清照、本宅に帰る

朝日が昇り始めた頃。

阿座上家の本宅前の門にタクシーが停車した。

出迎えているのは阿座上儀兵衛の長女、朱音である。

息子の清照が能の全国公演を終えて今帰宅したのだ。

約半年ぶりに息子に会う朱音は、この時を待ちわびていた。

11月5日。

朱音が遺言状読み上げには一族全員が揃う必要があることを何度も説明し、ようやく帰ってくると約束した日がこの日である。

さて、清照が能楽師になったのには理由がある。

今は亡き朱音の夫の家系が代々能楽師だったのである。たまに宴会の席で能を舞う父を見て、清照は父方の能楽師一門の門を叩いたのだ。

もちろん朱音は止めた。清照は儀兵衛の孫。そして長女である朱音の息子である。

跡取りとして育てるつもりだった。しかし、清照は能の道へ進んだ。

その頃から母と息子の関係は良くない。

それでもこうして出迎えるのは、心の底で清照が阿座上家の跡継ぎになってくれると願っているからだろう。


まだ薄暗く、吐く息は白い。

タクシーから降りた人物は袴姿である。

門に近づくにしたがい、輪郭がはっきりと見える。

「清照。おかえりなさい」

朱音の呼び掛けに答えない清照。

そのまま歩みを止めない。

「まあ!清照その面はなに」

朱音ははっきりと見えた清照の顔面に驚いた。

なんと清照は能面をつけているのだ。

面の種類で言うと「子獅子」と呼ばれるもので、口を開き、牙を向き、その表情には怒りに満ちている。

「清照!どういうことなのです」

清照は一言も発さない。ただ滑るようになめらかに阿座上家の門をくぐった。


朱音は困った。

あれでは清照であるか分からない。

もしや母を困らせるためにあえて面をつけ、顔を隠しているのだろうか。

声を発さないのも母への反抗意識なのだろうか。

朱音は清照のあとを追うことしか出来なかった。



「おはようございます。新館さん。それに立華警部殿」

寝ぼけた顔の土田は宿を出て直ぐに挨拶をした。

「土田さん。遅刻ですぞ」

立華警部が張り切ってそこにいるが、土田にはなぜ彼がいるのか分からなかった。

そんな土田の内心が表情に現れたのか、新館が補足した。

「土田さん。殺人が起こるような事態です。今日の遺言状読み上げには立華警部にも参加して頂くことにしました」

「へぇ。それで警部殿が」

様々疑問が湧いたが、土田は能が眠っていた。とりあえず相づちを打つと、阿座上家へ向けて出発した。


道中、立華は威勢よく昨日の事件について分かった事実を語った。

そして、自らの見解を話はじめたが、土田は聞きながした。

それは、新館も同じだった。

「ところで土田くん。昨日贈呈した本は読んでくれたかな」

流石に名指しされたら答えざるを得ない。

「いいえ。読んでないです。昨日は寝ました」

土田は正直に答えた。

立華は怒りを沈めようと我慢しながら唸ると、まだ威勢よく話し始めた。

「一刻も早く読んでくだ方がいいと思うがな。今回の事件ますます類似点が多い。俺の予想じゃ3人は死ぬぞ。それに犯人はおそらく…」

警部が3人も死ぬなどと縁起でもない事を言い出したので、土田は聞き流すことにした。

隣ではやはり新館も聞き流している。


「さて、阿座上家に到着しましたよ。ここからは私が案内します」

阿座上家の入口の門まで来ると、新館が先頭に立ち、土田と立華を案内した。

土田は眠そうに目をこすり。

立華は首の骨を痛めるのではないかというほどに辺りを見回していた。

まず、立華が声をあげたのは、庭で合戸寅丸が薪割りをしている時だった。

「おい!斧だ。斧を持ってるぞ」

「立華警部。斧くらいでなんですか、薪割りするなら使って当たり前でしょう」

「だからな。さっきも説明した通り。斧は重要な役目を…」

立華を横目に、土田と新館は寅丸に頭を下げた。

寅丸は鋭い目でこちらを観察すると、無理やり口角をあげて愛想笑いをしながら頭を下げ返した。


長い庭の回廊を抜けて、いよいよ玄関という時に、またもや立華警部が声をあげた。

菊畑を指さし、何やら叫んでいる。

すると、女中の1人である曽野泉美がその声に気づき玄関から顔を覗かせた。

土田は「菊人形」がどうとか言っている立華を黙らせて、新館は泉美に挨拶した。

「今日は遺言状読み上げに伺いました。こちら立会人の土田一慶さんと静ヶ原署の立華警部です」

「お待ちしておりました。大広間にご案内します」

泉美は表情の少ない女性だ。流れる水のように、声を出すと3人を大広間へと導いた。


「こっ、これは。琴」

廊下の途中に、ガラスケースに入った琴を見て立華つぶやき、立ち止まる。

土田は床を見ていたため立華にぶつかった。

「曽野さん。これは誰か弾くのかね。例えば、朱音さんとか」

立華はまたよく分からない事をいい、質問した。

「いいえ。この家に弾ける者はおりません。朱音様はピアノを弾かれます」

「ああ、ピアノか。確かに今どき琴も珍しいか」

立華はひとりで納得すると、まだ歩きだした。

それにしても、立華はなぜ、斧。琴。菊。に反応するのだろう。土田と新館は不思議で仕方なかった。

土田はもしや、昨日の文庫本が関わっているかもしれないと頭をよぎったが、妄想だと切り捨てた。


大広間の前に人影があった。

長い髪をなびかせて、整った顔立ちをしている。青い髪留めが外の光を受けて輝いていた。その女性は毛の長い、海外の高級そうな猫を抱いている。

「七清様。どうかなさいましたか」

泉美が呼びかける。土田はそこでやっと儀兵衛の次女の娘、阿座上七清でであることに気がついた。

七清は十分に美人だった。しかし、昨日見た新菜と比べてしまうと、やはり輝きが足りていないような気がした。

そう思わせるほどに、新菜の美しさは鮮烈だったのだ。

「いいえ。お客様のお顔が見たかっただけ。広間にいくわ」

顔立ちは優雅だが、その言葉づかいには子供っぽさも感じた。

猫を抱いたまま、早足で立ち去った。

「ミステリアスな女性ですな」

立華がつぶやく。

「七清様もピアノを弾かれますよ」

泉美は立華に追加の情報を与えた。

立華は大きく唸った。

そして、3人は泉美を追いかけて、大広間を目指した。


「失礼いたします。新館弁護士と立会人の土田様と立華警部をお連れしました」

泉美が大広間の入口のふすまを開けると共にそう言った。

大広間は、とても広い畳の部屋だった。

丁寧に座布団が3枚敷かれており。

阿座上家の面々は半分ほど揃っていた。

まず、儀兵衛の次女の黄名子とその夫の進之助がおり。座布団ひとつとばして、七清が猫と共に座っていた。

また、三女の蒼葉とその夫の辰吉、その息子の清智は既に揃っていた。

清智は体操界のトップ選手だと聞くが、噂通り、上半身は喪服の上からでもわかるほど筋骨隆々で、顔も精悍だった。


まだ集まっていないメンバーを待っていると、土田の近くの入口のふすまが勢いよく開かれた。

「じいさんの遺言状読み上げっていうのは、こんなに堅苦しいのか。やってられねぇぜ」

喪服を着崩して、髭面なのは黄名子の息子、清武だろう。

狂気の役者は、現実世界でも狂気に満ちていた。

ジロジロと立会人2人と、新館弁護士を見ると、父の進之助に怒鳴られて渋々、座布団に座った。

兄妹の清武と七清を見比べると、どこでこの2人にこんな差が生まれたのか少し不思議であった。

「遅れて申し訳ありません」

そう言いながら次に大広間にやってきたのは、例の新菜であった。

土田と立華はその美しさに一度息が止まる思いがした。

「いえいえ、時間は大丈夫ですよ」

新館が落ち着かせて、彼女は席に着いた。

しかし、黄名子と青葉の目には新菜に対する敵対心か恐怖心のようなものがメラメラと燃えていた。

確かに、儀兵衛の恩人の孫と言うだけで、遺言状読み上げのメンバーのひとりとして呼ばれていることが、儀兵衛の実の娘として嫉妬するに値すると思われた。


さて、あとは朱音と清照を待つのみとなった。

清武は畳を指で弾いて落ち着きなくしている。

清智も流石に痺れを切らし、正座を崩したりしていた。

新菜は相変わらず遠くを見つめるように、澄ました顔でいた。

「申し訳ありません。皆さん」

朱音の声が聞こえた。全員が姿勢を正した。

朱音は素早く、座布団に向かう。その後ろにいるのは清照だろう。

しかし、その清照の顔を見た時、一同に戦慄が走った。

清照は能面をつけているのだ。

「清照兄さん!その面はなんだ。ふざけてんのか」

真っ先に声をあげたのは清武だった。

そして、土田の隣では立華が「うわ。スケキヨだ。完全のあのパターンだ」とわけの分からないことを喚く。

朱音と清照は落ち着いて座布団に座ると、朱音が代弁するように話し始めた。

「警部さんスケキヨって誰ですか。これは清照です。能の道を許さなかった私への反抗心からかこの面は外さないと言い張っています」

その言葉は火に油を注いだ。

黄名子と蒼葉は朱音を睨みつけた。

「それが、清照さんかどうか証明してください」

蒼葉は必死に訴えた。

「いいえ。そんな必要ございません。母である私が保証します。新館さんもよろしいですよね」

一同の視線が新館に集まる。

新館は厳しい表情になった。

「出来れば、一瞬でも顔を見せて頂けないでしょうか。もちろん疑っているわけではありません。儀兵衛様の遺言に忠実でなければならないのです」

「まあ。新館さんまで、これが清照じゃないって言いたいの」

ほぼヒステリックを起こしている朱音に何を言っても仕方ないという空気が流れはじめた。

「面を取るのか、しかし俺はヤケド跡など見たくない」

土田の横では相変わらず立華警部が訳の分からないことを呟いている。

「あの。私に提案があります」

透き通る声で言ったのは新菜だった。

「私たちは、清照お兄様の能を何度も見てきました。だから、清照お兄様。能を舞ってくれませんか」

「確かに、それなら証明になるではないか」

清武が大きな声で言う。

「新館さんいかがでしょう」

新菜の綺麗な瞳が新館に向けられる。

「では、清照様に能を舞って頂きます。そこで一族の皆様で多数決を取りまして、決めさせて頂きます」

こうして、清照は舞うことになった。


新館と立会人2人は違いなど分からない。

このジャッジは一族に任せられるのだ。

清照の舞は美しかった。

流石に、能楽界のプリンスと呼ばれるだけある。

無音の中、子獅子の面をつけた清照の舞は終わった。

多数決の結果は、朱音、黄名子、蒼葉、進之助、辰吉、清智、七清が手をあげて清照と認められた。

言い出しっぺの新菜が懐疑的な表情で手を挙げなかったことには驚いたが、清武については論外で「こいつは偽物だ」と怒鳴り出したのだ。

一族全員でなんとか鎮めたが、最後まで納得がいっていないようだった。


「さて、阿座上儀兵衛様の遺言状を読み上げさせて頂きます」

新館の声が響くと、一同は前のめりになり目を見開いた。

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