澄伊湖の逆さ死体
清照が帰ってきた阿座上家は朝を迎えていた。
昨夜の警察の山狩りについてはまだ情報が届いていなかった。
阿座上家の朝食のスタイルは昔から決まっている。
全員が広間で食事するのだ。昼は各自だが、夜も集まる事が多い。
ちなみに昨日の夕食の席に面を被った清照は現れたが、全ての料理が配られると、料理を持って自室に帰ってしまった。
今朝も、皆の前に清照はいる。姿勢よく朝食を待っている。
しかし、全ての料理が運ばれればすぐに退席するだろうとみな考えていた。
「七清、あれは清照兄さんだと思うかい」
高級な猫を膝の上で撫でている七清に対して、近くの清智が聞いた。
「みんながどう思っているか知りませんが、私は怖いと感じました。清照お兄様だろうとなかろうと、とにかく怖いです」
そう言うと七清はぶるりと身震いした。
「そうか、信一くんが師匠だと言うから間違いないと思うんだが、僕は信じたくないというか、とても難しい気持ちなんだ」
清智は混乱の表情をした。七清はそれを見ると、にっこりと笑い。猫を膝から放した。
「また舞を見せて貰えばいいんじゃないのか、なあ新菜さん!」
突然大声を出し、新菜まで巻き込んだのは清武だった。
「お兄さん声が大きいですよ」
七清が止めるが、彼の狂気は止まらない。
「へへっ。じいさんが変な遺言状を残すからいけねぇ。一族内でこんなギスギスするのはごめだね」
清武は儀兵衛の遺影に悪態をつくと。大きな音をたてて、座布団に座った。
ちなみに今朝の朱音はあまり威勢が良くない。さすがに、息子のあの態度や面を取ろうとしない強硬さには驚いてしまったのだろうか。
いつもはきっちり整っている髪も少し乱れていた。
黄名子と蒼葉はこの遺言状読み上げからずっと混乱の中におり、常に落ち着きは無かった。
新菜は先程、清武に絡まれた時は僅かに動揺を見せたが、また背筋を伸ばし凛として、どこか遠くを見るようにしていた。
それぞれの思惑や混乱が渦巻くなか、朝食が運ばれ始めた。
泉美と氷佳琉が盆をもち配膳を始めた。
ちなみに配り方も決まっている。はじめに清照、清武、清智。次に三姉妹とそれぞれの夫、最後に新菜である。
新菜は席が一番離れているのでこのような順となっている。
さて、事件が起きたのは味噌汁の配膳をしている時だった。
氷佳琉が清照、清武、清智の味噌汁の椀が乗ったお盆を運び、清照の前にしゃがんだ時、バランスを崩し、広間の真ん中に味噌汁をぶちまけてしまった。
氷佳琉はすぐに謝り、厨房からタオルを取りに戻った。
一族のメンバーは慣れたことなのだろうか、あまり動揺しない。
厨房の方では泉美が氷佳琉を叱る声が聞こえた。
「あっ。清照兄さん、その猫を離れさせた方がいいかもしれない」
清智が言った。歩き回る、七清の猫がこぼれた味噌汁を舐め始めていたのだ。
「ああ」
清照は相変わらずガラガラな声で答えて立ち上がった。
その時だった。美しい猫が突然苦しみ出したのだ。
清照は立ち上がったまま驚いている。
七清は急いで愛猫に近づいた。
「まて!七清、毒かもしれない触れるな」
広間を揺らすように大声で七清を制したのは兄の清武だった。
「酷い。こんなに苦しんでいるのに!」
七清は泣きながら兄に訴えた。清智が七清の後ろに近づき、背中を撫でる。
この時にはもう猫は動かなくなっていた。
「お前も同じ目にあうかもしれない。とにかく警察を呼ぼう。おい!泉美、氷佳琉!」
清武は叫んだ。
三姉妹はますますの混乱に、卒倒寸前だった。
清照は面で表情が読めないが、恐ろしさのあまり膝が震えていた。
自分が飲むかもしれない味噌汁を舐めた猫が死んでしまったのだ。
清武の判断は正しかった。
5分ほどして警察が到着するまで、誰も現場を動かなかった。
もちろん、食事に手をつける者はいなかった。
清武を除いて。
彼は、「味噌汁以外はいいだろう」というなんとも狂った考えで、他に運ばれていた食べ物を食べ始めていた。
「皆さん。これから現場の保存を行います」
立華警部は少し遅れて、土田と共に到着した。今朝は宿に土田はいたのだ。やはり眠そうな顔をしているが。
「清武さん。念の為朝食はここまでにして頂けませんか。弁当を用意させるので」
「ああ。すまんな」
立華の言葉でやっと食べるのをやめた清武を含めて、他のメンバーも広間を後にした。
「毒ですかね」
土田が現場を見ながら言う。
「今鑑定してる。十中八九、毒だと思うがな」
「料理は全て女中のふたりが作っているんですよね。とりあえず話を聞きましょうか」
土田の意見で、立華と土田は隣の部屋で待機している女中の元へ行った。
「泉美さん、氷佳琉さん事件の状況は他の刑事に聞きました。我々の見解では毒はあの3人の椀にしか入っていないと思われます。厨房の状況について教えて貰えますか」
立華は質問した。もちろんこのふたりが現在最も怪しい立場である。
厨房にふたりがずっといたのなら今朝のうちに毒は入れられないからだ。
泉美が質問に答えた。
「私たち二人は代わる代わる仕事をしておりました。それに、朝は清掃などもあるので常に厨房に人がいた訳ではありません。それに、調べて貰えば分かりますが厨房に鍵などはなく誰でもいつでも出入りは自由です」
泉美の証言で事態は大きく動き出した。
つまり、この家の人物全てに疑いが向けられたのだ。
もちろん女中二人も例外ではないが。
それから半日ほどして、毒の種類が判明した。農薬に関係する毒物であり、農薬は誰でも購入できるし、実際のところ阿座上家には農薬がかなりの量置いてあったため、入手経路から犯人は辿れない。
また、毒は清照、清武、清智の椀からだけ検出されており、明らかにその3人を狙っていると分かった。
立華は遺言状を思い出して不可解に思った。
これは悪意ある殺人である。
つまり、儀兵衛の遺言ではこの毒殺が成功したら誰も得をしないのである。
なぜなら、世界戦争孤児援助機関と桜谷孤児院に寄付されてしまうからである。
新館にも、この件を相談して見たがやはり得を受けそうな人物はいなかった。
むしろ、完全なる愉快犯か、外部の犯行で、このおかしな遺言状を知って一族に不利益を与えたいという悪趣味なイタズラとも考えられた。
さて、それからというもの事件の気配は無かった。
立華は複数名の部下と阿座上家周辺をパトロールし、時には寝ずの番をして見張ったりもした。
昼間暇になると、土田に犬神家の一族を読んだかどうか聞くために時々宿を訪ねて見たが、いつも外出中だという。
一体何をしているのか、というよりめんどくさくなって消える準備をしているのではないか、そんな憶測が立華の頭の中で渦巻いた。
その矢先、若月から数えて2人目の犠牲者が出てしまったのだ。
ああ、思い出しただけで恐ろしい。
そして、立華にとってその光景はあの小説そのものだった。
事件の発覚する前の夜。立華は非番だった。
しかし、警察署についてからその知らせを受けて真っ先に阿座上家のボート小屋に向かった。
阿座上家の人々は寒い風にふかれながら無言でボート小屋から、澄伊湖を見ている。
11月もいよいよ中旬ということもあり、湖は部分的に凍っていた。
しかし、その澄伊湖の真ん中辺りにそれはあるのだ。
二本の足が逆立ちをしてる。
まさにあの小説のあのシーンである。そして、立華は辺りを見回した。清照の姿がない。立華は清照、いや、おそらく清照に入れ替わっている紫崎真琴の死を勝手に連想した。
「ボートを出せ。引き上げるぞ」
立華の指示を受けて、ボートを出した。警察署から持ってきたものがあり、3槽が湖に出た。寅丸も同乗した。
死体を目前にして驚いた。
真っ白な脚が死後硬直しているのだ。
両側から力自慢の刑事と寅丸が大根を引き抜くように引っ張った。
水草がかなり多い場所らしい、あの寅丸も顔を赤くして本気で引いている。
すると、水草が絡まった寝巻き姿の男の死体が引き上がった。
「はっ。これは進之助さんじゃないか」
立華は思わず叫んだ。
先入観に囚われるあまり、清照もしくは紫崎真琴を勝手に連想していたが、確かにさっきのボート小屋に進之助がいなかった。
「腹部に刃物で刺された跡があります」
一人の刑事が言う。
それはさらに立華を混乱させた。
「うーん。斧で頭を割られているのではないのか」
「警部何を言っているんですか」
「すまない忘れてくれ」
寅丸に死体の確認をしてもらったが間違いなく進之助だと言う。
では、清照はどこに行ったのか、刺激の強い遺体をビニールシートで隠して、ボート小屋に戻る。
しかし、遺体が進之助であることを妻の黄名子は気付いているようだった。
ボートが小屋に着く頃には泣き崩れていた。
「おいおい、普段はバカ真面目なオヤジが逆立ちして死んでたぞ!みんな見たか、ハハハッ!傑作だな」
父の死を前にしても笑い声をあげているのは清武だった。黄名子も七清も注意する気すら起きない。
「ところで清照師匠はどこです」
空気を帰るためだろうか、信一がつぶやく。
「さっきは寝室からいびきが聞こえたわ。もしかしたら寝ているのかも」
朱音が答える。こんなに大騒ぎでよく寝られるものだ。
そう思っていると、土田と問題の清照が現れた。
「いや、立華警部。さっき庭で偶然清照くんと会いましてね。二人で歩いて来ました。会話はしてないですけどね」
土田は飄々としている。清照の能面はなぜか呪いの表情ではなく、進之助を嘲笑っているように見えた。
「そうだ!聞きました。清照さんは能楽界のプリンスと言われてるそうで、有名なんでしょう。ぜひ握手をお願いします」
土田は、突然清照の手をがっしりと握った。
清照はビクッと驚いたが、その後は普通に対応していた。
立華は阿座上家の一族を本宅に返すと、土田に事件の概要と現在分かっていることを伝えた。
しかし、土田には何か見えてるようだった。
進之助の過去を知っているように、見透かしているように遺体を見つめていた。
それそれ仕事のために帰ろうとすると、朱音を筆頭に三姉妹が土田と立華を引き止めた。
「土田さん。立華警部、お話しなければいけないことと、お願いがございます」
そうして二人は大広間に連れていかれた。
そこには、新館の姿もあった。
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