侵入者
それは一瞬の出来事だった。
清智と新菜は宙に舞った。ピアノ線新足を引っ掛けてしまったためだ。
清智の回避は素晴らしかった。空中で体をひねると、バク宙をして階段の僅かなスペースに着地したのだ。
これこそ本物の運動神経である。
新菜はと言うと、かなり危険な体勢で転んでしまった。
最後尾にいた寅丸は動けなかった。
その代わり頼れる男が近くにいたのだ。
そう、信一である。ピアノ線に気づき、新菜の頭と上半身を包み込むような形で抱きしめ、階段を六段ほど転がった。
やっと異常に気がついた立華達が駆けつけた時には芸術的な光景が広がっていた。
清智は腕を水平にして着地のポーズをとり。
ピアノ線より上では清武、七清、清照、寅丸が動けずに立ち尽くし。
下の方には、新菜を守り全身ボロボロになってしまった信一と、混乱から覚めたばかりの新菜の姿があった。
「大丈夫か!今行く」
立華が階段を駆け降りようとするのを清武が止める。
「あぶねぇ、警部さん。そこにピアノ線が張ってあるこいつに足を引っ掛けたんだ」
清武の言葉のおかげで、ピアノ線に気づいた立華は慎重にまたぐと、すぐに
信一に近づいた。
「大丈夫か、信一くん」
信一は意識こそ朦朧としているが、はっきりと「大丈夫です」と答えた。
もちろん頭を打っているかもしれない、無線で下の警察に救急車を呼んで貰うと同時に、このピアノ線線を仕掛けた人物を探すように手配した。
階段の登りにはなかった。もしくは、落ち葉の下に隠されていたであろうピアノ線を祈祷と墓参りをしているうちに張った人物がいることは確かだ。
「信一さん。私のために本当にごめんなさい」
新菜は擦り傷ひとつなく無事だった。
これも、信一が身を呈したおかげだろう。
「大丈夫です。あの時助けられたのは僕しかいませんでした。ラッキーですよ」
信一は痛みに歯を食いしばりながら答える。
ピアノ線をまたいで降りてきた他のメンバーも集まり、寅丸が軽々と信一をおぶった。
一同は階段の下を目指し始めた。
「待ってください。ピアノ線がこれだけとは限りませんよ」
先頭をゆく清智の言葉に全員が緊張を感じた。
「たしかにな。俺たちが前に出る」
立華は老眼が始まった眼を最大限駆使して、眼を凝らしながら、かつ素早く階段を降りた。
結局ピアノ線は1本しか無かったが、下に着く頃には立華の眼は限界を迎えており、充血し涙もこぼれた。
ちょうど到着した救急隊に信一は運ばれた。
新菜が付き添いたいと申し出たが、今はまとまっていた方がいいと立華が判断し付き添いは警察のひとりが行った。
万全を期すため、パトカーで阿座上家の人々を本宅に送らせると立華は日が暮れる前にピアノ線の元に戻った。
また階段を登るのは苦痛だったが、なんとか辿り着いた。見張りに置いていた警官は不審者は見てないといい、その後無線で山の周辺でも不審者はいない、もしくは逃げられてしまったという報告があった。
ピアノ線はかなり細い物が使用されていた。
階段の幅よりかなりの長さがあり、両端は木の幹に縛り付けられていた。
現場に落ち葉が多かったため、やはり登りの時は落ち葉の下に隠されており、祈祷と墓参りをしている間に張られた可能性を考えた。
ピアノ線の聞いて立華は阿座上家にもピアノがある事を思い出した。
朱音、蒼葉、七清が習っているからだ。
それにしてもこの方法も事故とは言えない。
確実にあの7人のメンバーを狙った悪意ある殺人未遂ということになる。
やはり愉快犯なのだろか。
儀兵衛の遺した遺言状の最後の一文のせいで、立華の知る犬神家の一族とはかなり違った展開を見せているこの事件。
動機もよく分からない。
土田に本を渡したが、意味が無かったかもしれないと思い始めてしまった立華なのだった。
「寅丸。信一さんについて連絡はあったかしら」
新菜は夕食のあとになって寅丸に尋ねた。
この質問を寅丸が受けるのはもう10度目ほどだ。
「いえ、特には連絡はありません。俺が運んだ時も受け答えがはっきりしていたので、大事には至らなかったと思います」
「そう。だといいけれど」
新菜はそういうと、忙しなく部屋を歩き回るのだった。
「新菜様。まずはご自分の心配をなさってください。俺は晴美様と儀兵衛様から新菜様を守るように言われて来ました。今日はほんとに危なかった。信一様がいなければどうなっていたか」
「わかったわ。今日は早く寝ることにする」
「そうしてください。ではおやすみなさい」
寅丸は部屋を出ると、周囲を見回り自分の小屋に帰った。
警察はやはり多い。今日の事でますます気合いが入っているようだった。
新聞やテレビで信州大企業の一族を襲う恐怖。などと報道されては仕方がない。
それに、能楽界のプリンスである清照。若手実力派役者の清武。日本体操界のトップ清智。有名な3人がその事件に大きく関わっているとなれば世間の注目も大きいわけである。
寅丸は枕元に棍棒を用意して、床についた。
少し嫌な予感がしていた。
そしてその予感は的中したのだ。
獣の予知能力とでも言おうか、寅丸は夜中に目が覚めた。
棍棒を握りしめ、小屋から出る。周囲を確認しながら新菜の部屋の近くまで行った。
その時だった。
新菜の部屋の中に人の動く気配を感じた。
新菜ではなく、おそらく男だろう。月明かりでうっすらと見えるシルエットから想像できた。
警察を呼ぶべきか、突入するべきか迷った寅丸だったが、身内の可能性もある。
新菜が部屋に呼んだのかもしれない。それは考えたく無かったが。
まずは、襖を小さく開き中を覗いた。
そして驚いた。
帽子を深く被り、目以外をマフラーで隠し、ボロボロの服を来た男が新菜の枕元に何かを置いているのだ。
「そこの賊!何をしている!」
寅丸は棍棒片手に部屋に飛び込んだ。
賊は一瞬怯んだがすぐに寅丸に飛びかかってきた。
その動きは実に軽やかで、軽快だった。
「誰か。賊だ!賊が入った!」
相手は武器こそ持っていないが力自慢の寅丸の棍棒を持つ腕を上手く掴んで離さなかった。
寅丸の叫び声に、新菜が飛び起きても悲鳴をあげた。
「新菜様。離れて!応援を呼んでください!」
寅丸が必死に訴えて、賊との格闘を始めると、新菜は一番近い部屋の清武一家と外の警察を呼んだ。
「おいおい。どうなっているんだ!」
立華が現場についた時、庭では激しい格闘が行われていた。
力任せに棍棒を振る寅丸。
それを交わして逃げようとする賊。
寅丸も逃がさない、脚にしがみつくと根性で賊を転ばせた。
しかし、賊は脚を掴んでいる腕を巧みに取ると、逆に寅丸を寝技のように締め始めたのだ。
この大格闘に立華は何も出来ずにいた。
廊下では阿座上家の一族や女中たちまで現れてその様子を見守っている。
格闘もいよいよ佳境に入った時、清武が声をあげた。
「寅丸いいぞ!そこで腕を引け!その調子だ!」
清武はまるでアクション映画の監督をしているかのように声をかけ。その様子に見入っていた。
さらに「寅丸はいい素質があるな」などと独り言を言っている。
そんな清武に周囲の人は若干ひいていたが、そんな格闘を突然終わったのだ。
それは賊の顔が寅丸の耳元に近づいた時だった。
寅丸の力が突然抜けたのだ。
すると、賊は信じられない跳躍力で阿座上家の塀を飛び越えると逃げてしまった。
もちろん立華は後をおったが、月明かりだけではとても見つけられなかった。
「面目ない。賊を取り逃しました」
立華は申し訳なさそうに、朱音に報告した。
「取り逃したですって。ほんとに警察は取り逃してばかりですね。息子達がほんとに危険な状況なんですよ」
「申し訳ありません。今賊の素性について全力で調べております」
「それも大切ですが、紫崎親子の行方もまだ分からないでのですか」
「はあ。そちらも現在進行中でして」
その後も朱音の警察に対する叱咤は続いた。
立華は自分の非を認めざるを得ないと思った。
やっと朱音から解放されると、まずは寅丸と新菜から話を聞かねばと思った。
「新菜さん。寅丸さん。おつかれの所申し訳ないのですがいくつかお話伺えますか」
連日の緊張と恐怖に加え賊に襲われたとなれば、二人の疲れは尋常ではないはずだ。
しかし、二人は嫌な顔ひとつせず取り調べに答えてくれた。
「まず、盗まれた物はありますか」
「それが、ひとつも無いのです。母の肩身のネックレスなども盗られていないし、お金も全部ありました」
新菜が不思議そうに言った。
「そうですか。おかしな賊ですな。寅丸さんは何か気づかれましたか」
寅丸は姿勢を正すと賊を見つけた状況を話した。
「それが、俺が部屋に飛び込んだ時、賊は何かを新菜様の枕元に置いたように見えたんです」
それは重要な証言だ。立華は新菜に視線を向けた。
「寅丸さんはそう言ってますが、何か残されてましたか」
すると新菜は明らかに動揺して、視線を左右に動かしたが息を吸い込むと話し始めた。
「ありました。でも、気味悪い汚い文字だったので怖くなって燃やしてしまいました」
気味悪い汚い文字。この前、宿屋にいた風貌が似ている男も筆跡を隠すためにそんな文字を書いていた。
「内容は思い出せますか」
「いいえ。読まずに燃やしてしまったので」
淡々と語る新菜だか、目の奥には何か隠しているような不思議な色が見えた。
「そうですか。次に寅丸さんです。格闘中に突然力が抜けたように見えましたが、どうしたんですか」
すると、寅丸は思い出すというより考えるように口を閉じると少しして思い出した。
「格闘に夢中で不確かですが、首を締められて意識が遠のいたような、そんな気がします」
寅丸の証言は不確実だった。
「ありがとうございます。また何か伺う時はよろしくお願いします」
立華は阿座上家の外のパトカーに戻った。
しかし、二人の態度は不自然だった。何かを隠しているような、というよりあの賊について庇っているようなそんな気がして仕方なかった。
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