第29話 『甘くブラックな初体験』

「───うわぁ!?」


 いきなりガッと真横から腕を掴まれ、俺は何事かとつい大きな声をあげる。

 腕は隣から伸びていた。それが右隣、さらに黒いコートとくれば、俺を止めたのが誰であるのかは考えるまでもない。


「入れすぎよ。それとも、貴方の注文したのはミルクティーだったの? だったら止めたのは間違いだったけれど」



「できれば直接止めに来るよりも先にそっちを言って欲しかったんだが……」

 止めてくれたこと自体はありがたいが、突然手を出すのはやめてほしい。危うく俺はあとちょっとで人生初(記憶を失ってからという意味での)お茶をこぼしてしまう所だった。


「……あまり心臓に悪いことをしないでもらえるかしら」


 こめかみに手を当てたレイナはいつものように、洗練されたスマートな動作でティーカップを傾ける。そういえばこの人、いっつも紅茶飲んでたな。ん? 心臓に悪い?


「とりあえずソレ、飲んでみたら? かなり甘くなっていると思うけど」


 レイナはかたん、と甲高い小さな音を立ててカップをテーブルに置くと、俺を相変わらずの無表情で見やる。白く、細く、しなやかな指は俺の手元のカップを指していた。

 俺はレイナに促されるがままにカップを手に取りちびりと一口、口へと運ぶ。


「どうですか? 美味しいですか?」


 真っ先にエルシェが味の感想を聞いてくる。


「……ん、これは……旨いな」


 おそらくミルクを入れすぎてしまったのだろう。想像していたのとは少しだけ違った味だったが、これはこれで全然アリだった。なるほどな、これが紅茶か。


「ふん、当然でしょう」


 レイナは隣で頬杖を突き、なぜか鼻を鳴らす。


「お前の飲んでるそれはストレートって言ったっけか。それも良い香りがするな」


「ええ、そうよ。砂糖もミルクも入れていないから……って」


 そこまで言ってふと彼女は何かに気づいたらしく、すすすっと俺から自分のカップを遠ざける。そして怪訝そうな表情で、一言。


「……あげないわよ?」


「いや、だから別にいらねぇよ!?」


 コイツが必死に俺から紅茶を守ろうとするのはなぜなのか。彼女から見て、俺は紅茶を狙う狼かなにかのように見えているのだろうか。真実はレイナさんのみぞ知るところである。

 レイナは(カップはしっかり遠ざけたまま)やがて俺から視線を外すと、俺を飛び越えて今度はエルシェの方をじーっと見つめだした。


 ん? 何やら気になることでもあるのか?


「……そういえば騎士さん、さっきから自分のコーヒーに全く口を付けていないけれど、いいの? 冷めてしまうわよ」


「ぎくっ」


 いきなり話しかけられたエルシェは、驚いた様子でレイナの指摘にびくっと両肩を震わせる。そういえばエルシェは、さっきから少し静かだったような気がする。


「そ、そうですね、たしかにレイナの言う通りです。早く飲まないと冷めちゃいますよね。せっかくのコーヒーを無駄にするわけには騎士としていけません。では、そうですね。飲みますね」


「「……」」


「……」


 だが、一向にエルシェはカップを手に取ろうとしない。何か汗を流しながら、コーヒーの水面に映る自分としかめっ面のにらめっこを続けている。


「騎士さん、もしかしてブラックは飲めないの? ならここに砂糖とミルクが……」


「い、いえっ! そ、それは必要ありません! 私は誇り高く正義を執行するレーヴェの騎士ですから、ブラックコーヒーぐらい飲めます! 良いですか、見ててください!!」


 見かねた様子のレイナがついに容器を差し出したが、エルシェはそれを拒否すると、ぐいっと勢いよくカップを傾け、ぐびぐび喉を鳴らした。


「おお、結構行ったな!? 大丈夫か!?」


「……もうそれはコーヒーの飲み方ではないような気がするのだけど、私の気にし過ぎかしら?」


「んっんっ、ごくっ……うう、やっぱり苦い……いえ、何も言ってません。全然いけましたよ、へっちゃらです。なぜなら、そう私は───」


 一気にコーヒーの半分を飲み終えたエルシェはしばし顔をしかめていたが、すぐに首を振ると俺とレイナの方に向き直る。それから身につけている大きなマントをばさりとはためかせ───。


「騎士ですからね!」


 と、胸を張った。ちゅどーんと背後で爆発でも起きていそうな雰囲気である。


「なら、残りの半分のコーヒーも飲みきらないといけないわね」


「うぐっ」


 一切情け容赦のない指摘にエルシェがたじろぐ。


「……エルシェ、なんかこういうのやっぱり前にもあったような気がするんだが」


「な、なんのことを言っているのかさっぱりですね少年! き、気のせいじゃないですか!? それか、偶然記憶が戻ったのかもしれませんよ!?」


「いや、レーヴェの郊外の酒場で……」


 俺が言い切るよりも早く、エルシェはカップを傾けると再びぐびぐびコーヒーを飲み切りぷはぁ、とどこか達成感に満ちたやりきった表情で笑みを浮かべつつ言った。


「ごちそうさまでしたっ!!」


 ……こいつ、話を逸らすために無理やり飲み切って会話を締めたな。


 ★


 それから少し時間が経った。エルシェに続き俺とレイナも自分のお茶を飲みきり、俺は満足感に打ちひしがれながら、カップにわずかに残る紅茶の残り香を楽しんでいた。


「ふぅ、結構良かったな。もし機会があればまた来たいかも」


「お断りするわ、貴方と二人では無理よ」


「そんなこと一言も言ってねぇよ!?」


「言ってたじゃない、目で」


「んな理不尽な……」


「はいはい二人とも、ケンカしないでください───さて、と。そろそろ時間ですね」


「ケ、ケンカ……?」


 ふと聞こえてきたエルシェの声にそちらの方を向くと、早くも俺とレイナの扱いに慣れ始めているのか、彼女は俺たちを他所に手元の小さな時計を眺めていた。


 それからエルシェは大きなマントを椅子に引っかからせ、えっちらおっちらやや苦戦しながら立ち上がると手早く会計を済ませる。……やっぱりそのマント、邪魔なんじゃないか?


「行きましょうか、少年、レイナ。今から歩き出せば、空港へ着く頃にはちょうどいい時間帯になっているはずです」


 そして彼女はさっさと店の外へと出ていき、いつの間にかレイナも気づけばその後に続いていた。


「え? もう行くのか? ちょ、ちょっと待っ───」


 俺は喫茶店に一人取り残されてしまったことに今さら気づき、あわてて立ち上がって彼女らの後を追う。


 そうして店先に出たところで───。


「あうっ!?」


 突然ドン、という衝撃が胸に伝わり、それから遅れて少女の声が聞こえてきた。どうやら急いで飛び出してきたせいで、誰かとぶつかってしまったらしい。


「す、すいません!! 大丈夫で……」


 前方不注意を後悔し、俺は咄嗟に謝る。するとそこには、真っ赤な髪をした少女が───顔を真っ赤にして、こちらを見ていた。


「えっ?」


「あ、あわわわわわわわわわわ……」


 首辺りまでに切り揃えられた、やや毛量の多い赤い髪の少女。身長はだいたいエルシェと同じで、俺とレイナよりも頭一つ分低いくらいだろうか?


 特徴的なのはその前髪で、長く伸びきった様子の前髪は右に寄せられており、右目の部分の半分近くを覆っている。

 だが、もっとも目を引くのはその前髪ではない。その前髪の奥に見える───黒い眼帯だ。


 彼女は右目の半分近くを前髪で覆い、さらにその下に黒い眼帯を着用していた。

 そのためこちらからは顔の半分程度しか見えずとも、それでも彼女の大きな瞳と健康的な肌色からは、彼女の可愛らしい顔立ちがうかがえる。


 眼帯を付けておらず、また前髪で隠れてもいない左目はといえば、透き通った綺麗な琥珀色。だがそんな琥珀色の左目を涙ににじませ、少女は今にも泣きそうな表情で口をパクパクさせていた。


「……? えーと、大丈夫ですか……?」


「……ご」


「……ご?」


 震える彼女の口から今にも消え入りそうな声で紡がれた一文字を、俺は慎重に聞き返す。


「ごっ、ごごごごごごめんなさいいいいいいいい!!」


「えええええええええええっっっ!?」


 彼女は叫んだ。そして、逃げた。

 頬を真っ赤に染め上げた少女は俺からふっと顔を背け方向転換すると、そのままの勢いでダッシュし人混みの中へと突っ込んでいく。


 危ない、と思ったのもつかの間、俊敏な身のこなしで人を華麗に避けながらするりと群衆の中へと消えていき、やがてその姿は全くもって見えなくなった。


「な、なんだったんだ、今の子……」


 結局彼女については何もわからず会話を交わすこともできないまま、俺はただ呆然と眼帯の少女が消えた方向を見つめていた。


 だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。

 俺は依然として降り注ぐ強烈かつ凶悪なベイルーニャの日差しに目を細めつつ、二人を追いかけてさらに都市の中央へと歩を向けた。


 ちなみに、エルシェ……とついでにレイナは、そこから少し先に行ったところで俺を待っててくれていた。

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