1-4話目



 アル兄さまが部屋を出て、だいぶ経った頃。廊下の辺りが何やら騒がしくなったと思ったら、勢いよく扉の開く音がして、ひとりの青年が駆け込んで来た。

 

「……そんな、まさか。嘘だろ?!」


 こっくりとしたバターを溶かし、陽に透かして見たような黄金色の髪は、さらりとして癖もなく、襟足は短く刈り上げている。私の世界で言うところの、いわゆる長めのツーブロックとやらであるが、その髪型は青年の凛々しい顔立ちに良く似合っていた。

 すらりと背が高く、着ている騎士服の上からでも分かる引き締まった身体。

 驚きに見開かれた切れ長の目の瞳の色は、黄緑色の強いアース・アイ。

 私はこの瞳を覚えている。同じくして、アル兄さまが言っていた言葉を思い出した。

 そう彼は私の、良く知る人。

 喉仏も高く、精悍な青年へと変わってしまったが、確かに、あの頃の面影があった。


「えっと……エド?? だよね? あのね、わた……」


 言い終えないうちに、長い腕で、ぎゅうぎゅうに抱きしめられていた。


「イチカ……? イチカか? なあ、イチカだろ? イチカだよな!? そうだろ? いままでどこにいたんだよ!?」 

「く、くるし。苦しい。や、やめる……やめて? エド、いっぱい苦しい」

「ああ、もう****!! ***で*****」

「まって、まって、むずかしい。エド。忘れた、言葉、ごめんね?」

「……なんで……なんで忘れてんだよ! オレは……オレはずっと……」


 一旦解かれかけて軽くなった抱擁だったが、謝った途端になぜか再び、ぎゅうぎゅうと抱きしめられて苦しい。なんでって……使わなければ忘れると思うの。

 

「どうして急に居なくなったんだよ。どこかで迷子になってたのか? 探したんだからな。探して、探して……オレは……オレは」

「ごめんね、エド。私、消えた、前の世界。もう一度、戻った、ここに。また、エドの傍に、戻った……ね? ごめんね?」


 長い腕が解かれ、エドの前髪に隠れていた汗の滲んだ額と私の額が、こつん、と合わせられる。鼻先が着きそうな距離で、瞳を覗き込まれた。エドの綺麗な瞳の奥が揺らいでいて、それを見た途端、胸が苦しくなった。

 ああ、エドだ。

 腰に回されたエドの手のひらが、酷く熱い。またエドを走らせてしまったんだなあ、とぼんやり思う。そういえば、この世界に来たばかりのあの頃も、エドはすぐに迷子になる私を探して走り回っていたなと、少し気が咎めながらも、込み上げる懐かしさで唇が弧を描く。

 

「なんで笑ってんだよ」

「ふふっ。また会えた、嬉しい」

「……ッたく。おまえは、本当に****」


 ずるずると私の肩口に崩れ落ちたエドの頭を、改めて抱きしめた。爽やかでピリッとしたオードトワレに汗の匂いが混じった、エドの匂いがする。あの頃から、なぜか嫌じゃない、どちらかといえば不思議と好きな匂いを胸いっぱいに吸い込む。


「おどろいた。エド、かっこよくなった」

「オレは前から格好良いんだよ」

「うん、そうだった」

「くッ…………んっとに、おまえは! 相変わらず人の気も知らないで」


 くすくす笑っていると、エドの身体の力がふっと柔くなって、これまでの雰囲気が一変した。ひと呼吸置いたあとで、エドの気遣わしげに囁く低い声が、耳元に落ちた。

 

 『だいじょうぶ?』


 その優しく思いがけない耳馴染みの良い言葉に、びくっと肩が震えてしまう。

 ……日本語。

 エドが最初に覚えた私の国の言葉。

 幼い頃とは違う青年の姿、声変わりをしてしまった低い音が奏でたのは、確かに、あの頃の私の口癖だった。

 何かあるたびに、何がなくとも、毎日のように自分自身に言い聞かせていた言葉。

 ああ、もう……エドだなあ、と思ったら駄目だった。このたったひと言で、突然現れて、何も言えずに再び消えてしまった私のことを、忘れることなく覚えてくれていたのだと分かってしまった。考えないようにしていたのに、いままでずっと心配させてしまっていたのだと、気づいてしまった。

 これはもう反則だ。

 ここに、離れていても、私のことを思い出してくれる人がいた。私なんかのことを、大切に思ってくれている人がいたなんて。

 ごめんなさい。ありがとう。

 堪えていた筈の涙が、溢れてくる。

 おそらく、いまだって私が虚勢を張っていることなど、エドはとっくにお見通しだったのだ。


 だいじょうぶ。

 大丈夫、大丈夫。

 きっと、大丈夫。

 私は、大丈夫。まだ頑張れる。


 いつだって、何度なんども、自分に言い聞かせていた。

 初めてエドが、辿々たどたどしくその言葉を私に向かって口にしたときは、持つ意味など分かっていなかったと思う。何度も繰り返し耳に入る言葉を、鸚鵡オウムが覚えてしまうのと同じ。

 それでも私は、凄く嬉しかったのだ。

 誰かに『大丈夫』と言って貰いたかったから。もう二度と聞けないと思っていた日本語を、聞くことが叶ったから。


「……エド、エド、エド」

「うん、うん……イチカ。『だいじょうぶ』大丈夫だから」


 エドの優しい声で分かってしまった。今だって、これまでだってずっと、誰かに『大丈夫だよ』と言って欲しかったのだ。

 ああ、それがエドで、凄くすごく嬉しい。

 回されていた腕をエドは優しく解くと、私の隣りに腰を下ろした。そのまま右手を取られる。私の不安を、あるいはエドの心配を、吸い取るかのように指と指とを絡めるようにして、ぎゅっと握り込んだ熱い手は、大きくて、ごつごつとして、剣を振るう硬い手だった。


「何があった? なぜ消えて、どうやってまた現れた?」 


 言葉を忘れてしまったと言った私に、エドは昔と同じように一言ひとこと、ゆっくりと発音してくれる。


「消えた、なぜ、分からないの。どうやって、知らない。気づいたら、いた、ここに」


 私は、ここ、と自分が座っているソファを空いている方の手で示す。その上、またいつ消えてしまうのかも分からないのだから。情けなくて困った顔をする私を、じっと険しい顔で見ていたエドだったが、ややもして力強く頷いた。そして、決心漲る、といった表情で口を開く。


「分かった。もう、どこにも行くな。二度とオレの前から居なくなるのは許さない。どこへ行くにも、黙って行かせるようなことは決してさせないから。オレは、もうこの手を絶対に、離さないからな。どこにも行かせない。イチカはオレから離れないで、オレの傍に、ずっといたらいい」

「え、困った」


 この世界には魔術があるのだ。本当に離れなくなってたらどうしようと、エドに握り締められて痛くなってきた右手に視線を送る。

 なんだか指先が紫色になってきているが、気のせいではないと思う。だんだん痺れてきているし、もしかして、何らかの呪が発動したりしていないよね?


「おい、どうしてそこで困るんだよ?! そこは『うれしい、ありがとうエド』って笑うところだろ?」

「だって……手? 二度と離れない? 着替え、困る。トイレとか、お風呂とか一緒、困った。私、エド、大きい、なる。恥ずかしい」

「……ッば、莫迦か。そっ、それ……それは、どこを大きくって違う。いや、違うよな。だけど****とか***は、***であって、いや、オレは違うから。違わないけど。そんな意味じゃなくてだな」


 赤くなったり青くなったりと忙しなく、わたわた慌てるエドを見ながら、ではどういうことかと首を傾げる。


「あー。だから、もう。まいったな。せめてどこかへ行くときには、行くまえに前もってオレに声を掛けるか、一緒に行くかしようってことだよ。黙って消えて欲しくないんだ。本当はそれだけじゃないんだけどなって言っても***なイチカには分かんないだろうけど……」


 おい、分かったのか? と、エドが私の額を指で弾いた。

 痛い。再び涙目になって痛む額を摩りながら、むうっと唇を突き出し、思わず上目遣いでエドを睨んでしまった。


「もう、分かる。分かった。エド言わせる、痛くする、酷い。でも、私、イク、ちゃんと言う。言える。ひとりでイク、駄目。エド、怒るない。気持ち、良くなる約束、する。イクとき、エドも一緒」

「――――ッ?!」


 いったい、どうしたというのだろう。束の間、大きく目を見張ったエドは、急に私の手を離すと天井を見上げ両手で顔を覆い、無言でコクコクと何度も頷いているではないか。

 さらには破壊力がどうだのと不明瞭な声が聞こえるが、どうして何が壊れるというのか、さっぱり分からない。おそらく、だが、私の言語能力が破滅的だと呆れて天を仰いでいるに違いなかった。

 

「……エド?」


 そのまま固まってしまったエドの肩に、そっと手を置き、近寄ると、下から指の間を覗き込むようにして様子を見る。大丈夫だろうか? まあだけど、言葉を教えた本人エドにしてみれば、私の記憶力というか言語能力の無さに衝撃を覚えるのも、無理はないと思う。


「あのね? もっと、がんばる。私。おくち、じょうずになる。おしゃぶり、エド、良い、言うのまで、いっぱい、覚える。練習する。だから、エド、教えてくれる?」

「…………イチカ、少し黙って。おしゃぶりじゃなくて、お喋り、だから。それに、さっきから何か違う意味に聞こえちゃうと言うか、オレもう****だけで***って、あーホント***とかヤバい」

「エドなに、言ってる? ゆっくり、むずかしい分からない」

「いや……ちょ、ちょっとイチカ。だから……ッ。分かった。教える。ちゃんとまた教えてやる。だから、イチカ近い。近いから、お願いちょっと離れて……」


 ここの世界の人はスキンシップが多めだったし、元はといえば、いまだってエドから先に抱きしめてきたんじゃない……と何となく腑に落ちない気持ちになったが、こうも全力で拒否されると流石に落ち込む。

 まあ、兄妹のように暮らしていたのは、三年という短い間だったし、感動の再会も落ち着いてみれば確かに少し気恥ずかしい。

 私はエドからきちんとふたり分空けて、ちょこんとソファに座り直した。






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