静ヶ原の地へ

阿座上儀兵衛の死去が全国に報道されてから1ヶ月ほどがたっていた。

11月の寒空の下。ボロボロのジャケットをはおって、マフラーをまき、スキーでもするかのような毛糸の帽子を被った不思議な風貌の男は、静ヶ原の停車場でバスを降りると宿へ一直線に走った。


「ごめんください」

男の呼び掛けに女将が姿を表す。男の風貌に一瞬驚くが、すぐに丁寧な接客を始めた。

「お客様こちらにお名前をお願い致します」

「おや。僕の名前かな、まあ僕しかいないが」

男は冗談にしても面白くない独り言を言うと、汚い字で土田一慶と宿帳に殴り書いた。


なぜ、この男。人探しや浮気調査が主戦場の探偵、土田一慶がはるばる長野県の静ヶ原まで来たのか。それには大きな理由があった。

それは3日前に事務所に届いた手紙が始まりだった。


探偵土田一慶様

私は新館法律事務所の若月一郎と申します。

突然のお手紙御無礼と承知ですが、実のところかなり性急な内容となっているため速達にて送らせて頂きました。

土田様に依頼があります。しかし、これは私個人の依頼です。

先日、阿座上儀兵衛様が他界されたことはご存知だと思われますが、彼が会長を務める株式会社AZAGAMIの内部で、戦争や紛争に使用される武器の部品や兵器の部品の製造をしているのではないかという疑惑を掴みました。いわゆる死の商人です。

これについて私個人では調べることに限界がありました。そこで、無限マークの殺人を情報収集能力で解決に導いた土田様に依頼がしたいと考えております。

また11月5日には儀兵衛様の長女朱音様の御子息である清照様が帰省されて、一族が会して遺言状の読み上げが行われます。そこに参加して頂ければ有益な情報を収集出来ると考えたので是非静ヶ原へお越しください。その際は御一報頂きたく存じます。

宿代等は私がお支払い致します。

ご検討よろしくお願い致します。

若月一郎



土田はこの手紙を見た時正直なところでは依頼を断りたかった。

冷戦や数々の紛争や革命が起こるり続ける現代。武器商人を行っている可能性のある大企業とかかわり合いを持ちたくなかった。

というより、土田はこの手紙で阿座上儀兵衛の死を知ったくらいである。

しかし、宿代を払ってくれるとなれば話は別だ。

少しやる気が湧いた土田は、事務所周辺でも出来る一通りの調査を済ませると電車を乗り継ぎ、静ヶ原へやってきたのだった。


ちなみに今日は11月4日。明日が、清照の帰宅と遺言状読み上げの日である。

この日に到着することを若月に連絡していたので若月が部屋を訪ねてくるまで、暇していた。


宿はとても古風な雰囲気で、土田の宿泊する二階の窓からは澄伊湖の様子が一面見渡すことができた。

そして、土田の宿からちょうど湖をはさんで対角にあるのが阿座上家の本宅である。

少し離れた場所に工事も見えるが、やはり阿座上家と言わんばかりに堂々たる門が構えられていた。


土田は何を思ったのか荷物が詰め込まれたトランクケースをあけると、探偵道具である双眼鏡を取り出して阿座上家を見始めた。

秋の昼下がり、澄伊湖は風によって僅かに波打ち、キラキラと水面が輝いていた。


すると、阿座上家の本宅と澄伊湖とを繋ぐ、ボート乗り場に女性らしき人影が現れると、二艇あるボートのうち片方に乗り込み、澄伊湖へと漕ぎ出したのだ。


双眼鏡を覗きながら、土田は身震いした。

ボートを漕いでいる女性の美しさに思わず目を奪われたのだ。土田は生来人を愛したことは無かった。

他人のことは観察の対象として見てしまうためだ、しかし。ボートを漕ぐ彼女には一種の神々しさまで感じた。


土田が空いた口が塞がらず、ぼーっとしていると、「失礼します」と声がかけられて、女将がお茶や菓子をもって土田の部屋の扉を開けた。

「そ、その。女将さん。あちらでボートを漕いでいるのはもしかして雨ノ宮新菜さんかな」

土田は少し興奮気味で質問する。

「ええ。そのようですね」

女将は答えながら、菓子を並べる。

「彼女が新菜さんか。よくボートに乗るのかい」

「はい。今日のように天気の良い日はよくお乗りになってますよ。最近では三女の蒼葉様の息子さんの清智さんもよくお乗りになってますね。この前はボートのスピードが速くて競技でもしてるのかと思いました」

「ふーん」

土田は軽く情報を仕入れて来た阿座上家の一族の名前を思い出していた。

こんな会話を交わしながらも、双眼鏡を覗きながらずっと新菜を目でおっている土田は何かに取り憑かれたようだった。


「それでは、夕食は7時からとさせて頂きます」

女将が土田に声をかけて、部屋を出ようとしたその時、土田が「あっ!」と声をあげた。

「何か様子がおかしい!」

女将もすぐに窓に駆け寄ってくる。

澄伊湖のちょうど真ん中で、ボート上で立ち上がり、右往左往する新菜の姿があった。

「まあ。何かあったのかしら」

「女将さん。この宿にボートはありますか」

土田はいたって真剣に質問する。

「ええ。桟橋があります。こちらへ」


土田はボートに乗り込むと、一直線に新菜の元へ漕ぎ始めた。

しかし、慣れないボートに手間取り思ったように進まない。

地元の若者に頼めば良かったと後悔しながらパンパンになった腕を無理やり動かす。

「雨ノ宮さん!大丈夫ですか!」

声が届きそうだったため、土田が呼びかける。しかし、反応はない。

新菜は足元をしきりに気にしていて、周りが見えていないようだ。浸水でもしたのだろうか。


あと少しでボートに横に並べそうになった。

すると、阿座上家の方向からまるでサメのように、猛スピードで何かが迫ってきた。

そして、それが人間であると理解したときには、サメ男は土田のボートに飛び乗り、新菜の手を掴み、こちらへと誘導した。

新菜は緊張が解けたためか、ふらつくとサメ男のたくましい腕の中で気を失ってしまった。

「助かりました。阿座上家の方へお願いします」

サメ男は強靭な肉体とまさにサメのような鋭い目からは想像できないほど落ち着いて話した。

土田はこのサメ男がおそらく合戸寅丸なのだろうと察していた。

「はい。いま漕ぎます」

土田が阿座上家を目指し始めると、新菜の乗っていたボートはほとんど水没してしまった。

なんとか見える船底には、穴が空けられていた。キレイな円形なので工具を使った可能性が脳裏に浮かんだ。


阿座上家に近づくと、パトカーがおり、人も集まっていた。

「あの湖は水草がすごいんです。1度落ちて、水草に絡まれたら2度と陸には上がれません」

ずっと無口だった寅丸が口を開いた。

内容だけに、土田は恐怖を隠せなかった。

すぐに自分のボートに穴がないか確認した。

「大丈夫です。ここまで来たら、俺が担いで陸まで泳げます」

寅丸は白い歯を見せて小さく笑うと、すぐに真面目な顔に戻った。

「あ!僕は土田一慶と言います。明日の遺言状読み上げに参加させて貰う者です」

土田は、唐突に自分が名乗っていないことを思い出し、オールを置いて挨拶した。

「あー。土田さんね。新館さんから聞きました。俺は合戸寅丸です。よろしくお願いします。とりあえず漕いでください」

寅丸からの注意でハッとして、土田はまたオールを漕ぐのを再開した。

土田について、依頼人の若月は不測の事態に備えて探偵を立会人のひとりとして呼んだと、上司の新館に話しているようだ。


「新菜様!寅丸さん!大丈夫ですか!」

ボート小屋に着くと真っ先に声をあげたのは若い女中2人のうち、まだ20歳を越えたばかりのより若い女中だった。

土田の脳内のデータではおそらく萩屋氷佳琉だろうと結論を出した。

目が大きく、全体的におっとりとした印象だ。まるで雛人形のようだった。

氷佳琉の隣には、タオルや飲み物などを持ち、冷静と言うより冷徹な表情をしている女中がいた。

こちらがおそらく曽野泉美だろう。

ベテランという雰囲気だった。

「新菜様は気を失っているだけだ。奥の部屋へ」

寅丸の言葉によって、辺りの警察や阿座上家の数名の顔に安堵が見えた。


土田は警察官に事情聴取を受けていた。

阿座上家の数名は家に引き上げてしまい。話を聞く所ではなかった。

ボート小屋にいるのは女中の氷佳琉だけだった。

必死に濡れた床を吹いており。その動きはたどたどしかった。

「つまりですね。僕はある用事で静ヶ原に来た探偵でして」

「土田一慶なんて聞いたことないぞ」

「だから。無限マークの殺人知りませんか」

「うーん。知らん」

土田は警察との会話で少し、戸惑っていた。

「とにかく、故意にボートに穴をあけられた可能性があるので、ボートを回収した方がいいと思いますよ」

土田の意見に警察はめんどくさそうな顔をして引きあげていった。


「はあ。そこの女中さん。湖の向かいの宿への帰り方を教えてくれないかい」

土田が話しかけると、氷佳琉は素早く立ち上がり、自己紹介をして、道順をマシンガンのように説明した。

「それより。探偵さんってほんとですか」

氷佳琉は突然、笑顔になり質問してきた。

「まあ。人探しや浮気調査がメインの仕事だけどね」

「へー。シャーロック・ホームズとかポアロとかドルリー・レーンとか私知ってますよ!」

土田は困った。シャーロック・ホームズしか知らなかったのだ。

「詳しいね。僕は推理をする探偵じゃないんだ」

「そういう探偵さんもいるんですね」

少し、残念そうな顔をする氷佳琉。

「では!失礼するよ」

土田はあまりの気まずさに、全力疾走で宿を目指した。

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