第21話 『餅は餅屋に、殺しは殺し屋に。』
「さぁ、来ますよ───少年!」
「シャアアアアアアアアア───ッ!!」
真っ赤な舌に暗い深淵の広がる巨大な口を開き、ベスタは空に向かって吠える。
その雄叫びは敵対する者の、即ち得物の生物的本能に働きかけ、半ば強制的に恐怖を引き起こす。直感で感じ取る邪悪極まりない獣の存在感が背中から這うようにして首筋に走り、俺はぞわっと身震いする。
「クソッ……なんで『神格』が引き出せないんだよ……!」
「少年、まだ戦えますか!? 先ほど見せてくれた、あれだけの動きができれば例えベスタが相手でも、あるいは……!」
「すまん……ちょっとキツそうだ……」
「ええっ!? ちょっ、それどういう事ですか!? もしかして先ほどの戦いでどこか怪我でも……」
「いや、それは大丈夫なんだけどさ……」
エルシェが頼って、そして心配してくれるのは俺にとってありがたくて嬉しかった。
だが悲しいことに、今の俺では戦闘の役には立ちそうにもない。
ひとまず怪我の心配はしなくていいことを伝え、周囲に何か使えそうなものはないかと見回して───これでも無いよりかはマシ、か。
近くに転がっていた手頃な大きさの剣を拾い上げ、構える。
出どころを推測するに先ほどの男たちの一人が持っていた武器だ。
こんなものでベスタを倒せるとは思えないが、せめてひるませることぐらいまで出来ればエルシェを逃がす時間稼ぎは可能だ。
ふと、エルシェも木剣ではなく男たちの得物を拝借して真剣に持ち替えたほうがいいのではないかとも思ったが、どうやらそのための時間はあまりないらしい。
「───」
小屋ほどのスケールはあろうかという大きさの黒蛇がずり、ずりとゆっくり、ゆっくりこちらに迫ってきていた。
その巨体において、唯一黒以外の色で彩られている部位の舌をチロチロ動かし、まるで死神のように俺とエルシェの命を奪わんと近づいてくる。あれはもはや死神なんかじゃない、死という概念そのものとすら言っていい。
一度戦った経験から得た知見だが、生物としての次元が並大抵の動物とは違う。
異常な生態、異常な生命力、異常な外見。それらどれを取ってもイレギュラーな未知の怪物なのだ。もちろん先程の並大抵の『動物』の中には人間も含まれている。
「ベスタと直接矛を交えた経験などありませんが……こうなってしまっては、やるしかありません。私が時間を稼ぐので、今すぐに憲兵局まで離脱してください」
エルシェは覚悟を決めたように、俺の前で木剣を構える。あんな怪物を前にしても、なお彼女は逃げるような素振りは一切見せなかった。
「やめろエルシェ! アレは強いぞ! お前の足ならまだ逃げ切れる!! 俺がアレの気を引くから、お前はその間に走って逃げろ!!」
「この私に少年を置いて逃げろ、と? レーヴェの誇り高き騎士である私に対して何を言っているんですか、少年は」
口ではそう言っているものの、エルシェの額には汗がにじみ出ていた。おそらく自分一人ではあのベスタに敵わないと直感しているのだろう。それでもせめて俺だけでも逃がそうと、戦おうとしているのだ。
剣の持ち手を握りしめる手に、自然と力が入る。
悔しかった。俺に、この局面を打開できる力があれば───せめて、『神格化』さえ使えれば。
俺は結局、何もできないのか。
目の前で自分を守ろうとしてくれる人を、自分を助けてくれた恩人さえ守ることはできないのか。中途半端で、何者でもなく───何者にもなれないまま、終わるのか。
ベスタはゆっくり、されど着実に近づいている。タイムリミット、つまり死は目前だ。
「さぁ走ってください、早く! もう時間はありません!」
……ダメだ、動けない。この手足が、脳の命令を阻み動こうとしない。いや違う。俺は───。
「少年ッ!!」
気づけば奴はすぐ近くにまで迫っていた。大きく口を開いたベスタが、毒を纏った牙をずらりと覗かせ俺たちに飛びかかる。得物を一息で仕留めんとする、捕食者の繰り出す一撃だ。
まともに喰らえば、死は不可避。
エルシェは咄嗟に木剣を横に構え、防御姿勢を取る。最期の瞬間に見えた光景は、マントを風にはためかせる騎士、青髪の少女エルシェの姿だった───が、その瞬間。
ヒュッ、と何かが空気を切る音が聞こえた。それが一体、なんなのか───考えるよりも先に、衝撃的な光景が目に飛び込んでくる。
突如としてベスタの背中から、オイルのように真っ黒い液体がまるで濁流のように吹き出したのだ。
「……え!?」
突然の出来事に俺は目を瞬かせる。見ればエルシェも同じようにまた、何が起こったのか理解できていない様子だった。
「───!!」
声にならない絶叫を振りまき、黒蛇が激しく身をよがらせて悶える。その度地面にドスンドスンと衝撃が走り、その度真っ黒い液体がびしゃびしゃと飛び出す。
あれは、まさか血なのか。
黒蛇の身体の表面にあった鱗のようなものが真っ黒い液体とともに辺り一面へと飛び散り、路地を汚していく。
いきなり背中から血が吹き出た───なんてことは起こるはずがないだろう。となるとベスタは今、何かによって背中を裂かれたのだ。
どういうことだ? 一体、何が───その時、俺は見た。
否、見てしまったのだ。背中から血を吹き出し、暴れ回るベスタの、上。
上空数メートル、月に重なるようにして、彼女はそこにいた。
「───残念ね。言ったはずだけど、もう忘れてしまったのかしら」
出会ったあの時と同じように、冷たい眼差しをして。
「次またベスタと遭遇した時は───私を呼びなさいと」
「レイ……ナ……?」
俺の同居人、ルームメイトであるはずの黒髪の少女、レイナがそこにはいた。
☆
あれだけ高いところにいたにも関わらず、レイナはすたりと軽い挙動で地面に着地してみせる。
相変わらず外では着用している様子の黒コートには、返り血はおろか、汚れ一つ付着していなかった。
右手には棒状の、だがその先が長く伸びたムチのようなものを持っている。その先を目で追っていくと、そこには真っ黒いベスタの血で汚れたあのダガーナイフが括り付けられていた。
ムチとダガーを組み合わせた、見たこともない特殊な形状の武器───あれが彼女の得物なのだろうか。
「……お前、なんでこんなところに」
「この場に私がいることで何か貴方に不都合でもあるの? 見たところ、かなり危ない様子だったみたいだけど」
彼女はこんな状況でも、相変わらずだった。いつも通りの悪態はどこか頼もしく、今は安心感すら感じる。
「レイナ……」
「やっぱり貴女もいたのね。怪我はない? 騎士さん」
目線の方向を見てみれば、エルシェがレイナに俺と同じく呆然とした表情を浮かべていた。
俺の目の前でこの二人が会話するのを見るのは初めてかもしれない。当たり前だが、彼女らの間には何かしらの関係があるようだった。
それにしてもレイナはエルシェのことを騎士さん、と呼んでいるのか。まさかレイナが他者のことをあだ名で呼ぶとは正直意外だ。そんなイメージはなかった。
俺は……とそこまで考えて、悲惨なことに一応部屋を共有しているにも関わらず、まだ俺は彼女にあだ名どころか名前ですら一度たりとも呼ばれたことはなかったことに気づく。気づかなくてもよかった。
「は、はい! 怪我はないです、けど……」
エルシェの返答を受けて、レイナはどこか安心したかのようにこくんと頷く。そして、
「───気を付けろ、レイナ!」
ハッとなって思わず叫ぶ。直立するレイナの背後、そこにはフラフラとまるで生気を失い壊れた貯水槽のように血を吹き出しながら、それでもまだ生きていたベスタが忌々しげに真っ赤な舌を伸ばしていた。
俺は今になって、後悔する。それを知っていて、なぜ先に伝えなかったのかと。
ベスタの防御力、そして生命力はそこいらに存在するただの動物とは一線を画す。
『神格化』をもってそれなりに屈強な成人男性を一撃で沈められるような、あれだけの威力がある拳や蹴りを何発も喰らってもなお裏路地で戦ったあのベスタは事切れることなかったのだ。
例えレイナに背中を深く裂かれ、そこから血を勢いよく放出しているとはいえ、すぐに死ぬとは思えない。それだけベスタとは、異常な存在なのだ。
奴はレイナのすぐ後ろにいた。
すぐに牙が届く、すぐに相手の命を奪える間合いだ。
ただでは死なない。せめてこの命が尽きる前に、この人間の華奢な首元に喰らいついて、脆く細いその身体をそのまま貪り食らってやる───そう言いたげにくぱぁ、と口を開き、無数に生え揃った牙で狙いを定め、目にも止まらぬ速度で噛みつき───にも関わらずレイナは、いつもの調子で呆れるようにため息をついていた。
「……そうね。《
「はぁ!? いきなり何を、今はそれどころじゃ……おい! 後ろ!!」
「私の名前は、レイナ。この
見間違いではないのかと、その時自分の目を疑った。
これは幻、あるいは俺の見ている夢なのではないかと、本気でそう思った。
いつの間にか横一文字で上下に分断され、重力に従って崩れるベスタの胴体。
───見えなかった。何一つ、彼女の動作を目で追うことはできなかった。
しかしそれでも彼女はしてみせたのだ。今のほんの一瞬で背後に迫っていたベスタを、斬り捨ててしまったのだ。
轟音とともに崩れ落ちる、大蛇の亡骸。
それを背景に黒髪の少女は───いつもと全く変わらない、ただ冷ややかな双眸に俺たちを映していた。
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