十話

「行ってきます。スベトラーナさん」


「今日も頑張ってきなさい」


 優しい笑顔に見送られ、レオンとマルファは玄関を出た。


「風が弱くて、いい天気ね」


「ああ。今日も稼げそうだな」


 人であふれる街並みを眺めながら、二人は一路ジニャス川へと向かっていく。ほどなくして到着したそこには、数人の男性が待っていた。若者から老人まで、年齢はばらばらだが、皆揃って体格はいい。


 そんな彼らを見回して、レオンは言った。


「全員集まってますね。それじゃ今日もお願いします」


 おう、と男性達は返事をすると、川岸にある小船にそれぞれ乗り込んでいく。レオンとマルファも別々の小舟に乗り、そこで待機する。と、早速声をかけられた。


「乗せてってもらえるかい?」


 荷物を抱えた男性に聞かれ、レオンは笑顔で答えた。


「はい。二十ウォガいただきます」


 金を貰い、男性が小舟に乗り込むと、レオンは櫂を漕いで川へ出ていった。ゆったりした水の流れの中を、小舟は揺れることなく横切っていく。


「話には聞いていたが、本当にいい乗り心地だ」


「ありがとうございます」


 笑みを返し、レオンは遠くに見える対岸へ向かう。櫂を握る手はあまり動いていなかったが、小舟の操船はもう慣れたものだった。レオンとマルファは、こうして渡船屋をしながら生活費を稼いでいた。


 都に到着し、レビナスの娘スベトラーナに会ったのは、今から五年前のことだった。


 二人は、すでにいるはずのミコラスに会うのを楽しみにしていたが、なぜか姿はなかった。スベトラーナに聞いても、そんな少年は来ていないと言われ、二人は途方に暮れた。事情を聞いたスベトラーナは、行き先のない二人の面倒を見る代わりに、自分の仕事を手伝ってもらうことにした。二人も最初からそのつもりで、手伝いをしつつ、その合間に現れないミコラスの姿を都で捜した。だが、いくら捜しても手掛かり一つ得ることもできなかった。


 月日は流れる。レオンもマルファも、もう少年少女ではなかった。世話になっているスベトラーナは、手広い商売をする事業者だった。仕事面では厳しかったが、二人に対してはまるで我が子のように接してくれた。独身で子供がいなかったせいかもしれないが、そんな彼女に二人は長いこと甘えてきた。しかし、いつまでも面倒を見てもらうわけにもいかず、自分達だけで何かできないかと考えるようになった。


 そんな時に閃いたのがマルファだった。仕事の手伝いで二人は、よくジニャス川を渡った先まで行くのだが、そこに架けられた橋は少なく、しかも大分歩かなければ渡れないほど遠い場所にあった。この不満は二人だけのものではなく、橋から遠い住人達は皆少なからず抱いているものだった。それを知っていたマルファは、橋を使わずに川を渡る方法を考える。それが渡船だった。


 だが、森で生まれ育った二人は船というものに当然縁がなく、操る術も知らない。疑問を口にするレオンに、マルファは幼い頃のある遊びを教えた。それは、水たまりなどに浮かべて遊ぶ、葉で作った船だ。村の子供はその船に風を吹かせ、よく遊んでいた。一見子供の遊びだが、風の操り方を自然に学べるという側面もあった。どんな力加減で、どういうふうに吹かせれば船は動くのか。そんなことを無意識に学べる遊びだった。


 葉っぱの船が大きい船に変わるだけで、やることは同じ――そうマルファは自信を持って言った。半信半疑のレオンだったが、結局その自信に乗ってみることにした。


 結果、渡船屋は繁盛した。最初こそ若い二人の船頭を怪しがり、人は寄り付かなかったが、誰か一人が乗ると、その安全さを確認した人々は徐々に利用し始めた。その客が快適だったと言えば、それは瞬く間に広がり、客はさらに増えていった。橋が遠く少ない不満を、見事にすくい取った仕事だった。


 スベトラーナの協力で、現在は船と船頭の数が大幅に増えていた。最近では同業者も現れ始めていたが、レオンとマルファの、風ですいすいと渡る船の速さと乗り心地は誰にも真似できず、客の数が減ることはなかった。この調子なら、独り立ちも間近に思えた。


「俺、休憩します」


 岸に戻り、客を降ろしたレオンは、他の小舟にいる仲間に言ってその場を離れた。


「レオン、私も一緒に行くわ」


 後ろからマルファが追ってきて、二人は並んで通りを歩いていく。


「今日は何食べる?」


 マルファは周囲の商店をきょろきょろと見回す。昼食には少し早い時間だったが、朝早くから船に乗る二人はすでに空腹だった。


「……ここの食堂の野菜ソテー、美味しいのよね。ここにする?」


「ああ、そうだな……でも、その前にちょっと一回りしてくる」


 レオンは食堂の前を通り過ぎ、そのまま先へ行こうとする。その姿に、マルファは眉根を寄せて呼び止めた。


「ねえレオン」


「……ん、何だ」


 振り向くレオンにマルファは歩み寄った。


「まだ、ミコラスのこと捜すの?」


 今度はレオンが眉根を寄せた。


「当たり前だろ。変なこと聞くなよ」


「変なことかな……。こんなに長いこと捜してるのに、誰も見たり聞いたりしてないのよ? やっぱり、都には来てないんじゃないかな」


「そうとは言い切れないだろ。都は広いんだ。まだ捜してない場所も――」


「もしかしたら、村に帰ってるかもしれないわ。スベトラーナさんの家には寄らないで、例えば山越えする馬車を見つけて、それに乗せてもらったとか」


「そうかな……俺は、地図を貰ったのに寄らないわけはないと思うけど……」


「実際寄ってないんだから、やっぱり都にはもういないと思うの。だから、ミコラスのことは諦めて――」


「諦めて? ミコラスは親友だぞ。俺達を助けてくれたんだ。そう簡単に諦められるかよ」


 レオンは再び歩き始めようとする。


「レオン!」


 強い呼び方に、レオンの足が止まる。


「親友なのはわかってる。でも、こんなに捜しても見つからないのよ? ミコラスのことばかりじゃなくて、私達のこれからのことも考えていいんじゃない?」


「……これから?」


「そうよ。スベトラーナさんの家から出て、その後のこと何も決めてないじゃない」


「それについてはマルファに話しただろ。もう少し資金を貯めたら、渡し船で独立するって」


「仕事はそれでいいけど、私が聞いてるのは自分達のことよ。住む家も探してないし、それに、お互いの、その……」


「そういうことは追い追い決めるよ。別にミコラス捜しながらだってできることだろ」


「それはそうだけど……」


「先に食べてていいぞ。俺はこの辺りぐるっと見てくるから」


 素っ気なく言って歩いていくレオンの後ろ姿を、マルファは歯がゆそうに唇を噛みながら見つめる。


「……もう! 待ってよ、私も行くわ」


 レオンの後を、小走りに追いかけるマルファだった。


 マルファとしては、もうレオンにミコラスを捜してもらいたくないのが本音だった。大事な親友を想う気持ちはわかるが、その存在が二人の仲を進ませない気がしたのだ。保護者であるスベトラーナからの独立をしっかり考えてはいるが、レオンはいつまでもミコラスのことを心配していた。行方を捜して五年が経っている。マルファはもう都では見つからないと思っていた。あの子供っぽい姿は頭の隅に追いやられ、過去になろうとしている。レオンには、これからの未来だけを見てほしかった。だが、そんな思いを知らないレオンは、仕事の傍らミコラスを捜し歩いていた。何の情報も手掛かりもなく、ただ日が経つだけの毎日……それが、レオンの日常となっていた。


 そんなある日、二人はある転機を迎えることになる。


 夕方、対岸から小舟で戻ってきたレオンは、仲間や周囲の人々が遠くを眺めていることに気付いた。


「何見てるんだマルファ」


 岸に立つマルファに聞くと、不安そうな顔が振り向いた。


「ほら、あそこ……煙が上がってて……」


 指差した先、いろいろな店が建ち並ぶ向こう側に、確かに灰色の細い煙が一筋上がっていた。


「あの辺りは確か、酒場だったか……?」


「ええ。お役人の集まる高級なお店が――」


 その時、一筋だった煙が急に雲のように膨れ上がると、その中にちらちらと赤い炎が見え始めた。


「火事だ!」


 遠くで誰かが叫んだ。途端、辺りは騒然となり、煙を眺めていた人々は次々と火事の現場へ走り出した。


「何か、まずそうだな……」


「私達も見に行ってみましょ」


 マルファに促されるまま、レオンも足早に現場へと向かう。通りには多くの野次馬が集まり、騒がしくなっていた。遠巻きに見つめる彼らの視線の先には、灰色の煙に包まれ、窓から炎を上げる二階建ての酒場があった。


「皆、無事か!」


「中には誰もいないな!」


「おい、消火隊は呼んだのか? いつ来るんだ!」


 燃える酒場の前では、従業員や客と思われる男性達が切迫した様子で声を上げていた。


「すごい火の勢い……」


「このままじゃ隣にも燃え移るぞ」


 レオンとマルファは野次馬の頭越しに炎を眺める。都の建物には木造と石造があって、目の前の酒場は石造だった。なので壁は焦げるだけで燃えてはいなかったが、その両隣の建物は違う。木造の壁は窓から噴き出す炎にあぶられ、すでに表面が黒く焦げ始めている。時折吹く風で、炎はさらに伸びて、隣家に燃え移るのは時間の問題だった。


「早く……どうにかしてくれ!」


 建物の持ち主なのか、おろおろする男性が誰ともなしに叫んでいた。しかし、通りを見回してみても、待ち望む消火隊はどこにも見えない。


「……マルファ、俺達でやろう」


「やるって、何を?」


「火を消すんだ」


「え? ちょっと待って。消すって、どうやって……」


「風に決まってるだろ」


「風が吹いたら、もっと燃えちゃうわ」


「強すぎる風なら、そうはならない」


「風で吹き消すって言うの? でも、下手したら隣に火が移っちゃうかも――」


「そこは俺達の操り方次第だ。……マルファ、お前はそうならないよう、酒場を囲むように風を起こすんだ。俺は火元に向けて思い切り風を吹き下ろす。いいな、行くぞ」


 そう言うと、レオンはマルファの手を引き、野次馬の間をすり抜け、最前列に出た。酒場から立ち上る煙と炎は、すぐ目前に迫っていた。騒然とする状況の中、二人は意識を集中させていく。


「……準備はいいか」


「ええ……」


 二人は視線を合わせ、そして炎を見る。その直後、酒場から上がる煙の動きに変化が起こった。


「……なあ、何か変じゃないか?」


 野次馬達がそれに気付き始めた。今まで風になびいていた煙が垂直に上がっていた。窓から噴き出していた炎も、隣家を焦がすことなく酒場の中に収まっていた。まるで見えない壁にでも囲まれたように、煙も炎も酒場の敷地内からはみ出すことはなかった。マルファは、想像通りに風を操れていた。


「何だ、一体……」


 酒場の客が妙な現象を前に、怪訝な表情を浮かべる。それを横目に次はレオンが風を操る。


 ゴオッと強風がうなった。その音に人々が一瞬ざわめく。しかし風は誰の髪も揺らさない。燃える酒場の真上に吹き下ろし、中の火元へ流れていく。煙の上がる窓の奥は、そこだけ嵐に襲われているかのように風が荒れ狂っていた。だが、炎は弱まるどころか、風にあおられて勢いを増していく。


「もっと……強く!」


 レオンは集中を高める。酒場の中で暴れる風は、頑丈な石造の壁を壊さんばかりに吹きすさぶ。すると、勢いのあった炎は次第に弱まり始めていく。


「……おい、あれ、火が小さくなってるぞ」


 野次馬が不思議そうに言う。火事を見ている誰もが目を丸くしていた。レオンとマルファ以外は。


 赤い炎が見えなくなっても、レオンはわずかな火も残さないよう執拗に風を操った。そして、酒場のどこにも火の気配がなくなると、ようやく操る風を止めた。その途端、酒場と周辺には焼け焦げた臭いと灰色の煙がもうもうと立ち込めた。マルファの作った風の壁がなくなり、辺りは一気に煙に包まれていく。野次馬達はそれから逃れようと、口を押さえながら火事場から離れていく。


「すごい……火を消したわ」


「俺達の力は、こうして役に立てるんだ。もっと使ってもいいはずなのに……」


 レオンの頭には村の掟が思い出されていた。風は人に対して使わず、力は一族以外に知られてはいけない――レオンは今も理解できなかった。悪者をこらしめ、人助けもできる力なのに、それを村の中だけに秘めておくなんて、宝の持ち腐れとしか思えなかった。神から授かった力なら、もっと有効に使うべきだし、現に使えたのだ。レオンはこの状況を村の族長に見せたい気分だった。人の助けになったのに、それでも外界の人前で使うなと言うだろうか……。


「消火隊が来たぞ」


「遅いよ。火はもう消えてる」


 流れる煙の向こうで男性達の声が聞こえる。がやがやと騒がしくなってきたのを感じ、レオンはマルファに言う。


「戻ろう。もうできることはない」


「そうね……でも本当にすごいわ。咄嗟によく思い付いたわね」


「別に咄嗟ってわけじゃないけど、俺達ならできると思ったから……」


 立ち込める煙の中から出た時だった。


「君」


 背後から肩を叩かれ、レオンは顔を向けた。そこには外套をまとった、背の高い見知らぬ男性がいた。


「……何か?」


 三十代半ばと思われる黒髪の男性は、軽く笑みを浮かべながらも鋭い眼差しで聞いた。


「おかしなことを聞くかもしれないが……あの火事を消したのは、もしかして君達二人じゃないか?」


 驚いたレオンとマルファは、思わず顔を見合わせた。


「……やはりそうか。そんな気がしたんだ」


 二人は風を操る時、意識を集中させるだけで、特に身振り手振りがあるわけではない。傍から見ればそこに立っているだけで、風を操っていることなど誰にもわからないはずだった。


「何で、そうだと……?」


 いぶかしげに聞くレオンに、男性は焦げた火事現場を見ながら言った。


「君達だけ、他の野次馬とは明らかに違ったからだ。……私は客として酒場にいてね。炎が見えたので外に逃げたわけだが、あれはおそらく放火だ。犯人が野次馬に混じって見ているかもしれないと思い、注意深く目を向けていたら、君達が前に出てきて火事を眺め始めた。その真剣な表情に、最初は犯人かと疑ったが、酒場に妙な異変が起こった時、野次馬達は驚いているというのに、君達は表情をまったく変えていなかった。火事が収まるまでずっとね。それはつまり、妙な異変を異変とは感じていなかった、ということだろう?」


 男性の観察眼と洞察力に、レオンとマルファは驚くばかりだった。


「あの異変……炎を消した風は、君達が起こしたものだ。違うか?」


 素直に返事をしていいものか迷う二人に、男性は続けて聞く。


「じゃあ、ずばり聞こう。君達は、風使いの一族じゃないのか?」


 これには二人とも、瞠目せずにはいられなかった。レオン達が火事現場に来て、その炎を消すまでの間に、そこまでのことを知られるとは思ってもいなかった。そうなると、レオンは男性を怪しまないわけにはいかない。黒い目をじっと見つめ、質問する。


「あんた、何者だ? 風使いをどうして知ってる」


「ああ、すまない。自己紹介が遅れた。私はユーリ・ゾラハ。王国軍の軍人だ」


 言ってユーリは外套の胸元を開いて見せる。下には軍の兵士が着る群青色の軍服が見えた。


「風使いのことは、昔読んだ歴史書で知っていた。君達の一族は、それは素晴らしい力を備えているということも」


 ユーリは笑顔を浮かべて言う。


「その力を使って火事を消し、被害を抑えたことは称賛されるべきことだ。他の方々にもぜひ紹介したい。名を教えてくれるか?」


 二人は視線を合わせてから、小さな声で言った。


「……レオン」


「マルファ、です」


「レオンにマルファ……君達は普段何をしているんだ?」


「向こうの、ジニャス川で渡し船をしてる」


「なるほど、賢い。風を使えば素早く客を運べるわけだな。……君達の都合で構わないから、一度我々の元に招きたい。どうだろうか」


「招いて、どうするんだ」


「いろいろな者に紹介したいんだ。民を助けた若者として。来てくれないか?」


 悩むレオンの代わりにマルファが言う。


「一度、スベトラーナさんに聞いてみないと……」


「それは?」


「私達の面倒を見てくれてる人です」


「じゃあ、その方に話してみてくれ。明日、改めて君達に会いに行かせてもらおう。前向きな返事が貰えることを楽しみにしているよ」


 期待の笑みを見せて右手を差し出すユーリに、二人は若干の戸惑いを見せつつも握手を交わした。


「では、また明日に」


 未だ騒がしい火事現場を、ユーリは見向きもせずに去っていった。それを見送りながらマルファは言う。


「風使いの一族って、歴史書に載るほど有名なのかな」


「さあ……?」


「私達、火事を消しただけなのに……誰に紹介したいんだろう」


「軍人だったから、どうせその仲間だろ。……仕事に戻ろう。客が待ってるかもしれない。このことは仕事を終えたらスベトラーナさんに話そう」


 二人も焦げ臭い煙の漂う現場を後にした。今日のことが、日常のちょっとした出来事ではなく、大きな転機だということを、二人はまだ知らない。

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