幕間 

それぞれの想い アルフレド=イェルムヴァレーン①



  フィスエラルド国の王位継承権を第一位に持つ母親の元に、第一子として生を受けた十二歳のアルフレド=イェルムヴァレーンと、七歳だったイチカの初めての出会いは、離宮の庭園の外れにある四阿での予期せぬ偶然のことだった。


 というのも、ひと月ほど前、弟の九歳になったことを祝う茶会に現れたという幼い女の子の話は、家族で住まう宮殿内でも持ちきりだったが、アルフレドは全く興味がなかったからである。

 件の女の子が自国や周辺国でも見たことのない黒目黒髪を持ち、妖精のように可愛らしいのだということを知ってはいたが、それらの話はアルフレドの身支度を整える間、お喋りな侍女たちによって、一方的に齎されたものでしかなかった。

 ですから王子殿下も、ぜひ一度、お会いしてみて下さいませ。

 侍女たちの言葉に、まあ、そうだね。と愛想よく頷きはすれアルフレドは、わざわざその子の顔を見に行くようなこともないと捨て置いていた。

 いくら皆が口を揃えて可愛いと言おうと、たかがひとりの幼い女の子である。

 そのうえ聞くところによれば、広い王城内の宮殿のひとつに、突然現れたという冗談でもつまらない話までついてくるではないか。

 人が突然に現れるなど、このような話、どう考えても信憑性がない。

 多忙であることを理由にそれ以上詳細を尋ねることはしなかったが、言葉も分からない幼い女の子がひとり一体どうやってなど、アルフレドが考え得ることはひとつだった。

 大方、よからぬ思惑を持つ貴族の誰かが、どこからか拾ってきた子供を、賄賂を駆使し誰にも知れずこっそり宮殿内に引き入れたのだろう。そう考えれば、幼く、言葉が分からないのも実に都合が良い。ただ、そうなれば、こうも簡単に部外者が闖入できてしまうという事実を目の前に突きつけられていることになり、これは決して、あってはならないことである。となれば、宮殿内の衛士たちを、いま一度検める必要性があるなとアルフレドは思うのだった。


 と、ここまで色々と考えたところで満足したアルフレドは、幼い女の子のことはもうどうでも良くなっていた。

 それでなくとも彼の毎日は、忙しい。正式な王位継承権を持つ一人として学ばねばならないことは多岐に渡り、重ねて、貴族の子女たちの為に創設された学問や魔術を学ぶ学院へと通い始めたばかりだったこともあって、僅かな自由時間を利にもならない他人、それどころか幼い女の子とはいえ身元もよく分からない闖入者の為に割くなど、煩わしいだけだと思っていたからだ。

 さらにアルフレドは、この数ヶ月ひどく疲弊していたので、有り体に言うならば、面倒なことには巻き込まれたくない、というところなのである。

 人に囲まれている生活は、アルフレドにとって幼い頃から当然のことであり、自身では格別の不自由もなく慣れているとばかり思っていた。だから学院生活も、これまでと同様に、大した苦労などないと過信していたのである。が、しかし傅く使用人や、表面を取り繕うことには些かの卒もない高位貴族たちとは違う、同じ年頃ばかりが集う学院という場所は自由であると同時に、いや、自由だからこそ、アルフレドにはある意味初体験のことばかりが多かった。

 通いはじめてまだ半年だというのに、特殊な、予想もつかぬ変則的なことが起きたりと、なかなかに穏やかに心休まる時間がなかったのだった。


「婚約破棄だの断罪などと、自分に酔っている奴が衆目を集めたいが為にしているとしか思えないのに、何がそんなに良いんだろう。今月に入ったばかりでもう二組目とは、随分な流行だよね。それにしても実にくだらないと思わない?」


 束の間の自由時間を利用し、アルフレドは離宮の庭園を散策していた。共に学院へ通う、一歩後ろに控えている従者のスベンの方を時折り振り返り、愚痴を吐きながら、気づかぬうちに随分と奥の方まで歩いて来てしまっていた。


「婚約の破棄を勝手に当人同士で決められると思っている時点でもう、貴族としての資質はないよねえ。そもそも家同士の利害関係やパワーバランスで決めた婚約など、あってないようなものじゃないか。情勢次第ではいつ反故にされるかどうかも分からないんだよ? 断罪とからやも、嫌いな奴に対する揚げ足取りの単なる吊し上げで、罪らしい罪なんてどこにもなかったよねえ?」


 余計なことは言わず、黙って従うのを良しとしているのは無論知ってはいるが、せめて相槌くらいは欲しいとアルフレドは思う。

 まあ、良いけど。


「……何か聞こえないか?」


 アルフレドが、その奇妙な音に気づいたのは、離宮から遠く、庭園とはいえ外れの辺りまで足を延ばしたときだ。

 鳥の囀りの向こうから聞こえる。

 アルフレドは最初、ガッドという小さな魔獣の仔の鳴き声だろうと思った。庭園の奥に広がる森にはよくガッドが迷い込んでくる。

 魔獣とはいえ個体は小さく、大した害のないものでもあるため、城の者は皆、討伐することなくガッドを放ったままにしていた。それでも、ガッドは爆発的に増えることはない。自然と弱いものは淘汰されるからである。おそらく別の魔獣の餌になってしまうのだろう。

 仔ガッドが近くに居るならば捕まえて、二人いるうちの小さな方の弟、イェーオリの遊び相手にしてやっても良いなと、アルフレドは思った。

 だが、鳴き声をよく聞けばガッドとは違うようだ。押し殺したような、高くか細い声は人のもののようである。

 虐められている下位女官か、はたまた艶めいた逢引きの最中か。

 関わりになりたくないアルフレドが踵を返そうとして、何気なく四阿の方へ視線を向けた瞬間、目にしたもの。

 蹲る幼い女の子が、たったひとり。

 光を湛えた綺麗な黒髪、声を漏らすまいと口元を抑える小さな手。涙で濡れて燦く柔らかそうな頬は、まるで滑らかなクリームのような色。残念なことに、しっとりとした黒い睫毛が伏せられている所為で瞳の色までは分からなかった。

 だが覚えているのは、そこまでだった。

 驚くことに、何とアルフレドが次に我に返ったときには既に、その小さな女の子の前で跪き、涙に濡れる顔を隠していたその小さな手を取って、瞳を覗き込んでいる自分というものを発見するに至ったからである。

 何故どうして、またどうやって、ひとり泣き濡れる女の子の前まで歩いたのか、アルフレドにはそれまで一切の記憶がない。

 気づいたときには、あれほど面倒には巻き込まれたくないと思っていたその渦中に、自ら飛び込んでいたのだった。


 一方で、突然、見ず知らずの美麗な少年にいきなり手を取られたことで、女の子は泣き止み目を見開いていた。

 鈴を転がしたような声が、アルフレドに向かって何かを問いかけたようだが、あいにく言葉は通じない。

 アルフレドの方はといえば、知りたかった瞳の色が、光沢を持ち、黒く、希少で美しい宝石のようであることに魅せられていた。


「……そうか、君が」


 女の子、とは聞いて知っていたものの、実際に目の前に現れてみれば、この子はアルフレドが知るどの少女とも違っていて、初めて見る不思議な生き物であった。

 それは、その希少で美しい容姿を指すだけではない。

 不安と好奇心を覗かせ、それでも静かにアルフレドの中にある何かを見極めようとする幼くとも整った顔は、実に賢そうだ。

 さらにこれほどまでに幼い女の子が、息を押し殺して泣くなんて、アルフレドは見たこともなければ聞いたこともなかった。アルフレドが知っているのは、本能のままに泣き喚くか、涙を器用に操り泣き顔にさえ媚を含んだ女の子ばかりだったからである。

 この女の子はそのどちらでもなかった。

 隠れるようにして、たったひとり、誰の目もないところでさえ声も立てずに泣いていたというのだから、不思議な生き物として興味を惹かれたのも然もありなんとアルフレドは思う。

 

「私は、アルフレド=イェルムヴァレーンと言うんだ。ねえ、君の名前は?」


 言葉は通じないと分かっていた。

 頬で燦く涙が綺麗で、大きな黒い瞳が溶けそうで、赤くなった小さな鼻も、擦った目元も可愛いらしくて、もっと泣かせてみたいと思ったことはそっと心に秘め、だが、せっかく泣き止んだのだからと、例え無駄だとしても話し掛けてみようと思ったのだ。


「アルフレド」


 自身の胸を指す。

 少しだけ躊躇ってから、アルフレドは女の子の胸に軽く指先を当てた。

 再び自身の胸に指を置き「アルフレド」と言ってから、女の子に指先を軽く当てる。


「……いちか」


 間髪入れずに答えが返ってきた。

 見たところ五歳ほどの女の子にしては、実に賢いとアルフレドは思った。


「イチェカ?」

「い、ち、か」

「イェーチェ、カ?」


 ぷくっと女の子の頬が膨れ、イヤイヤをするみたいに首を左右に振る。

 艶やかな黒髪の細くしなやかな一本いっぽんが陽に当たり、魔術を行使したときのように瞬いて見えた。


「い、ち、か」

「イ、チ、カ。……イチカ?」


 ぱあっと花が咲くような笑顔のあと、少し恥ずかしそうに俯き、そっと上目遣いでアルフレドへと向けられたのは、瞳だけで笑む、という歳に似合わない照れ方だった。


 ……か、可愛い。なんだこの生き物は。


 アルフレドは、ぽかん、と口を開けたまま固まる。自分がどれほど間抜けに見られようとも、イチカという女の子から目が離せなかった。拗ねたり照れたりする以外の、イチカのもっと可愛いところを見逃してなるものか、と思ったのかどうかは分からないが、とにかく、ぱちりと開いた両目はそのままに、かろうじて口だけは閉じた。

 背後から従者の咳払いが聞こえたからでは、決してない。

 その様子を見てイチカは、どうしたの? と尋ねたのだろう。言葉は通じないが、何を言わんとしているのかが何となく分かるような気がするのは、感情を乗せて素直にくるくると変わるイチカの表情の所為だった。


「イチカは、可愛いね」


 跪きイチカを覗き込んだままのアルフレドの言葉にイチカは、こてん、と首を傾げる。

 暫くじっと互いの瞳を見つめ合っていたが、やがて、はっと何かに気づいたイチカが慌てた様子でアルフレドの両手を取ると、懸命に上へ上へと引っ張り出した。立ち上がって欲しいと言うのだろう。


「***、****。*******」


 必死なってに言い募るイチカの、ぷっくりした唇は、アルフレドの知らない言葉を紡いでいる。

 立て、といっているのは間違いない。

 アルフレドは促されるままに立ち上がると、痛々しく涙の線が残るイチカの頬に片方の手を当てた。


「イチカ、もうひとりで泣かないで? 私がイチカの涙を全部、飲み干してあげるから。もし、次にひとりで泣いているのを見つけたら……そうだな。そのときは、お仕置きをしようか。このさき決して、ひとりでは泣きたくならないように、お仕置きはどのようなものにするかを考えておかなくてはね?」


 イチカは、言葉が分からないながらも、アルフレドが何を言っているのか考えているのだろう。その戸惑うような、半分だけ困ったような顔も可愛い、とアルフレドは思う。

 頬を撫で下ろし、黒髪に指先を絡めた。

 どちらも想像していた以上の滑らかな触り心地に、うっとりとなる。

 そのとき、離宮のある方から弟のエドヴァルドと思わしき声が聞こえてきた。

 誰かを探しているようだ。

 誰か? そんなもの一人しかいない。


「……チェ……カ!! イェーチェカ!! イーチェカ!! どこだ? どこに行った?! イチェカ?!!」


 これまで互いの顔を見合っていたのに、名を呼ばれていると分かった途端、声のする方へ、イチカが勢いよく振り返るのがアルフレドはどうしてか面白くなかった。

 だが、エドヴァルドはイチカの名前を正しく発音出来ないのだと知ると、胸の奥が微かにふわふわとする。胸に湧き上がるこれまで感じたことのないこの感覚は、いったい何であるのか。

 聡明といわれるアルフレドであったが、彼は気づいていなかった。何故なら、これまで自分と誰かを比べることなどなかったアルフレドである。そのような彼が、三つ歳下の実の弟であるエドヴァルドと自らを比べたことで引き起こされた感情。 

 それが、優越、というものであると。


「……エド」


 しかし、それはイチカの声を聞くまでの僅かな間でしかなかった。イチカはエドヴァルドを愛称で呼んでいるのだと知った途端、掴みかけていた先ほどまでの感情は、見る見るうちに萎んでゆく。


「イチェカ、心配するだろ。こんなところで何やってるんだよ!」


 ちらとアルフレドを窺いながらエドヴァルドはイチカに駆け寄ると、大きな声で捲し立てる。


「王城内は広いんだぞ! 気をつけていないとイチェカは、すぐにまた、迷子になってしまうんだからな?!」


 青褪めたエドヴァルドのあまりの剣幕に、呆気に取られたような顔をしていたイチカを見ながら、怒られていることは理解しても、心配されているのまでは分からないのだろうなとアルフレドは思っていた。

 だが次の瞬間、イチカのしたことに驚く。

 エドヴァルドの額から汗が落ちるのを見て、気づくことがあったのだろう。気を取り直したイチカが、手を伸ばし指先でそっとエドヴァルドの服を掴んだのだ。

 そして……。 


「****、***? ***、ごめ、なさ。ありがと」

 

 ありがとう?

 知らない言葉のあと、イチカの小さな口から発せられたのは、確かに、アルフレドの聞き慣れたフィスエラルド語、それも感謝の言葉だった。

 アルフレドが驚いている隣りでは、途端に真っ赤になったエドヴァルドが、服の裾を掴んでいたイチカの手を取り、もう離さないとばかりに、ぎゅっと握り込むのが見えた。


「アルフレド兄上、お騒がせしました」


 エドヴァルドがアルフレドに向き直る。


「いや……エドヴァルド? この子は」

「イチェカが、何か? もしやアルフレド兄上に何か失礼を?」

「そうではない。そうではなくて……イチカはフィスエラルド語を……」


 アルフレドが、イチカ、と名前を呼んだことに眉を顰めたエドヴァルドを見ながら、話せるのか? と続ける。


「いいえ、まだ殆ど話せません。オレがいま言葉を少しずつ教えているところなんです。ですが、イチェカは物覚えが……」

「イチカ」

「……はい?」

「この子の名はイチェカではなく、イチカ、だよエドヴァルド。イ、チ、カだ。言葉を教えるなら、その相手の名前くらい正しく発音できなくては」

「イチェ……イッチ? ……イ。イチ。イ、チ……カ?」

「そうだよ。ねえ、イチカ?」


 アルフレドがイチカに向かって微笑めば、名前を正しく呼ばれるのが嬉しいとばかりに、満面の笑みが返って来る。

 対して、それまで弾むように話していたエドヴァルドが、悔しそうに唇を噛み締めるのは少し哀れでもあった。が、そのようなエドヴァルドを見て少し強張っていたような胸の奥が、解れたと感じるのは何故だろうとアルフレドは思う。先ほどから腹の奥というか胸の辺りが変な感じがするから、もしかしたら体調が悪いのかもしれない。


「……アルフレド兄上は、既にイチカと知り合いだったのですか?」

「ん? 違うよ。今そこで会ったばかりだ」

「そうですか……。イチカ、*****?」


 エドヴァルドがアルフレドの知らない言葉を話しながら、イチカの顔を覗き込む。


「エドヴァルド? その言葉は?」

「ああ、これはイチカの国の言葉です。イチカに、この国の言葉を覚えさせるだけでは不公平でしょう? せっかくいつも二人でいるのだから、オレも、イチカの言葉を覚えようと思ったんです。な、イチカ? *****?」

「*****」

「それではアルフレド兄上、イチカを見つけてくれて、ありがとうございました」


 エドヴァルドが握り込むイチカの手を引きながら、軽く頭を下げた。イチカはアルフレドとエドヴァルドを交互に見ると、同じように頭を下げだ後で何かを言おうと口を開いたが、声を聞くことは叶わなかった。エドヴァルドに引き摺られるような格好で、さっさと連れ去られてしまったからである。


「ねえ、スベン」


 エドヴァルドと手を繋ぎ去るイチカの小さな後ろ姿を見ながら、アルフレドは従者を呼んだ。その手は知らず、胸の辺りをぎゅっと掴んでいる。


「この後の予定は何だったかな? 後回しに出来るものなら良いのだけど。どうも気分がすぐれなくてね。変だなあ……気分転換のつもりが歩き回り過ぎてしまったのだろうか」


 当然として無口な従者から答えの返ることはなく、ただ珍しいことに、再び咳払いが聞こえたような気がしたものの、アルフレドはそのことに大して気に留めることなく宮殿へ向けて歩き始めたのだった。

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