阿座上家の一族
栗亀夏月
始まり
長野県静ヶ原にある澄伊湖(すみいこ)。その湖畔にある本宅で日本一の電子機器、精密機器メーカー『AZAGAMI』創始者である阿座上儀兵衛が84歳をもってその生涯に幕を閉じたのは、1983年のことだった。
阿座上儀兵衛について、会社役員会である阿座上奉公会が儀兵衛死後に発売した、阿座上儀兵衛伝という伝記が最も詳しく書いているであろう。
儀兵衛は17歳で長野県に流れ着き、地元の高那神社の神官である雨ノ宮啓弍(けいじ)に助けられるまで自身の生まれた国も、両親についても全く知らなかったのだという。
儀兵衛は啓弍とその妻祝世(のりよ)に熱心な教育を受けたという。啓弍は儀兵衛の先見の明や優れた社会的能力を高く買っており、まるで実の息子のように慕ったという。
また、儀兵衛は祝世については神々しいほどに美しいと伝記に書き残している。
それはさておき、この阿座上儀兵衛は絶世の美男子だったとも言われている。伝記に挿入されている写真は50代以降の物がほとんどなのだが、彼の風貌には昔の面影を見ることができた。
この伝記には読者をかなり驚かせるであろう事実も書かれている。それは、啓弍と儀兵衛の間に衆道のちぎりが結ばれていたということだ。
その事実によって、祝世は一時期啓弍のもとから離れて暮らしていた時期もあったと言うが、すぐに関係は回復したらしく晴美という第一子を授かっている。
その後儀兵衛は、器用な手先を生かし、金属加工や時計の部品などを作る工事を創設した。その出資者も啓弍なのだ。ここでも2人の家族にも似た愛情を感じることができる。
やがて、その会社は戦後急成長を果たし現在は長野県の本社と東京、名古屋にも支社を持つ大企業となっている。
さて、啓弍と祝世が死去すると忘れ形見の晴美を養子にとり、高那神社の神官を継がせた。
その数年後に誕生したのが雨ノ宮新菜(にいな)である。現在は母晴美も父も他界しており、儀兵衛が養子として阿座上家の離れに住まわせているという。
儀兵衛と雨ノ宮家との深い関わりについては以下のように伝記に記されている。
しかし、この深い関わりこそ今度の阿座上で起こる事件の結末に大きく影響をもたらすことになるのだ。
次に儀兵衛の血縁者達について、伝記から読み取り紹介したいと思う。
どういったわけが儀兵衛は生涯に渡って正室を持たなかった。
娘が3人いるが、3人が3人共に母を異なっており、異母姉妹なのである。
長女は朱音。その夫は長野県の工場長をしていたが1年ほど前に他界した。
その朱音には息子がひとりおり、名前を清照(きよてる)という。能楽師として全国を飛び回っているため、儀兵衛の臨終の席にも立ち会えなかったという。
次女は黄名子。その夫の進之助は名古屋の工場長をしている。
黄名子には息子と娘が1人づついる。
息子は清武(きよたけ)。東京で俳優をしており、狂気の演技に定評がある。
清武の妹に七清(ななせ)がいる。この年の3月に大学を卒業したばかりである。
三女は蒼葉。その夫の辰吉は東京の工場長をしている。
息子がひとりおり、名前は清智。七清とは同学年であり、学生時代は体操で大学チャンピオンになるほどの成績をもち、今年出場した全日本選手権においても、勢いそのままに優勝した素晴らしい運動能力の持ち主だった。
以上の九人が儀兵衛の血縁者であり、阿座上家の一族の全てである。
念の為阿座上家で働く、もしくは通いで講師をしている人物に着いても触れておう。
まずは、合戸寅丸(ごうど とらまる)である。新菜の母親である晴美が引き取った養子であり、力仕事や新菜のボディーガードのようなことをしている。
次に女中が二人いる。
曽野泉美(その いずみ)と萩屋氷佳琉(はぎや ひかる)である。どちらも20代で、泉美の方が年上である。
阿座上家に住んでいる者は少ないが、沢山の離れや物置、菊畑、ボート小屋などがある。
それらの管理を彼女達が任せられている。
最後に、坂手紀子(さかて のりこ)というピアノ講師が週2回ほど出入りしている。
元は朱音の講師だったが、現在長野の本家にいる蒼葉と七清もピアノを習っているため、その2人にも臨時で教えているそうだ。
そして話は儀兵衛が死去する直前に遡る。
儀兵衛の寝室には異様な空気が漂っていた。
死に対する恐怖ではなく、焦燥感に似ていた。
儀兵衛の床を囲むように、清照以外の血縁者、医者と阿座上家の専属弁護士である新館恭二、そして養子の新菜が集まってる。
「お父様、何か遺言などありませんか」
痺れを切らし最初に口を開いたのは朱音だった。
血縁者特に、娘である朱音、黄名子、蒼葉は遺言が気になって仕方ないのだ。
儀兵衛は苦しそうに視線を阿座上家の専属弁護士の新館恭二に向けた。
「はい。遺言状は私が預かっております」
その新館の言葉に娘三人は色めきを隠せない様子だった。
「しかし、内容は指定された人物が全員揃って初めて公開されます」
すると黄名子は朱音を睨みながら言った。
「清照に巡業をやめさせて帰って来させたらどうなの」
辺りの空気がピリつく。朱音と黄名子の間に火花が飛び散っているようだった。
「何度も呼んでいます。しかし清照なりのポリシーがあって、終わるまでは帰れないと」
黄名子は諦めたように新館を見た。
「はあ。もし清照さんが帰らなくても一周忌には開封されることになっております」
この一族は、死を目前とした実の父の前でも金や相続、事業のことで頭がいっぱいなのだ。日本一の電子機器製造企業の莫大な遺産のことしか眼中にないのだ。
実の父親の臨終の席であっても、火花を散らす異母姉妹に新館は思わず戦慄した。
すると、その様子を見ていた儀兵衛が視線を新菜に移した。
新菜は驚いたように姿勢を正す。
儀兵衛が僅かに笑顔を作ったかと思うとやがて眠るように目をつむった。
「ご臨終です」
医者が脈をとりそう宣言した。
一同は頭を下げた。
誰も相手の表情が探れない。なの空間で黒い渦が広がっていたのは確かだった。
しかし、これから起こる不思議で、救いのない事件に比べれば小さな脅威だった。
これは、始まりに過ぎないのだ。
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