第二章前編 《飛行船》ルフトヴァール編
第26話 『第11自治区:ベイルーニャからこんにちは』
『───ごめんなさい』
暗闇の中、そう声が聞こえてきた。どこか懐かしく、安心する少女の声が。
『───ごめんなさい』
しきりに謝罪する声は、まるで許しを求めているようだった。
だが、俺は何も応えることができない。声が出ないのだ。声だけではない。視界一面を覆い尽くすように広がった黒一色の暗闇の中、視認できるものは闇の他には何もない。
自分の身体が存在しているのかすら曖昧で、有耶無耶な世界にまたもや声が響く。
『また……私のせいで、あなた達を……あなた達にばかり、押し付けてしまって……』
言っている内容も、そして声の主も、俺にはわからない。
『けれどもう、時間はない。彼女の……は摩耗し、徐々に力を失いつつある。大いなる惨禍は目覚めの刻を待ち、闇の底で蠢いている』
『泣いても笑っても、きっとこれが最後。だから────アオイ』
次の瞬間、俺の目の前にぱっと溢れんばかりの光が広がった。
黒のみで構成されていた世界が瞬く間に塗りつぶされ、眩しいくらいの白が加速して迫ってくる。
『私は、信じているから』
『あなたが、あなた達が───今度こそ、私達を殺してくれることを』
◆
「……ん」
再び、誰かの声が聞こえてきた。だが先程の声とは異なり、こちらはよくよく聞き覚えのある声だ。
誰だったかな。名前は、たしか……。
「……ねん」
身体をゆっさゆっさと揺すぶられ、意識がだんだんと鮮明になる。思考がクリアになっていくにつれ、目の前で俺を揺さぶっている人物の輪郭もだんだんとはっきりしていく。
「……少年!!」
「……エルシェ、か」
寝ぼけ眼のまま、俺はぼんやりと目の前の少女を見上げる。
「他に誰がいるんですか。まったく、なかなか起きないから心配しましたよ」
そう彼女───エルシェは両腕を組み、呆れたようにため息をついた。
頭の後ろで二つに縛り腰の当たりまで伸ばした、若干黒みがかった青色の髪を風になびかせ、青い瞳でこちらを見やるエルシェのその姿はレーヴェで出会った数日前と何一つ変わっていない。
相変わらず、明らかに丈の合っていない大きなマントを自慢気にまとっている点までそっくりそのままだった。
「や、悪い。ちょっと夢を見てて」
俺がそういうと、瞳をまあるくしたエルシェは不思議そうに小首をかしげた。
「夢? どんな夢ですか?」
「……それが、俺にもよくわかんなかったんだよなぁ……」
何だったんだ、さっきの。全く意味がわからなかったぞ。
まぁ、夢に意味なんてないのかもしれないけれど……それでもあの、シロとはどこか異なる、それでいて懐かしく感じる誰かの声はなぜかやたらと引っかかる。
だが、答えのないことを延々と考えていても仕方がない。
俺はさっさと今見た夢のことを脳の隅っこに押しやり、頭をリセットする。
それから清々しい思いで何気なく頭を上げると、
「うお、眩しっ!?」
カッと差し込んできた強烈な日差しに思わず目を細めた。
「め、めっちゃ日差し強いなここ……!? レーヴェとは全然違う……!」
「いや今気づいたんですか、少年」
俺たちの頭の上に果てしなく広がるのは、まるで雲一つ見えない広大な青空。
澄み切った空の美しさではレーヴェでも引けを取らないが、こと日差しの強さに限っては段違いである。
「ベイルーニャはそれほどレーヴェから離れていませんが、なにせ大陸の南端ですからね。砂漠気候である第10区加盟国のラヴァケルクと隣接していることもあって、今の時期は相当に暑いですよ。だから水分補給を怠らないように。ほら、水です」
「ありがとう……」
エルシェから差し出された水筒をありがたく受け取ると、蓋を外してごくごく喉を潤す。
この気温なので当然ながら中の水はとっくにぬるくなってしまっていたが、それでも乾いたこの身体にはよく染みる。
そのまま一気に水筒の中身の半分近くを飲み干した頃には、意識も思考もだいぶ落ち着いてまとまってきていた。俺は周りの景色を改めて見回し、それから自分が今腰掛けているベンチを見やる。
もっと過酷な船旅を覚悟していた俺としては正直拍子抜けといっていいほど、意外とあっさり港に辿り着くことができてしまったのだが───俺が何も知らないだけで、案外連邦間での移動は簡単にできるモノなのかもしれない。
ちなみに今俺がベンチで休んでいるここは船から降りてすぐの所にあった、ちょっとした公園のような場所である。これといってモニュメントや噴水は設置されていないものの、開けた空間で海を前に三つほどのベンチが等間隔でコの字に置いてあり、どこか小洒落た雰囲気を醸し出していた。
「ぷはぁ……やっぱりさ、水って偉大だよな」
「また唐突に何を言い出すんですか、お前は」
あまりの水の美味しさについ口を突いて言葉が出てしまったが、エルシェは案の定腕を組んだまま俺をじとっとした目で見ていた。
そんな彼女曰く───ここベイルーニャは連邦においてレーヴェに最も近い自治区らしく、人や貨物の往来も盛んとのことだ。歴史的にも何やら関わりが深いようで、両自治区の間では友好条約なんかも結ばれているらしい。
だが、しかし。
「にしてもレーヴェとたいぶ近いはずなのにこの暑さは……一体どうなってんだ……」
額に流れる汗をハンカチで拭きつつ、そんなことをぼやく。
エルシェのくれた水のおかげでだいぶクールダウンできたが、それにしたってこの暑さは異常という他なかった。
昼前だという現在の時間帯も関係しているのだろうが、ベイルーニャでは燦々と照らす太陽の光が一切の容赦なく降り注いでいるような、そんな印象を受けるのだ。
レーヴェの優しい日差しとはまるでレベルの違う日差し。これだけ暑いと、真夏日はさぞ大変なことだろう……などと、まだ会ったこともないベイルーニャの人々に内心同情していると(余計なお世話だ)、ふと思った。
「エルシェ、お前その格好───ていうかそのマント、暑くないのか?」
この炎天下で、あの明らかに大き過ぎる特徴的なマント。誰がどう見てもミスマッチな選択であり、この気候に合っていない。あのマントの通気性云々は知らないが、見てるこっちまで暑くなってきそうだ。
だが───。
「───ふっ、ふっふっふっ。冗談でしょう。少年、私を一体誰だと思っているんですか」
「……足が速くて、面倒見のいい自称騎士?」
「自称ってなんですか!? ……ごほん。暑くなんてありませんよ。なぜならそう、私は何を隠そうこのレーヴェ……じゃなかった。このベイルーニャ、そして連邦、いえ大陸全土の平和と安寧を守る誇り高き───」
一呼吸置き、彼女は人差し指をビシ!と掲げる。
「───そう、騎士ですからねっ!!」
「……」
「……」
エルシェは人差し指を天高く掲げたまま、そのままのポーズで停止する。
その間にも燦々と降り注ぐ日差しが逆光でシルエットと化したエルシェを容赦なく照らしていた。
しばし、俺たちの間に謎の沈黙が生まれる。
「……」
「……」
「……あつい……」
「今、暑いって言ってなかったか?」
「言ってないです」
即答だった。いや絶対言ってただろ今。暑さで耳がおかしくなったわけでもあるまいに、さすがに無理があるぞ。
「いや、今暑いって」
「言ってないです」
「でも」
「言ってないです!!」
「……はい」
わかった、俺の負けだ。まぁわかっていたといえばわかっていたことだが、どうやら彼女はあのマントに並々ならぬ想いを抱いており、たとえ暑かろうと脱ぐ気はさらさらないらしい。
そんなエルシェの圧に敗北し、おずおずと引き下がる。それからもう一口水を飲み、何気なくベイルーニャの風景を眺めていると───。
「───あれ、そういえばレイナは?」
レーヴェで部屋を共有していた元同居人の姿が先ほどから見えていないことに、今更ながら気づいた。
「えっ? レイナならずっと私の隣に……あれっ!? ……い、いなくなってる!?」
エルシェは不思議そうに誰もいない隣を指差し、そのことに遅れて気づき声を裏返す。
「た、大変です少年! レイナがいません! 少年を起こしたら、そろそろここから移動しようと思っていたのに……!!」
「おいおい、マジかよ……」
いそいで立ち上がり、エルシェとともに周囲を見回す。
どうやらレイナは、先程までエルシェの隣にいたものの忽然と姿を消してしまったらしい。
いきなり消えるあたり彼女らしいといえば彼女らしい気もするが(もっとも、まだ数日間の付き合いしかないが)、これは由々しき事態である。
……え、逃げてないよね? コレ。
隣ではエルシェがレイナの名前を呼んで探しているが、果たして見つかるのだろうか。否、出てきてくれるのだろうか。
焦燥感に駆られ俺もだんだんと不安になり、呼びかけに参加しはじめた頃、
「……そんなに大きな声を出さなくても、私はここにいるわよ?」
「「わぁーーーーーっ!?」」
突然背後から現れた黒髪の少女によって、真っ昼間からベイルーニャの空に二人分の情けない悲鳴が響くこととなったのだった。
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