第30話 『大空への旅立ち』
◆
「嘘だ……」
───俺は、言葉を失っていた。
あまりの衝撃に語彙が失われ、何を言えばいいのかすらわからなくなってしまう。
その結果こぼれ落ちたのがこんな一言だ。
だがそれも無理はないだろう。
それほどまでに俺の目の前に佇む鯨の如き体積を持ったこれが、この世のものだとはにわかに信じられなかったからだ。
「これが、飛ぶのか? こんなにデカいのが? 本当に?」
「……だから何回もそう言っているでしょう。同じ説明を何度させるつもり? それともわかっててやってるの?」
「いや、悪い。でもこれは、あまりにも……」
振り返りざまに発せられた大きなため息は、相変わらず歯に衣着せぬ黒髪に黒コートの少女、レイナのものだ。彼女は鮮やかな赤色の瞳でじろりとこちらを見やり、呆れた様子で再び前方に視線を戻す。
壮大な光景だ───俺の目の前にあるのは、全長数百メートルはあろうという大きさの船だった。
だが、レーヴェで目にしたような水上を進む帆船ではない。
帆の代わりに付いているのはまるで卵か何かのように大きく膨らんだ袋だ。それが何本かのロープのようなものによって地上へと固定され、囚われた巨人の如き威圧感すら感じ得る巨体をどーんと晒していた。
───超大型連邦飛行船、ルフトヴァール。
それがこの……スフィリアが誇る、巨大物体こと飛行船とやらに付けられた正式名称らしい。
連邦を構成する『旧列強』の一国でもある鋼鉄の国、第2区連邦加盟国エルベラント。
連邦きっての工業大国でもあるこの国で生まれたこの飛行船ルフトヴァールは、過去に連邦一周飛行という航空史に残る大偉業を成し遂げた飛行船であり、『旧列強』の国々をはじめとした各国、各自治区を空で結んでいるのだとエルシェは言った。
「それにしたって大きすぎないか? これ、大きさどんだけあるんだ……?」
「こ、これは圧巻です……! ルフトヴァールがレーヴェ近くの空を通っていく姿は今まで何度も見てきましたが、間近で見るとこれほどの迫力だとは……!」
俺の隣で同じく飛行船の大きさに驚愕しているのは青髪の少女、エルシェだ。
どうやらエルシェも直接近くで目にするのはこれが始めてらしく、俺と同じ体勢で目一杯首を動かし、眼前の飛行船を見上げていた。
「そうでした、つい渡すのを忘れていましたが、これが私たちの航空券です。乗り込む際に必要となるのでそれぞれ一枚ずつ持っててください。少年、失くしちゃだめですよ」
なんで俺だけ釘を刺されたんだ……? と疑問に思いつつも、ひとまずそれを頭の片隅へと追いやってエルシェから小さな紙切れを受け取る。
「助かるわ。私一人だけだと、航空券を売ってもらえないこともよくあるから」
「ああ……《
二人のやり取りに、俺は数日前の記憶を回想する。
《
もっとも少女と同じくして《
「まったくひどい話です。いくら素性がわからないからって、そんなこと」
エルシェは腕を組み、不満げにそう漏らす。
「確かに不便だけれど、仕方ないわ。スフィリアで暮らしているにも関わらず、《
「む、レイナはそんなことしません!」
「───」
少し声を荒らげ反論したエルシェに、言い聞かせるように続けたレイナがやや眉を上げる。どうやら今の話を否定されたことにわずかながらも驚愕したらしい。
「……? 貴女は、どうして私がそんなことをしないと言い切れるの? 私と騎士さんは、まだ知り合って日がないはずだけど」
「知り合ってからの時間なんて関係ありませんよ。レイナはそんなことしません。私が、スフィリアの正義を平和を守るこの騎士が断言します」
「……ますます訳がわからないわ。なぜ貴女は断言できるの? その根拠はどこにあるのよ」
「だって───」
レイナは納得がいかない、心底理解できないといった様子で小首を傾げる。そんな彼女に対し、エルシェはニッといつもの笑みを浮かべた。
「───私はそう信じていますから!」
「……そう。やっぱり、変な子なのね」
レイナは複雑そうな表情を浮かべると目を反らし、それ以上は何も言わなかった。
そんな二人のやり取りの一部始終を見ながら俺はふと思う。
この先、俺たち三人の関係性に何かしらの変化は生じるのだろうか。
まただとすれば、それはどのようなものなのか。
だが、まだ未来は誰にもわからない。
全てはそう──まだ見ぬ《神》のみぞ知る、といったところか。
◆飛行船ルフトヴァール 内部入口付近◆
飛行船の内部は、落ち着いたシックな雰囲気に包まれていた。
茶色───というと品がないように聞こえるが、概ねその色を基調として広い通路の両脇にソファ、窓、明かり、その他の飾り物が並べられている。
俺たちは自身の手元の航空券を見ながら、自分たちの席へと通路を進んでいた。
「うおお、慣れない……!」
「なんというか、その、優雅な雰囲気ですね……!」
「……貴方たち、もう少し堂々としたらどう?」
気後れする俺とエルシェには横目に、レイナはスタスタと先を進んでいく。
その歩みには一切の迷いや気後れといった類のものは感じられなかった。
「なんか慣れてるな。もしかして、わりと頻繁に乗ってるのか?」
「……」
俺の問いに、無言で首肯するレイナ。
まぁ、彼女はベスタを探し回って各地を転々としているようだし、だとすればこういった交通手段の利用にも慣れているのだろう。
「それにしても、船の大きさに対してなんか人が少なくないか? さっきから全然人とすれ違わないぞ」
ルフトヴァールが一体何人を乗せて飛べるのかは知らないが、これほど大きな船だ。
当然中は人で溢れているものだとばかり思っていたが……なぜか先程から、ほとんど乗客の姿を見かけない。少しばかり不自然というか、気になった。
「言われてみればそうですね。普通、これだけ大きな飛行船にはもっとたくさんの人が乗っているはずですが……もう昼過ぎなのと、今日はセルビオーテ行きの便が多いからその分乗客が分散されているのでしょうか」
「ちょっと待て」
「え? なんですか」
今、さらっとすごい事を聞いた気がする。
「もしかしてこういう飛行船って、他にも結構あるのか?」
「……? はい、そうですよ。さすがにルフトヴァールは中でも最大級の大きさですが、たしか現在連邦では四、五隻くらいが運行しているはずです」
「ルフトヴァールってこれ一隻だけに付けられた名前じゃないのか⁉」
「私達の今乗ってるこれは……たしかルフトヴァールの三番船だったような?」
エルシェはそう言うと再び懐から航空券を取り出し、そこに書かれている文字を目で追っていく。
「ああ、やっぱり三番船ですね。ほら、ここに書いてありますよ」
「この大きさの飛行船が、あと何隻もあるのか……」
恐るべし、スフィリア。
「もちろん全ての国がそうというわけではありませんが、スフィリアの連邦間では人やモノの行き来が盛んですからね。こうした物流を助けるためにも、あちこちで飛行船は重宝されているのです」
「ふむ、勉強になるな」
指を立て自慢気に語るエルシェだったが、俺は素直に関心した。
スフィリアで目覚めて以降、この世界に関する知識のほとんどはエルシェから学び教わっている。もし彼女がいなかったらと考えると恐ろしい。やはりエルシェは、俺の恩人なのだ。
そんな彼女がなぜレーヴェを飛び出してまで俺とレイナに同行しているのか、その理由はよくわからないが……。
どこかにいる《
「あ、そろそろ離陸の時間ですね。早く席に向かいましょう」
「ああ、そうだな……ってレイナの奴、俺たちのこと置いてめちゃくちゃ先に進んでるな!?」
「ちょっ、レイナー! 置いてけぼりにしないでくださーい!」
───こうして一緒にいれば、いずれ彼女への恩を返すチャンスもあるかもしれない。
せめてその時までは、こんな毎日を楽しむのもいいだろう。
そんなことを思いつつ、俺はエルシェとともにすっかり遠ざかったレイナの背中を追いかけるのだった。
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