九話

 立ち止まり、額の汗を拭うミコラスの後ろから、女の怒鳴り声が響いた。


「ほら、休んでんじゃないよ。さっさと荷物運びな」


 言われてミコラスはすぐに足下の木箱を持ち上げた。じゃが芋や人参などがぎっしり入った木箱は、細い体のミコラスには少々重いが、大事な食材を落とすわけにもいかず、懸命に厨房へ運び入れる。


「まだあるんだからね。のろのろしないで早く運びな」


 叱咤する中年女は、目の前をミコラスが通り過ぎざまに、その尻を優しく撫でた。驚いたミコラスが見れば、それに中年女はにやりと怪しい笑みを返した。


 ミコラスは、地獄の日々を強いられてきた。


 都を目前にして、奴隷商人にさらわれたミコラスは、その目的地だった都へ意識がないまま運ばれた。気付いた時には薄暗い部屋で、年下の少年達と共に大きな檻に入れられていた。ほどなくして数人の男達がやってきて、ミコラスを含めた少年達を吟味し始めた。男達はそれぞれ、こいつにすると言って少年を連れ出し、ミコラスもある男に選ばれて連れて行かれた。それが、奴隷として買われた瞬間だった。


 馬車に乗せられたミコラスは、その窓から初めて都の景色を見た。村とはまったく違う建物がひしめくように並び、道を行き交う人々の数も驚くほど多かった。しかし、ミコラスはこれ以降、都の景色を見ることはできなかった。


 立派な屋敷の裏口から入れられたミコラスは、男に連れられ、ある部屋に入れられた。奴隷の部屋にしては広く、床や棚には木製の人形や絵本などが置かれていた。だが窓は見当たらず、天井から吊るされたランプが煌々と光っている。左右の壁際には二台ずつ、計四台のベッドがあり、その一つに三人の少年が集まって座っているのが見えた。


 新しい友達だと言い、男はミコラスを置いて出ていった。扉は外から鍵をかけられ、出ることはできない。この部屋に監禁されたのだった。


 ミコラスの知識では、奴隷というのは無理矢理に働かされ、ひどい扱いを受けるものだと思っていたが、部屋でずっと待っていても、ミコラスを連れていく者は来なかった。先に部屋にいた少年達も同様だ。七、八歳と思われる彼らに話しかけると、皆言葉少なだった。何かに怯えた目で、疲れ切った表情が消えない。しかし奴隷という割に、三人の身なりは綺麗だった。肌に汚れはなく、髪も整い、爪の間も清潔にされていた。奴隷でも、風呂には入れてもらえるようだった。


 それが何のためなのか、わかったのは夜になってからだった。


 前触れもなく、突然扉が開いて、ミコラス達はそれぞれのベッドで起き上がった。部屋に入ってきたのは、ミコラスを連れてきた男と、初めて見る、腹の出た初老の男だった。するとその初老の男は、四人の少年をじっと見回し、そして一人を指差した。それを見て控えていた男が少年の腕を引っ張ってベッドから下ろし、部屋の外へ強引に連れ出していく。その様子を、初老の男はにやけながら眺めると、嬉しそうに部屋を後にした。静寂が戻った部屋には、少年達の安堵の息が充満した。それでミコラスは知った。自分達はあの初老の男に、毎日誰か一人、何か仕打ちを受けるために買われたのだと。だから少年達は怯え続け、あんな疲れた表情をしていたのだ。今日はゆっくり眠れるが、明日は自分かもしれない――そんな落ち着けない怖さを、少年達は抱えているのだ。


 この部屋にいれば、綺麗な服を与えられ、風呂にも入れ、食事もできた。だが自由はすべて初老の男に奪われた。夜な夜な来ては少年を一人連れて行き、朝になるとうつろな顔になった少年が戻ってくる。時にはあざを作ってくる少年もいて、抵抗すれば容赦なく痛め付けられるのだと物語っていた。だから自由のないミコラスは、初老の男の言う通りにするしかなかった。ご主人様と呼ばされ、服従を強いられる。少しでも気に入らないことがあれば顔や体を殴られ、その暴力から逃れるために、ミコラスは仕打ちを耐え忍び続けるしかない。


 ある日、少年の一人が朝になっても戻ってこなかった。彼は連れて行かれた夜は、必ずと言っていいほど顔にあざを作っていた。仕打ちに耐えられず、抵抗を続けていたのだろう。だが、そんな強い心が仇となった。しばらくして、別の少年が部屋に連れてこられた。戻らなかった少年を見ることは二度となかった。彼がどうなったのかを想像すると、ミコラスの中には無意識に保身のくさびが打たれ、逃げ出したいという気持ちが抑え込まれた。こんなところで死にたくない――生き延びるために、ミコラスは初老の男に従う日々を、一年半にもわたって送った。


 しかし、十五歳になろうかという頃、それは突然言い渡された。お前はこれから下男として働け――その理由は単純だった。初老の男がミコラスに興味を失ったのだ。見た目は幼くても、年齢は十三歳だ。月日が経てば次第に体は大きくなり、顔付きも男らしく変わってくる。声変わりもして、今までのような少年らしさは青年へと変化していた。初老の男は幼い少年にしか興味がないようで、成長したミコラスは用済みとなった。その結果、屋敷の片隅で下男としてこき使われることとなったのだった。


 少年達と暮らしていた時とは違い、下男になると食事の量は減り、風呂も満足に入れない。服は一着しかなく、寝床は粗末な敷布を重ねただけのものだった。だが仕事は山ほどやらされる。真夏だろうと真冬だろうと、ミコラスを気遣う者はどこにもいない。掃除、洗濯、荷運び、馬の世話、雑用諸々……。奴隷であるミコラスはそれらを完璧にこなさなければいけなかった。不足があれば監督役から怒鳴られ、場合によっては殴られたり、食事抜きにされることもあった。


 しかし、ミコラスは今のほうがましだと感じていた。言われた仕事を完璧にこなしさえすれば、誰にも何もされず、最低限の生活はできるのだ。働き通しの毎日はもちろん辛いものだが、初老の男に夜毎受ける屈辱より、下男のほうがよほど幸せに思えた。


 そんな生活を強いられること三年。奴隷として連れて来られてから、五年が経とうとしていた。ミコラスは十八歳となり、仕事も今や問題なくこなせるようになっていた。そうやって表向きには従順な奴隷を装っているが、その内には常に反抗心が隠されてきた。ここから必ず逃げ出す――そう思い続けてきたミコラスだが、奴隷に歩き回れる自由はない。仕事をするにも、毎回監督役が付き、厳しい目で見張っている。長い間、逃げ出す隙は見つからなかった。


 だが、監督役が交代したことで、状況がわずかに変化した。


「ひい、ふう、みい……全部で二十箱、ちゃんとあるね」


 中年女は手元の紙を見ながら確認する。


「荷物は、これで終わりですか」


「ああ、今日はね。明日は新しい食器が届くから、明日も同じように運ぶんだよ。割ったら承知しないからね」


「はい……わかりました」


 返事をしてミコラスは厨房を出ていこうとした。


「ちょっと、どこ行くのさ」


「あ、すみません。掃除道具を取りに行こうかと……」


「ここの掃除はもう終わってるよ。あんたには他の掃除場所があるから、付いてきな」


 中年女は廊下に出ると、使用人達の部屋がある地下へ向かった。そしてある部屋の扉を開けて言う。


「この部屋、掃除しな」


 ミコラスは、もう何度と見た狭い部屋を眺めながら言った。


「……ここは、二日前も掃除したと――」


「何? あたしの部屋はもう掃除したくないって言うのかい?」


「そ、そんなことは……」


「だったら早くやりな」


 逆らえないミコラスは、仕方なく部屋の掃除を始める。床を掃き、小机の上を拭き、ベッドのシーツをしわなく整える――監督役がこの中年女に変わってから、何度も繰り返している掃除だった。使用人の部屋は普通、自分達の手で掃除をするものだったが、中年女はなぜか奴隷のミコラスにやらせていた。ただ面倒くさいからという理由でないとわかったのは、こんなことがあったからだった。


「……これで、いいでしょうか」


 五分ほどで掃除を終え、ミコラスはあまり変わった様子のない部屋を見せた。


「ふん……綺麗になったようだね。いいだろう」


 そう言うと中年女は、小机の引き出しから何かを取り出した。


「いつも頑張ってるあんたに、ご褒美だ」


 ミコラスの手を取ると、中年女はそこに丸く黄色い飴を握らせた。


「これはご主人様の部屋から一つくすねてきたものだ。なあに、見つからないよ。食べきれないほど置いてあったからね。誰も数なんて数えちゃいないよ」


 戸惑うミコラスに、中年女はにやりと笑う。


「見つかる前に食べてしまいなよ」


「でも、ご主人様のものを、勝手に……」


「どうせ食べきれなくて、最後は捨ててしまうんだ。だったらあたしらが食べてやらないと、もったいないだろう」


 悪びれない中年女に、ミコラスは渋々同意する。


「そう、かもしれませんね……ありがとうございます」


「いいのよ。頑張って働いたら、またいい物あげるからね」


 ミコラスの肩をぽんぽんと叩き、中年女は満足げな笑みを浮かべた。


 普段は厳しい態度の中年女だったが、ミコラスと二人きりになると、こうして甘い態度を頻繁に見せていた。ミコラスの知る限り、奴隷の中で中年女に何かを貰っているのは自分だけだった。飴だけでなく、時には食事の量を増やしてくれたり、新しい下着を持ってきてくれたりと、ご褒美と言っては何かしらを与えた。その話を他の奴隷に言うと、皆羨ましがり、必ずこう言った。


『あの女はお前に惚れてるんだ』


 確かにそんな雰囲気をミコラスも感じていた。仕事をしていてふと顔を上げると、中年女とよく目が合ったし、周りに人がいない時は、やけに距離が近かった。最近では無意味に体を触り、意味ありげな笑みを送ってくる。奥手なミコラスでも、さすがに感付かないことはない。いろいろな物をくれるのは助かるが、それは向こうの一方的なもので、ミコラスには当然ながら、中年女を想う気持ちなど微塵も湧いていなかった。厄介以外の何物でもない――そう思いかけたミコラスだが、ある閃きがあった。自分に惚れていることは、中年女の弱みになるのでは? それを上手く利用できないだろうか――ミコラスの隠していた反抗心が、ようやく光を得ようとしていた。


「……よし。今日はもういいよ。食事を貰ったらさっさと戻りな」


 すっかり暗くなった倉庫で、荷物の整理を終えた奴隷達は疲れた顔で食事を貰いに廊下へ出ていく。だがミコラスはまだ出ようとはしなかった。


「どうしたんだい。あんたも食事を――」


「バルバラ」


 これに中年女は、思わず言葉を止め、ミコラスを凝視した。


「……って、名前で呼んでもいいでしょうか」


「なっ、何を……奴隷の分際で、言って……」


「でも、あなたのことを名前でしっかりと呼びたいんです。駄目ですか?」


 懇願する目で頼むと、中年女は明らかに動揺し、うろたえていた。


「だっ……駄目に決まってるだろう。あたしはあんた達より上の人間なんだ。な、名前で呼ぶなんかもってのほかだ」


 ミコラスは、じりと近付く。


「正直に言うと、僕はあなたの優しさに、心惹かれてます。奴隷である僕に、どうしてよくしてくれるのか……。そう考えるたびに、胸の奥の気持ちが高まってしまうんです」


 中年女は瞠目した顔でミコラスを見つめていた。


「奴隷がこんな思いを持ってしまってはいけないのかもしれない。でも、バルバラ……あなたには嘘をつけません。優しいあなたには……」


 ミコラスは中年女の手に触れた。瞬間、その手がびくっと震えた。


「迷惑だったら、この手を払ってください。もう二度と、こんな失礼なことは――」


 言い終わらないうちに、ミコラスの体は中年女に抱き締められていた。


「迷惑なものか。……そうかい、あたしに惚れたのかい」


「僕で、いいんですか……?」


「あんたは大人しいし、仕事もできるし、いい男だよ。奴隷にしておくのはもったいないくらいだ」


 体を離した中年女は、ミコラスを見つめて言った。


「あたしの男になるかい? そしたらもっといい物、持ってきてやるよ」


「物より、僕はバルバラと二人きりになれる時間が欲しい」


 これに中年女は、普段は見せない女らしい笑みを浮かべた。


「ませた坊やだね……いいよ。今夜、寝静まった時間に起こしに行くから、そこで二人きりの――」


「お互いの部屋だと、壁が薄いから隣に気付かれるかもしれない。できれば、側に人がいない、外の庭とかのほうが……」


 中年女が黙ってミコラスを見た。はっきり言い過ぎたか――暑くもないのに、ミコラスの背中に冷たいものが流れた。しかし、中年女はすぐに表情を緩めた。


「……そうだね。確かに部屋だと見つかるかもしれない。庭なら話し声も聞こえづらいし、そのほうがくつろげそうだね」


「じゃあ、皆が寝静まった今夜、待ってます」


 ミコラスは微笑んで別れの抱擁を交わし、踵を返す。これに中年女は何も疑うことなく笑顔で見送った。まずは上手くいった――ミコラスは食事を受け取りながら胸を撫で下ろした。


 夕食が済み、使用人や奴隷は、後は寝るだけの時間となった。普段なら寝床に横たわれば、すぐに眠気が襲ってくるミコラスだったが、今夜は違う。もうすぐ自由になれると思うと、その期待と興奮で頭も目もますます冴えていた。暗い天井を見つめながら、その時を今か今かと待っていると、ようやく人の気配が現れて、ミコラスは体を起こした。


「……起きてるかい、坊や」


 奴隷が詰め込まれている部屋の扉が薄く開き、その隙間から中年女が顔をのぞかせた。


「今、行きます」


 ミコラスは他の奴隷を起こさないよう、静かに部屋を出る。中年女はその扉を閉め、鍵をかけると、途端に笑顔を見せた。


「これで、二人きりだね」


「はい……庭へ、行きましょう」


 促すと、中年女はミコラスと腕を組み、浮かれた足取りで裏口へと向かう。その姿はまるで少女に戻ったかのようで、騙しているミコラスは罪悪感を覚えそうになるが、自由のためには芝居を続けるしかない。


 厨房を抜けた先にある、使用人しか使わない裏口の扉から一歩出れば、そこはもう屋敷の裏庭だ。あまり広くはないが、地面は青い芝に覆われ、ところどころに手入れされた樹木が見える。そこに咲いた白い花のものだろうか、夜でも生暖かい春の風に乗って、かぐわしい香りがミコラスの元にまで届いてきた。だが、見える景色はそれだけだった。この庭から都の街並みを見ることはできない。この屋敷の周りには、ぐるっと囲むように高い塀が立てられているのだ。しかし見上げるほどの高さはなく、少々無理をすればよじ登れなくはなさそうだった。


 庭に出たはいいが、そのよじ登る時間をどうやって作るか……それにはまず中年女の目をそらさせる必要がある。そしてミコラスが自然と一人になれる状況を作らなければならなかった。部屋で待っていた間、ミコラスはその方法を考え付いていた。上手くいくかはやってみなければわからなかったが、たとえ失敗しようとも、自由を目前にやらない選択肢はなかった。


「あそこの、木の下へ行きませんか?」


 ミコラスは指差し、葉が多く茂った木へ誘導した。その根元に二人で座ると、中年女はうっとりした表情でミコラスの手を握った。そして少しずつ体を寄せ、顔が近付いてきた瞬間――


「待って」


 ミコラスは止め、背後を振り向く。


「……何さ?」


 苛立った声で中年女が聞いた。


「今、あっちで物音が……」


「え、音? そんなの――」


「不審者かも……ここで待っててください。見てきます」


 立ち上がろうとしたミコラスだが、その腕を中年女に引かれた。


「きっと気のせいだよ。こんな時間に誰もいやしないよ。それより……」


 しなだれかかろうとする中年女だったが、ミコラスはそれを作った笑みでかわす。


「ま、万が一誰かいたら、大変なことになります。すぐに戻りますから、動かずに待っててください」


 中年女は不満な目を向けるが、溜息を吐くと渋々ミコラスから手を離した。じっと座っているのを確認し、ミコラスは小走りに庭を駆け出す。そして警戒するふりをしながら、中年女からは死角になる、屋敷の角を曲がった。


 その途端、ミコラスは塀に向かって勢いよく走った。それを助走にして、塀に飛び付くように手をかけた。どうにか最上部に指はかかったが、足は塀の表面をつるつると滑っていた。石の塀には一切凹凸がなく、手も足も引っ掛かる場所がない。腕の力だけで体を持ち上げるしかなく、ミコラスは歯を食い縛って両腕に力を入れた。


「くっ……くうう!」


 急がなければいけない焦りと、自由を手に入れかけている昂ぶりで、ミコラスの額には汗が滲んでいた。奮闘することおよそ一分……ついに細い体は、塀の上に到達した。


「……上れた……」


 塀にまたがったミコラスが見たのは、五年ぶりに見る都の景色だった。深夜でほとんど真っ暗だったが、遠くの窓にともる明かりがちらほら見えて、それは夜空の星を見るよりも感動的で、感慨深いものだった。やっと、自由を取り戻した――身も心も疲れ果てたミコラスには、その事実だけですべてが生き返るような心地だった。


 その時、眼下の庭に人影が見えて、ミコラスは身を伏せた。


「ちょっと、どこにいるのさ……」


 抑えた声で呼びながら、中年女がうろうろと捜し回っていた。ミコラスは息を潜めると、塀から滑るように下りた。石畳の地面に足を付き、辺りの様子をうかがう。何の気配もないのを確認すると、とりあえず正面の暗い道を進んでいった。行く当てなどない。レビナスの娘の家までの地図は、とうの昔に取り上げられている。これからどうするべきか――不安は大きかった。だが、ミコラスを縛るものはもうない。取り返した自由は、進んでいく青年の背中を、力強く押していた。

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