮の寝室には、消えかけて読み取りの出来ない転移の陣と、彼女の手蹟による手紙がご丁寧に残されていたそうだ。


「その娘は、ラベリ王国というところの姫でね。いちおう同盟国の姫ではあるのだけれど、彼の国は、どうやら厄介なことに巻き込まれているみたいなんだ。簡単に言えば、ラベリ王国を使って戦争を起こし、我が国フィスエラルドとラベリ王国を同時に手に入れようとしている別の国があるというわけさ」


 さらには婚儀二日前である。同盟国の要人たちは皆、すでに王城に滞在している。友好関係を築いている国や、交流のある国の要人も城下入りしているのは間違いない。


「その国、グディイアム帝国にしてみれば色々、美味しいよねえ。恥をかかされた形になるフィスエラルドとしては、対外的に何もしないわけにはいかないし。かといって同盟を破棄するのは絶対に出来ない。そんなことをすれば相手の思惑に乗ったようなものだからね。だからやれないんじゃなくて、出来ない。しかもラベリ国王は婚儀には参列せず、王太子殿下妃殿下が列席するというのだから勘繰ってしまえばきりがない。同盟を裏切りグディイアム帝国と共謀しているのはラベリ王か王太子殿下のどちらか、それとも……」


 つまり可哀想ではあるが、愛の逃避行と思っているのも某姫さまだけで、実際のところ魔術師は恋人でも何でもないのかもしれなかった。

 

「グディイアム帝国は、豊かなフィスエラルドが欲しいというよりも、この大陸すべてを手中に収めんとしているのだよ。国が大きすぎるのは考えものだと私は思うけれど、彼らは違うんだね。大義として争いのない世界を目指し、そのために国を統一したい。もちろん、私だって国同士の争いほどくだらないことはないと思うから、彼らのしようとしていることは分かるよ。目指そうとしている理想も。ただ、様々な国や多様な民族が寄せ集まれば、どうしたって内部に問題を抱えてしまう。小さな不満を大きな力で抑えることになる。それを繰り返した先にあるのは、何か分かる? 消えない争いの火種を抱え、あちこちで起こる小競り合いによって、やがて大国は瓦解する」


 虚しいよね、とアル兄さまは言った。


「いちばん良いのは、真実を隠し、妃となる予定だったその娘が病に倒れたことにして、ひとまず婚儀の延期をさっさと発表してしまえば良いのだけど……それもまた色んな憶測を呼ぶし、難癖をつけ易くもなる。また、嘘が明るみになった場合には、ラベリ王国だけでなく他の国にも付け入る隙を与えてしまう」


 うむうむ、と私は頷く。婚儀の前に病で倒れた姫。どうやら妃となる予定だった同盟国の姫に毒を盛った者がいるらしい、と噂を流すだけで、フィスエラルド王国が内外からどのような目で見られるようになるかなんて、政治に疎い私でも想像出来る。いくら国や同盟国を守る為だったといっても、嘘もバレてしまえば信用問題に関わるし。

 ん? バレなきゃ良いんだよね?

 でも、どうやって?


「さて、そこでだ。イチカに頼みたいことがあると言ったのはね?」


 嫌な予感というのは不思議と大概当たるもので、私はアル兄さまが何を言おうとしているのか気づき、だんだんと血の気が引いていくのが分かった。


「イチカには、その娘の代わりに私と婚姻の儀を挙げて欲しいのだよ。ああ……なにも心配しなくとも大丈夫。いなくなった魔術師を除いて、その娘の顔を知る者は、誰もいないのだからね」


 にっこり、とアル兄さまはお手本のような笑顔を見せた。


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