十一話
自由を得たミコラスは都の中を一晩中歩きながら、その景観を当てもなく眺めて回っていた。そこで知ったのは、都の中心部へ行けば行くほど、立派で豪華な建物が多く並び、逆に中心部から離れるほど建物も人も粗末な見た目に変わっていくことだった。まるで中心部の、いわゆる上流階級が、周囲の庶民から富を吸い上げているかのように見えた。その中央で最も輝きを放っているのが、国王の住む王城だ。民を見下ろすように小高い丘に建てられた城は、ミコラスが五年前、城壁の外から見た時と何も変わらず、白く美しい姿を保っている。あの美しさのために、民は粗末な服装で働かされているのではないか――辛い日々を強いられたミコラスは、そんな気さえしてきた。
貧民街を歩いていると、ミコラスは自分とそこにいる者達の格好が同じだと気付く。くたびれて汚れた上着とズボン、今にも穴が開きそうな靴……。奴隷でもない人々は、奴隷だったミコラスと変わらない格好をしていた。自由があっても、困窮する現実が目の前にはあった。
都の美しさは表面だけのものだった。内側をのぞけば、富める者の笑いと、貧しい者の悲鳴が聞こえてくる。都を見て回るミコラスに楽しさなどなかった。自分が経験した辛さと似たものが、至るところにあると知っただけだった。しかし、ミコラスは彼らの前を通り過ぎるしかない。今の自分には何もしてやれない。ここにいる意味はないのかもしれない――青空の下、懸命に生きる人々を眺めながら、ミコラスは都を出ようと城門を目指して歩き始めた。
道に迷いながらも、人目を避けつつ中心部を通り抜けようとしていた時だった。通りの先に人だかりができているのを見て、思わず足を止めた。その奥には灰色の煙が立ち込めているようだった。
「火事だってよ。どこが燃えたんだ?」
背後から男性二人が小走りに追い抜いて、人だかりのほうへ消えていった。
「火事……」
そう知って改めて通りの奥を見るが、火らしきものはまったく見当たらない。大火事ではなさそうだったが、騒ぎの続いている通りは避けたほうがいいと判断し、ミコラスはすぐ側の陸橋の下の道へ向かう。夕方になり、辺りは薄暗くなり始めていた。
「――失敗だな」
陸橋の下へ入った時、奥から男性の小さな声が聞こえてきた。
「あんなに早く火が消されるとは……」
もう一人の男性が、やはり小さな声で言った。ミコラスは日の当たらない道を静かに進む。と、奥の出口付近の暗がりに、壁を背に腕を組む男性と、その向かいに立つもう一人の男性の姿が見えた。
「予定通りにできたのか?」
「ああ。ちゃんとやった。だが気付かれるのが予想より早かったのは否めない」
「それも予想して火をつけたんじゃないのか」
「それは、そうなんだが……」
ミコラスは息を潜め、その場を動かなかった。別に通りすがりとして歩いていけばいいのだが、二人の話の内容に耳をそばだてずにはいられなかった。それは明らかに、通りの先で起こった火事のことに違いなかった。
「報告役から聞いただろ? 火が回ってた時、中で何かが起きたんだ」
「風、だろ。そんなことあり得るか?」
「わからない……でも見たって言うんだから、そうなんだろ」
「向こうの都合よく風が火を消すとはな……にわかには考えられない。だがまあ、誰も見つからずにやつらの溜まり場は燃やせたんだ。いい結果としてとらえよう」
「そうだな。これで終わったわけじゃないしな」
二人はどうやら火事を起こした犯人らしい。しかしつけた火は風で消され、目論見通りにはいかなかったようだ。そこに吹いた風が、大火事になるのを防いだということだ。一族の村では、たき火やかまどの火を強くするために風を操ったりしていたが、火事を消すとなると、かなり強い風でないと消えないはずだ。ミコラスの脳裏に、ふと風使いという言葉が浮かんだが、外界と距離を置く仲間が都にいるはずもなく、それはすぐにかき消えた。
「次の目標は? 決まってるのか」
「ああ。二、三目を付けてるところはある」
男性二人は話しながら、暗い陸橋の下をこちらへ歩いてくる。それに慌てたミコラスは、どうにか平静を装おうとするが、表情も動きも硬くなってしまう。それでもゆっくり通り過ぎるはずだったが、すれ違いざま、男性の一人と目が合ってしまった。ミコラスはすぐに視線をそらすが、それがかえって怪しい印象を与えてしまった。
「……待て」
びくっとミコラスは肩を震わせ止まる。
「君、随分な格好をしてるけど、どこの者だ?」
ミコラスの前に回り込んだ男性は、その粗末な服装をじろじろと眺めて聞いた。
「僕は、その、都の……」
うつむきながら答えようとしたミコラスだが、その先の言葉を思わずためらった。もし都の人間ではないと言えば、ではなぜ都にいるのかと聞かれ、自分が奴隷として連れてこられたことが知られてしまうと思ったのだ。そうなれば役人に突き出されたり、またあの屋敷に戻されるかもしれない。そんな恐怖が、ミコラスの声を詰まらせていた。
「都の、どこに住んでる?」
男性は顔をのぞきながら聞く。その近さに、ミコラスは怯え、もう声も出なかった。
「だんまりか……怪しいやつだな」
もう一人の男性が呟いた。
「何を怯えてる? ただ質問に答えれば……!」
すると、何かに気付いた男性は、突然ミコラスの上着の襟元をつかみ、ぐいと引き下ろした。そうしてあらわになった鎖骨の上には、何かで引っかいたような古い傷跡があった。
「……これは?」
聞く男性に、ミコラスは何も答えられない。奴隷のしつけだと、何度も暴力を受けた時の傷で、こんな古傷は体中にいくつも刻まれていた。
黙り込むミコラスの様子をうかがっていた男性だが、今度は腕をつかむと、その袖を一気にまくった。ミコラスが抵抗する間もなく、左腕がさらされる。
「ほお……こりゃひどいな……」
顔をしかめたもう一人の男性が言った。
ミコラスの左腕には大小の傷跡が無数にあった。切り傷のようなものから火傷まで、どう見ても故意に付けられたようにしか見えないものだった。
痛々しそうに腕を見ていた男性は、真剣な顔になって言った。
「君はもしかして、奴隷――」
その言葉が聞こえた瞬間、ミコラスは男性の手を振り払って駆け出した。五年の地獄からやっと逃げ出したのに、また捕まってしまうなんて――二度と戻りたくないミコラスは、暗い道を懸命に逃げた。だが背後からは男性が追ってくる。
「おい! 待て!」
男性はすぐにミコラスに追い付くと、その腕を引いて無理矢理止めた。
「はっ、放せ……」
暴れようとするミコラスを、男性は正面から見据えて言う。
「逃げなくていい。俺は君の味方だ」
「僕を、連れ戻す気なんだろ!」
「そんなことしない。誰にも君のことは言わない」
真っすぐな目がミコラスに言っていた。だがこの男性は放火犯なのだ。そう簡単に信じることはできない。
「火をつけた人間の言うことなんか、信用できない」
これに男性は目を丸くする。
「何でそれを……まさか話、聞いてたのか?」
その時、もう一人の男性がミコラスの背後に近付くと、両腕をつかみ、羽交い絞めにした。
「ほら、暴れるな。俺達は何もしやしないよ」
「やめろっ……僕は戻らない! 絶対に……」
もがくミコラスを、正面の男性は溜息混じりに見つめると、おもむろに言った。
「何か誤解してるようだから、ちゃんと話をしたい。……放してやれ」
「平気か?」
男性はうなずくと、ミコラスを見た。
「その代わり、君も逃げないで話をしてほしい。いいね?」
まだ信用はできない。しかし話をしないと終わりそうになく、ミコラスは仕方なく了承した。羽交い絞めが解かれ、大人しくするミコラスを見て、男性が聞いた。
「まずは誤解を解こう。俺達は君を誰かに引き渡そうなんて考えちゃいない。むしろその逆だ」
ミコラスは怪訝な表情を浮かべる。
「逆って、どういう……?」
「俺達は君みたいな人をかくまってるんだ」
「その、奴隷になった人を?」
「そうだ。奴隷は皆、自分の意思でなったんじゃない。騙されたり、さらわれたりしてここに来る。君もそうだろ?」
ミコラスは小さくうなずいた。
「買われた家から助け出した人もいるけど、かくまってる大半は逃げ出してきた人だ。君みたいに……。行き場がないなら、俺達のところに来ないか? 都をうろつくよりは安全なはずだ」
優しい笑みを見せる男性だが、ミコラスにはまだ不審が残る。
「でも、あなた達は、犯罪者だ……どうして火なんか……」
これに男性二人は顔を見合わせ、難しい表情を作る。
「まあ、確かに俺達は犯罪者だ。それに関しては否定しない。でも人々を困らせるためとか、自分の気晴らしのためにやったわけじゃない」
「じゃあ、何のために……?」
聞かれた男性は、茶色の頭をぽりぽりとかく。
「それについては、話すと長くなりそうだ。ここじゃ誰が通るかわからないし……続きは俺達の家で話さないか? もちろん、嫌だって言うならここで別れてもいいけど……」
どうする? と目で問われ、ミコラスはしばし考える。話した雰囲気は思ったほど悪くない。自分達が放火したことも認めている。それを知ったミコラスをどうこうする素振りもなく、何かたくらんでいる気配は今のところ感じられない。疑いは完全には消えないが、それでも話を聞きに行ってみてもいいという気持ちは湧いていた。
「……わかりました。あなた達の家に、連れてってください」
おずおずと答えるミコラスに、男性二人は安堵の表情を浮かべた。
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