第6話
静かな夜だった。男が目を覚ましたのは、綺麗な銀の月が浮かんでいる夜。闇に沈んでいた意識が引っ張られるように浮上して、まず思ったのが「死ねなかった」という事実。
銀色の月は半分欠けていて、夜空を見上げていると、足音がかすかにドアの外からした。自分はなぜここにいるのだろう。そもそもここはどこだ。誰が自分を助けたのか。考えることは沢山ある。あるはずなのに。
ドアから入ってきた人間が、どうか自分を殺してくれますように。
そんなことが思考回路のすべてを占めていた。
ドアが開く。そちらに視線を向ける。瞳に入ったのは、綺麗な顔立ちの女だった。
「……」
自分を見て驚愕している。なぜだろう。やっぱり自分はここでも望まれない存在だったのだろうか。
そこまで考えて、ふと思いあたる。
自分は、何者だろう。
カラカラに乾いた口を動かし、掠れた声を出す。記憶の一切が無いというのに、言葉や所作は自然と使いこなせた。
「──わたしは、誰なんでしょう」
女性は驚きでさらに目を丸くする。分かりやすい表情に、心がなんとなく融けていくのを感じた。
綺麗な夜だった。
ノラが隊長たちを呼びにいったら、寝る準備をしていた彼らに朝まで待てないのかと怒鳴られ──男のいる部屋に戻ってきた。
「それで、ええと……ノラ、さん」
「はい?」
「これは……?」
男が不思議そうに首をかしげる。手にあったのは小さなティーカップ。
「花茶です。花が入っているお茶。最近買ってきたもので」
「……わたしにお茶を出してもよいのですか?」
「?」
男はなぜだかずいぶんと謙虚で、おどおどとしていた。記憶が無いならそりゃあ心細くなるわ。勝手に納得して、ノラは男に笑いかける。
「貴方はお客様ですよ。たとえ意識が無くとも、拾ってきたのは私です。ある程度まで面倒はみます。なので、お茶。飲んでください。身体が温まりますよ」
くい、とノラが一口茶を飲むと、男もならうようにゆっくりと口をつけた。毒が入っていてもいいと判断したのか、毒に耐性があるのか。まさかノラのことを信用して口をつけたわけでもあるまい。
「……おいしい」
「それはよかった」
ふ、と吐息とともにこぼれた柔らかな言葉にノラは微笑む。彼が心からこのお茶を美味しいと思ってくれたことは簡単に察せられたから。
「そういえば」
「はい」
「あなたの事をなんと呼べばいいでしょう」
「あ、あー……そう、ですね」
へにょんと眉を下げて思案している様子。男がうんうん唸って考えて──思い出しているのを見ていると、どうにも可愛い動物を拾ってきたのと同じ気持ちになる。これじゃあルーカスに言われたようにこの男もペットにするために拾ってきたと言えるな、とノラが不穏なことを考えているとは知らず、男はノラに視線を戻した。
「ええと……考えたのですが」
「はい」
「名前……思い浮かびませんでした」
小さくなってしおしおとうなだれている。身体は大きく鍛えられているというのに、全くそういう気配がない。思わず小さく笑ってしまうと、彼がむっとしてノラを不満そうに見た。
「笑わないでくださいよ」
「いえ、すみません」
「笑いながら謝らないで」
くつくつと笑っていると男がノラさん、と声をかけた。顔を上げて男を見る。その表情にどく、と心臓がはねた。彼が今までの柔らかく穏やかな雰囲気を消し、まるで王者のような、強気の笑みを薄らとたたえていたから。ノラはそこで初めて、今自分は簡単にノラのことを蹂躙して貶められる存在と2人きりなのだと意識した。
男が笑む。薄い唇が開いて、艶っぽい声音が耳をぞわりと撫でた。
「あなたが、わたしに名前をつけて」
ひゅ、と息を飲む音がした。数拍遅れて自身がそれを出したのだと理解する。彼の視線はずっとノラだけを映していた。美しく、おぞましい紅の瞳。
ゆったりと足を組み、男が愉しそうにノラの反応を見ていた。獰猛な肉食獣のようにギラギラと光っている瞳と、視線がまじわる。ねとりと絡みつくような視線。耐えきれずにノラが視線を外すと、喉を鳴らした笑い声が耳に届く。居心地が悪い。まるで、名前をつけるという行為がただのそれではなく閨事のような雰囲気を持っているものだから。
「……じゃあ、ディオで」
「おや、随分あっさり決めましたね」
「ええ。この前拾ったうさぎの名前です。もう死んでしまいましたけど」
「……」
やり返すと、男は複雑そうな表情で黙った。勝った、とノラが今までの雰囲気を消すように言葉を繋ぐ。決してそういった艶のある空気にさせないように、明るくふざけたように。
「あ、今夜の話なんですけど」
「はい?」
「ベッド、使ってください。私はドアの前の椅子で仮眠を取ります」
「えっ」
今度は彼──ディオが狼狽える番だった。やり返したことでノラは機嫌を治し、椅子に腰かけると仮眠のために姿勢を変える。ディオはしばらくノラを見ていたが、諦めたのか付けていたカンテラを消してベッドにもぐりこんだ。
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