第25話(第1章最終話) 『旅立ちの朝、運河の上にて。』

 ◆レーヴェ 大運河上のゴンドラ◆


 ざぶん、ざぶん。

───と、小舟のオールが水を搔き分ける音だけがその場に響く。


 レーヴェの中央、というよりも実質島の面積のほとんどを占めているらしい水上都市には、街のシンボルでもある噴水広場を中心として大小様々な大きさの運河や水路がまるで張り巡らされるような形で通っている。


 都市の至る場所にある小さな橋やアーチ状の石橋、あるいは建物と建物の間を縫うようにして流れている運河。


 これらが示す通り、あらゆる場所が運河によって繋がれている───といっても過言ではないほどにこの都市は運河だらけであり、その光景にはまるで街そのものが洋上に浮かんでいるかのような錯覚を覚えるのだ。


 ぱしゃぱしゃと音を立てて運河に流れているのは青色に透き通った綺麗な水。だが、覗き込んで目を凝らしてみてもそこを泳ぐ魚の姿は見えない。


 しかしだからといってゴミや藻などが流れているわけでもなく、ともすればそのまま手ですくって飲めてしまいそうなほどに水質は良く見える。


 夜明け、まだ人通りもまばらな早朝。

 ふと空を仰げば遠くの方に浮かんだ月が静かに沈みかけており、深い青紫色に白みがかった雲が少しずつ溶け込むように浮かぶ様はどこか幻想的だった。


 薄暗いながらも太陽の光に照らされた水上都市の光景は変わらず壮観で、石造りの街並みは純白に統一されていることもあってかため息の出るような芸術的な美しさを醸し出している。


 そして、そんな水上都市に流れている運河のうちの一つ。

 おそらくはメイン運河のうちの一つなのであろう、大通りに面した一際大きな運河───俺はそこを進むゴンドラの上で揺られながら、しばらくは見納めとなるであろうレーヴェの街並みをぼんやりと眺めていた。


「……」


 前を向く。


 船先でオールを漕いでいる船頭の背中を避けるようにして頭を横に逸らすと、進行方向上、運河の上に一直線に並べられた街灯が視界に入った。


 等間隔に設置されたそれらの光源が放つうっすらとした光が水面に反射し、まるで星屑のように煌めいている。


「綺麗だな」


 そう呟き、右隣に座る黒髪の少女に話しかける。


「……」


 だが、彼女はこちらを向くこともなく澄ました表情で前を向いていた。


 ……まぁ、わかってたけどな。


 改めて彼女───レイナの方に視線を移す。朝日に照らされた麗々しいその横顔からは、彼女の整った目鼻立ちがより一層際立っていた。

 首よりも少し短い程度に切り揃えられた艶やかな黒髪が、風にそよぐたびにちらりと白い肌が覗く。


 その姿に一瞬ドキッと胸が高鳴るも、やがて彼女が俺を怪訝そうな表情で見つめていることに気づいた。顔の向きは変えないまま、じとっとした視線だけをこちらのほうにくれている。


「……何よ?」


「なんでもない」


「変な人ね」


「それはお互いさまだ」


 顎を手に乗せた姿勢のままふんっと不満そうに鼻を鳴らし、視線を前に戻すレイナ。そんな彼女に対し肩をすくめる俺に、今度は左隣から───。


「───ふっふっふ、そうでしょう、そうでしょうとも」


 と、声がかかった。


「レーヴェの街並みの美しさは、例え朝日が満足に差し込んでいなくとも全くかすむことはありません。かつて遠い昔、旅の途中にレーヴェを訪れた共和国キュラス出身のある有名な芸術家はこの地を『水の都』と称し、名画を描きました。以降、スフィリアが建国されてからも連邦各地からは著名な作家や芸術家たちがこの街並みを求めて島を訪れるんです」


「へぇ、そうなのか。じゃあ尚更、この風景を堪能しておかないとな」


「ええ、じっくりと目に焼き付けておいてください。騎士の掟第20条『美しいものは記憶に残すべし』、です」


「はは、そうさせてもらうよ。んで、エルシェ……」


「ん、なんですか?」


「……なんでお前は、ここにいるんだっけ?」


「何を言ってるんですか、少年」


 俺の問いかけにエルシェは、『はー?』とでも言いたげな不満げマシマシの表情で首を傾け、俺を見る。そして大きく反らした胸にぽんと拳を当てると、びしっと俺を指さしてこう答えたのだった。


「───それはもちろん、この私に! 《騎士団クラン》の誇り高き騎士としての任務が課せられたからに決まっているでしょう!」


 ◆《騎士団クラン》本部 副団長室◆


「そういうことで、今まで本当にお世話になりました」


 夜明けよりもさらに遡った時刻。《騎士団クラン》本部を出る直前、俺とレイナ、そしてエルシェはロアさんに最後の挨拶をするために副団長室を訪れていた。


 副団長室に足を踏み入れるのはこれが初めてだったが、まず最初に抱いた部屋の印象を一言で表すのならそう、そこは色々と特異な部屋だった。


 床にはなにかの分厚い本や書類の束が散乱しており、部屋全体がごちゃごちゃとした物で溢れかえっている。


 机の上にしても床同様の光景が広がっており、お世辞にもよく整理整頓がなされているとは言い難い様だ。


 加えてよくよく見てみれば部屋の天井の隅には蜘蛛の巣らしきものもかかっており、閉め切られたカーテン(もっとも、時間帯的には閉め切られていて当然なのだが普段から開いたり閉じたりしているような気配がなかった)と相まって非常に暗い印象を受ける。


 そしてそんな副団長室の執務机の向こうには、目の下に大きなクマを作った女性が一人。


 何を隠そう《騎士団クラン》の副団長を勤める薄い緑髪の女性、ロア・リッツァルテその人である。


「そうか……別に遠慮しないで、もっとここにいてくれてもいいんだぞ?」


 辺りに散乱する書類や乾燥した部屋の空気のことを気にしてか、いつものように葉巻は咥えていなかった。

 代わりに大きな眼鏡をかけ、手元の書類にペンをさらさら走らせながら俺たちのほうを見やる。


「ありがとうございます。けれど、私にも他の国でやるべきことがあるので」


 そう返したのはレイナだった。ロアさんは俺とレイナを交互に見つめると、ふっと口角を上げかすかな笑みを浮かべる。


「ほう……何があったのかは知らないが、君たちは行動を共にすることにしたのか。面白いな。まぁ頑張ってくれ。身体には気をつけろよ。特に過労と寝不足には、な……ふ、ふふふふ……」


「き……肝に銘じておきます……」


 突然どこか明後日の方向に目線をやり、どこか自虐的な笑みを浮かべて笑い始めたロアさんに敬意と同情の念を抱きつつ俺はそう答える。この人、やっぱり色々苦労してるよな……いつの日か幸せになってほしい。


 ロアさんはしばしそうやってくつくつと笑っていたが、やがて「ああ、失礼」と咳払いすると俺たちをにやにやと見つめていた。な、何がおかしいんだ……。


 だが───。


 不意に彼女はちら、とエルシェのほうに目線をやる。


 おそらくは先ほどから一切喋らない彼女を不思議に思ったのだろう。というのも、今朝俺とレイナが目覚めてからずっとエルシェはこう……どこか元気がなかった。


 普段は騒がしいくらいに元気で明るい彼女だが、俺たちの横にいる今は不思議なくらいに彼女は静かだ。朝(というか深夜)だからテンションが低いのだろうか、しかしいつもならこのくらいの時間帯でも気にせずぶんぶんマントを振り回している気がする。


 もしかしたら体調が悪いのかもしれない。……だとすると体調が悪いにも関わらず、旅立つ俺たちに心配をかけまいと気を使ってくれているのか?


 ロアさんは目を細め、じっとエルシェを見る。


「……」


 数秒間、部屋が静寂に包まれる。その静寂を突如として破ったのはロアさんだった。


「エルシェ」


「はっ、はひっ⁉」


 いきなり自分の方に話を振られて驚いたようで、エルシェはびくんと肩を震わせ裏返った声で答えた。


「そういえば、この間の収穫でうちの農園も一段落ついたな」


「……え?」


「良いことだ。これでようやく少しは暇ができる……私の睡眠時間も伸びるわけだ。久々にベッドでゆっくり寝られるな。素晴らしいな」


「は、はい……たしかにそうですが……えっと?」


 ロアさんが言いたいことがいまいち掴めないといった風に、エルシェは困惑しながらそう返す。


「だが、時間というのは有限、限りある貴重なものだ。そう思うだろう?」


「?」


 エルシェの目はすっかり点になっている。そして、その反応は全く俺も同じものだった。隣のレイナは知らないが、彼女もまたロアさんの突然切り出した着地点のわからない話に眉をひそめていることだろう。


「無駄にすることがないように有効活用しなければならない。そこでだエルシェ───」


 ロアさんは一旦言葉を区切ると、持っていたペンの先でエルシェを差した。


「《騎士団クラン》の副団長として、お前に任務だ」


「……えっ、ええっ⁉」


「スフィリアのどこかしらにいる団長殿を探してこい」


「だ、団長を……ですか⁉ い、いきなりどうしてそんな……」


「これからしばらくの間畑仕事は休めるとはいえ、依然として《騎士団クラン》は深刻な人手不足なんだ。それもこれも、全てはあの人がどっかをほっつき歩いて私に仕事を押し付けているせい……ちいっ、考えたら腹が立ってきた……!」


 ロアさんは拳をぐぐぐと握りしめると、恨めしそうにどこか遠くの方向を見つめる。


 ……ロアさんがいつも目の下にクマを作っている理由がわかった。


 それにしても、この《騎士団クラン》の団長とはいったいどのような人物なのだろうか。俺は少しだけ興味をそそられた。いつか会ってみたい。


「だから連れ戻したいが、見ての通り私は忙しい。だからお前があの人を探して、本部レーヴェまで連れ戻してこい。いいか?」


「そ、そうは言っても、団長が今どこにいるかなんてわからないですよ!?」


「そうだ。だから手当たり次第に探して追いかけろ。あの人が見つかるまでここには帰ってくるなよ。あぁ、それともう一つ。見つけた暁には一発顔面ぶん殴ってやってもいいぞ。私が許可する」


「それは副団長の私怨ですよね!?」


「ふっ、そう受け取ってもらっても構わない。……だが、とにかくあの人を探してここに連れてきてもらう、それが任務だ。わかったな。それにエルシェ───」


 未だに唖然としているエルシェに対し、ロアさんはやや口角をあげ、口元に笑みを浮かべる。


「お前もどうやら、この島の外でちょっとした息抜きがしたいようだからな」


 ロアさんの言葉を受けたエルシェは、その場でしばらく固まっていた。きっとその言葉の真意を掴みかねていたのだろう。だが少しして、何かに気づいたかのようにハッと顔を上げると、


「……はいっ!!」


 そうエルシェは、満面の笑みを浮かべて頷いたのだった。


 ☆


「そういうわけですから、私も団長を見つけるまでは旅に出ることにしました。つまりは少年、お前とももう少しだけ一緒にいますよ。騎士の掟第30条『旅は道連れ、世は情け』です。それに、記章クレストを持っている私がいれば色々と楽になることもあると思いますよ」


「別に一人増えたところで構わないし、その部分は私としてはありがたいけれど……騎士さん、いいの? 貴女にも言っておくけれど、私は殺し屋。ベスタ専門の駆除業者よ。命を危険に晒すことにもなるかもしれないし、私は決して貴女の命に責任は取れない。今ならまだ引き返すのに間に合うわ」


「大丈夫です、レイナ。私はこれでも戦いにはそれなりに自信があります。ベスタと戦ったことはありませんが、自分の身くらいは自分で守れます!」


「そう。……随分変な子ね、貴女も」


 船上でVサインを掲げるエルシェに、諦めたように視線を前へと戻すレイナ。


「『旅は道連れ、世は情け』ってそれもなぜか聞いたことあるような気が……なぁエルシェ、そういや前から気になってたんだが」


「なんですか?」


「その騎士の掟ってやつ、本当にあるのか?」


「……なッ⁉」


 途端にエルシェの顔がぼっと赤くなり、ぶるぶる震え始める。


「な、何を言うんですか、少年! いいですか⁉ 騎士の掟というのはですね、レーヴェの治安と平和を守る誇り高き騎士である私が自らを律し正義に努めるための……!!」


「うお、いきなり暴れんなよ! ここ船の上だぞ!? 落ちたらどうすんだよ! 俺、泳げるかわからないんだからな!?」


「そんなの知りません!! 少年なんか落ちちゃえばいいんです!!」


「うわ、やめろ! わかった! 俺が悪かったから、落ち着け!」


「私は冷静です! むしろ少年のほうこそ、一回水に落ちて頭を冷やしてください!!」


「まったく冷静じゃないじゃねぇか!!」


「……はぁ」


 ぎゃーぎゃーと一気に騒がしくなるゴンドラの上で、そんな俺とエルシェの応酬を横目にレイナがため息をつく。


 まぁ、何はともあれ───半神と騎士と、殺し屋と。


 こうして滅多に見ないであろう奇妙な組み合わせでの旅は幕を開けた。


 目指すは次の国、第11自治区ベイルーニャに《飛行船》、そしてその先にある旧列強の一国にして第4区加盟国、セルビオーテ。


 一体、この先俺が見る景色の果てに何が待ち受けているのか。そして、俺は本当に三年以内に《神》を見つけだし、いつか失われた記憶を取り戻すことができるのだろうか。それはまだわからない。


 シロの提示したタイムリミットまでは、残り2年と12ヶ月。


 宛もなければ目処もない、当然うまくやれる自信なんてどこにもない、そんな見切り発車もいい旅だ。


 だけど───不思議とこの胸は、高鳴っていた。


 ゴンドラの上、ほんのりと漂う潮の香りが鼻をくすぐり、朝の澄んだ涼しげな風が頬を撫でる。


 橋を通り過ぎたところで差し込んだ眩しい朝日に、俺は目を細めた。

 これは、どうやら長い道のりになりそうだな───と。そんな思いを、人ならざる半神の胸に抱きながら。

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