キミ色の物差し

「好きって、なんだろうね」


 高校生活二年の二月。学校の昇降口。

クラスが変わって以来話すことが前よりは減った幼馴染と下駄箱で鉢合わせて、全く見かけない訳でもなかったのになんだか懐かしくて、その場で今日あったこととか、先生の愚痴とかを話していて、さて帰ろうかとした時、急に彼がそう口にしたのだ。

 かちり、と二人の時間が止まる。


「あんた彼女いたよね? 同じクラスの……」


 うんと力を込めてその時間を動かせば、彼は彼自身が重々しく告げたさっきの言葉をまだ引きずっていて、


「うん」


 とひとつ零して黙ったかと思ったら、つらつらとこう言った。


「すごくきれいな子だよ。こっちとはちがって」

「いますごく余計なこと言った」

「ごめん」

「許す。それで?」

「おれとお菓子分け合いっこしてくれたり、連絡こまめにくれたり、記念日には一緒に遠くに出かけたり、テストの時は家で一緒に勉強だってした」

「うん」

「ちゅーはまだしてない」

「それいらない。付き合って何カ月?」

「半年」

「遅いね」

「うん」

「それで?」

「別れた」

「は?」

「別れた」


 ここで滞る。その気まずい会話の途切れに、手にしていた外靴を床に意味もなく落とした。拾って時間を動かしたかった。


「別れたよ」


 それなのに、とても真っ直ぐに私を見つめて彼が繰り返すから、私もそれに応えなくちゃいけないような気がして、これを無視したらなんだか取り返しのつかないことになるような気がして、見つめ返した。


「いい彼女だった」


 彼は寂しそうに言う。


「おれには勿体ないくらい、いい彼女だった」

「じゃあなんで別れたの」

「言ったじゃん。勿体ないって」


 小さく笑って答えた彼の声は弱い。泣きそうで、切なそうで、それでもどこかさっぱりとしている。それに違和感を覚えても、口に出す前に彼も靴を床に落とした。

 咄嗟に取ろうとして、伸ばした手を掴まれる。

 ……掴まれる?


「なに」

「……」

「何か言ってよ」

「……。おれは、あの子にいろいろお返ししたんだ」

「お返し?」

「うん。ちゅー以外ならやりたいこと全部して返した。でも、交際を行ってるってかんじ」

「こうさいをおこなっている?」

「義務みたいな」

「ああ、なるほど。ひどい」

「そうだよなあ……」


 ため息混じりにそう言って項垂れた彼が小さく見える。

 頭一つ分の身長差が縮まって、なんとなく空いている方の手でその髪を撫でた。

 男の子だから嫌がるかと思ったら、ぴくりとしたきり反応がない。俯いたまま、


「彼女に言ったんだよ。今言ったこと」

「……。どれ」

「義務みたいな気持ちでお付き合いしてましたごめんなさいって」

「言い方考えろよ。包まなすぎるわそれ」

「ひどいっていわれた」

「でしょうね」

「でも全然良心が痛まなかった」

「ひどいね」

「……」

「……。その急に黙るのやめて」


 手首をつかんでいたのがするっと降りて、手のひらが合わさって、指が絡む。大きさと感触の違いに驚いて手を引っ込めかけたけど、寸前でやめた。なんだかこっちも弱々しい。


「好きってもっと、こう、ふわふわしてるのかと思ってた」

「へえ」

「特に女子っぽい女子と過ごしてたらそうなると思ってたのに」

「はあ」

「だんだんイライラしてきて」

「どうしたいきなり」

「好きっていうのは付き合って一緒にいるのが好きってことだと思ってたのに全然違った」

「哲学みたいな流れだね」

「女子が好きそうなつかず離れずっていうのもやってみたけど駄目だった。いらついた」

「そっか」

「だって現実そんな上手くいくわけないし、つかず離れずを実際にやってみたらどんどん離れていくし、クラス別だからそこでそっちは上手くやっていくからさ」

「は?」

「そしたら虚しくなった」


 零された言葉が渦を巻いて胸の真ん中に集まってくる。

 手のひらは重なったまま。指も絡んだまま。彼の頭には私の手が乗っていたけど、顔が上がって滑り落ちた。

 ねえ、と彼は囁く。


「きれいなあの子よりもこっちの方が、ずっとどきどきするんだけど、なんでだろう?」


 あの後、私は逃げた。

 彼の質問に答えることも、拒絶することもなく。

 力を込めて引いた手はかんたんに振りほどけて、呆気にとられそうになった私を動かしたのは、彼の目だった。

 彼の目はとろりと優しくて、靴を拾い上げて昇降口を飛び出しざまに見た顔は、とても切なげで、もう何をどう言い表せばいいのか分からない。

 ただひとつ言えるのは、その日から彼は私に事あるごとに構うようになった。


「ご飯食べよう」


 例の彼女との別れ方が別れ方だったから、クラスメイトからの視線は好奇に満ち溢れていたし、ご本人と学校ですれ違った時には恨みがましい目で見られたりもして、随分こちらも居心地が悪くなったけれど、幸い友達はいつも通りに振舞ってくれていた。

 それなのにそんなふうに誘ってくるのは一体どういうことなのか。

「昨日のことが嘘のように」なんてことはなく、あのとろりとした目で時折見つめて、いろいろと予定を持って私のところへ来る。

 そんなことが数週間続いて、私はあの日の質問に時折記憶の中で揺さぶられながら、黙って彼に付き合った。


「ねえ」


 不満げな声が上がったのはバレンタインデーを過ぎたある日だった。


「チョコ貰ってないんだけど」


 放課後。今度は偶然ではなくて、帰る約束を取り付けられた昇降口。

 神妙な面持ちの彼が発した言葉に思わず「ははっ」とどこかのネズミのキャラクターみたいな笑い声が口から飛び出した。


「同じクラスにいるでしょ。くれそうな子が」

「別れたんだってば」

「おばさんに貰ってないの?」

「足りない」

「食いしん坊か」

「君のが足りない」

「……。いやいやいやだって、あげてないし」

「だから、足りない」

「ちょっと待ってよ」


 ずいずいと近づいてきた彼に、思わず体をかばうように両手を前に出したら、ぐいっとその胸の中に引き込まれて抱きしめられた。


「……足りない」


 耳元の呼吸は深くて、声はかすれて鼓膜を優しくひっかく。


「ねえ。……すきってなんだろう」


 ここでか。ここでそんなことをまた聞くのか。

 そんなに切ない声を出すのに、こんなことをしてるのに、まだそんなことを言うのか。

 状況に火照っていく頬とは対照的に、私の頭の中はすうっと冴えていく。


「ちょこ、欲しかったの?」


 また逃げた。こくりと彼は頷く。怒らない彼は心が広い。それに甘えてもう一度後ずさる。


「それなら自分で買えばいいじゃん」

「……」

「今なら売れ残りセールとかあるかもよ?」

「……」

「……。なんで、好きとかなんとか、聞いてくるの?」


 もうあきらめた。逃げるのはここまでだ。

 私が問いかけると、彼がこっくりと黙ったまま腕に力を込めたから、少し息が苦しくなる。

 こっくり、こっくり。


「好きだったら……真っ直ぐ好きだって言うのが普通だと思ったから」


 長い沈黙の後に、彼はそう口にした。


「香りも、手を握った感じも、笑ってる顔も、向いてる方向も、全部欲しいって思ってるのに全然ちがうことするのはおかしいし、そもそもそういうふうに思う自分が気色悪い」

「……」

「でも、ほしい。逃がしたくない。君だけにそう思うのって、多分おれ変なんだ」

「わ、たしのこと……すきだと、思ってくれてるの?」

「……」

「あ。そこ黙るんだ」


 黙って不意に顔を覗き込んできた彼から、目が逸らせない。

 迷っているように泳ぐ瞳。綺麗だと思っていたら、


「すきで納めちゃいけない」


 と困ったように零されて、


「でも、多分それに似てる」


 付け加えた後でとろり、瞳が和らぐ。


「多分って……」

「付き合いたい」

「は……」

「彼女にしたい。彼女になってもらいたい。でもいままでいた彼女と同じじゃない」

「えっと」

「最初におれがここで同じこと聞いたとき、逃げたでしょ。あれで諦めようと思ったけど、気づいたらいろいろと口実作って一緒にいるようにしてた。こんなの気持ちが悪い奴がする事だよ」

「でもチョコ欲しかったんだよね?」

「なんで今そこに戻るんだよ……信じられない……」

「だって同じじゃん」


 絶望顔の彼に私は言う。


「それが『好き』なんじゃないの?」



 彼について分かったことがある。

 それは、誰かとたくさんの感情を比べては、その捉え方の差をものすごく気にしすぎてしまうこと。


「……」

「もっと嬉しそうな顔しなよ」

「だって……」


 困惑した子犬みたいな顔で彼は、


「まさか本当にチョコくれるなんて思ってなかったから!!」


 と叫んだ。

 今いる場所は下駄箱じゃなくて、通学路の途中にあるコンビニの外で、彼の手の中には私がたった今レジ袋から出したバレンタインチョコが抱えられている。


「ありがとう……大事にする……」

「ちょっと待ってその半額シール剥がすから」

「大事にする!!」

「シールも?」

「シールも!!」

「お、おう」


 動揺して男前な返事が口から出た。

 幸せそうにしている彼を見たらそれもなんだかどうでもよくなって、私はレジ袋をぐしゃぐしゃ言わせながら丸めて鞄に仕舞う。


「それで、本当にいいの?」

「なにが?」

「付き合ってくれるって話!!」


 軽く問い返して見上げたら、そこにあるのはさっきも見た絶望顔。よく見るな。私のせいか。


「うん。いいよ」

「……なんか軽いな」

「さっきもこんな感じだったじゃない」

「もっと、なんていうんだろう……甘酸っぱいってやつ? あるかと思ったのに」

「予想と違ってがっかりした?」

「それが全然」

「してないんだ?」

「うん」


 君のおかげだよ、と彼は笑う。

 あの下駄箱での告白の折、彼の悩みは多少なりとも消えたみたいだった。

 恋人同士になったからかもしれないし、話している内にすっきりしたこともあったのかもしれない。

 そのあとに「付き合ってください」と言ってくれた彼の顔は最高にかっこよかった。

 惚気だ。この先誰に言うつもりもないから許してほしい。


「それにしてもそのチョコさ、やっぱり返して」

「……はあ?」

「どこから出したその無表情」

「だってせっかくくれたのに!!」

「コンビに寄ったついでの品だからよく考えたらすごくひどい彼女みたいじゃない!! 私が嫌だから一旦返してよ」

「嫌だよ彼女に貰った初めてのプレゼントだよ? 本命の!! 本命からの!! 初めての!!」

「言われるほどそのシールが胸に突き刺さる!!」

「これがおれ達だからいいんだよ!!」

「それが嫌なのでホワイトデーにやり直しさせてください」

「ホワイトデーにはとっておきのお返しをしたいので諦めてください」

「なんでよおお」


 ここまで、彼に飛び掛かりながら交渉していたけど、とうとう力尽きて膝から崩れ落ちた。彼は両手を空に突き出してチョコを掲げている。夕焼け空がまぶしい。


「だって君が教えてくれたんだもん」


 助け起こされて、それまで笑っていた彼がふと、ふざけた空気を霧散していく。


「おれの好きでいいって。だったらおれも、君の好きをもっと好きになるよ」


 好きって何だろう。

 彼の問いかけが頭を、心を揺さぶっていたのに。

 ああ、これが好きってことなんだと思い知らされる。

 さあ、もう帰ろう。

 私の好きも、君の好きも、誰かの好きも、きっと明日にはもっとくっきり境が見えてくるはずだから。



2017.02.26 了

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