第15話 『あの子の名前』

「……君は」


 声をかける。するとその背中はびくんっ、と震え、バッと振り返ってこちらを見た。


 そこにいたのはやはり、同居人のあの少女だった。


 相変わらず深く被ったフードで覆い隠しているため顔ははっきりとは見えないが、あの真っ黒な厚手のコートは彼女でほぼ間違いない。


「えっと、一緒の部屋の……だよな? その、どうしてこんなところに」


 するとその人物は突然、すっくと勢いよく立ち上がった。


「うおっ」


 たじろぐ俺の隙を突くように正面を向くと、裏路地の奥へと駆け出す。


「あっ、ちょっ……!」


 これではまるであのベスタの時と同じ流れじゃないか───そう思いながらも、咄嗟に後を追いかける。


 相変わらず路上には捨てられた木箱やら木材やらのゴミが散乱しており、二回目と言えどもうまく進めない。思いっきり全速力で走ろうとしたら、つい足を滑らせて頭を打ってしまいそうだ。

 少女は軽々とした身のこなしで颯爽と路地を駆け抜けていく。場数が違うのだろうか、まるで追いつけそうにない。


 だけど、それでも───。


「ま、待ってくれ!」


 その先は危険だ。俺から逃げるのは構わないけれど、この間その最奥部にはベスタがいたんだ。だからそこは危ない───伝えたいことはたくさんあったが、うまく足が動かない。


「ぜぇ、はぁ……」


 ダメだ。数分間必死に走ったが、俺では彼女に追いつかない。

 俺は脇腹を押さえながら、ふらつく足取りで路地を進む。その奥、見える範囲内に彼女の姿はとうに見えていなかった。きっと巻かれてしまったのだろう。


 仕方ない、戻るか。


 あまりエルシェやロアさんに心配をかけたくないし、これ以上進むのはやめておこう。俺は一旦止まり、両手を膝につけてしばしぜーはーぜーはー荒ぶっていた息が落ち着くまで待つと、くるりと方向を変えて歩きだした。すると、


「……何の真似かしら?」


 スッと、後ろから首元に何かが突きつけられた。


 これは───ナイフか⁉


「っ……⁉」


「動かないで。無闇に動かれるようであれば、貴方の命の保証はできないから」


 だが俺の知っているそれとは素材が違うのだろうか、銀色に煌めく刃ではなく黒光りする金属のような刃。頭からつま先まで黒い少女によく似合うような、そんな刃だった。


 背後からするのは彼女の声だった。いつも通り冷たく静かで、それでいて不思議とよく通る声。


「もう一度聞くから、今度は答えなさい。少しでも不審な様子を見せたら容赦しないえわ。───ねぇ、何のつもり? 貴方は何の目的があって私を尾け回したの? どうして、ここにいるの?」


 明確な敵意と警戒心のこもった言葉に生存本能とも言うべき感覚が、胸の内からビリビリと伝わってくる。そしてそれらは皆一様に口を揃えて俺にこう伝えてくるのだ。返答を間違えれば、死ぬと。


 この状況、実際かなりピンチかもしれない。いや、紛うことなき絶対絶命のピンチに他ならなかった。


「ま、待ってくれ。俺はただ……」


「ただ?」


 少女は冷酷に、一切の容赦なく続きを促してくる。ガチャリ、という重い金属音とともに心なしか首元の刃が少しだけ動き、少女の握る手に力が入ったような───そんな気がした。背中から首にかけて、変な汗がだらだらと流れてくる。


 一瞬俺の中で、とある考えが浮かんだ───使うか? アレを。


 あの力なら、この状況をどうにかできるかもしれない。

 少なくとも『障壁』が展開できれば、彼女に首元をかっ切られる可能性からは脱却できる。だが、それだけだ。まさか彼女に反撃するわけにもいかない以上、なんの根本的解決にもならない。


 ここは冷静に、素直に話して開放してもらうしかないだろう。


「君に、伝えたいことがあったんだ」


「……」


「あの時、助けてくれたお礼をちゃんと言いたかった。橋の上で……落ちそうになってた俺を助けてくれてありがとうって、言いたかったんだ。その……何か誤解させたのなら、ごめん」


「……」


 少女からの返答はなく、首元の刃もまた動かない。ダメ、か……? 俺はぎゅっと目をつぶり、震えながらも次の言葉を待つ。せめて無言でやられるようなことがなければいいのだが───。


「それだけ?」


「あ、ああ……」


「……」


「……」


「……はぁ」


 ため息とほぼ同時にすっと、突きつけられていたダガーナイフが下がる。


 助かった、のか……?


 振り返ってみると、そこにはナイフを納める少女の姿があった。彼女はいつの間にかフードを脱いでおり、黒い髪に赤い瞳の素顔が露わになっている。


「今日は見逃しておいてあげる。けれど、次同じことをしたらその時は許さないから」


 彼女は俺を置いていくように、路地の奥へとスタスタ歩いていく。


「ちょっ、待ってくれ!」


「何? まだ何か聞きたいことがあるの? 随分お喋りに舌が回るのね」


「良ければ、その……一つだけ教えてほしいんだ。君の、名前を」


「私の名前?」


「ああ、そうだ」


「……ふっ」


 その時初めて、少女の表情にかすかな変化が生まれるのを俺は見た。


 彼女はほんの僅かに笑みを浮かべたのだ。だがそれは喜びから来るものでも蔑みから来るものでもなく、どこか自嘲的なようにも思えて───そしてどこか、悲しげな笑みだった。


「そうね。貴方はかなりの物好きなようだし、この際一つだけはっきりと教えてあげる。いえ、これは忠告かしら」


「……?」


「───貴方は、私に深く関わるべきではないわ。貴方だけじゃない。きっと誰にとっても、それが最善だから」


 それは一体、どういう意味だろうか。


 その言葉の意味を聞こうとするよりも前に、既に彼女はフードを目深に被り直し裏路地の奥へと歩き出していた。


「あっ……ごめん、あともう一つだけ言わせてくれ!」


 俺は大事なことを伝えそびれていたことを思い出し、なんとか止まってもらう。

 少女は振り返らないまま、耳だけをこちらに傾けているようだった。


「この先は危険かもしれないんだ。その、知ってると思うけど……ベスタっていう怪物が現れるかもしれない。だから、引き返して───」



「───ベスタ?」



 ぴくりと、彼女の身体が動いた。


「聞き間違いかしら。今、貴方はベスタと言ったの?」


「え」


 なにか変だ。様子がおかしい。こう、ベスタと聞いた瞬間彼女の雰囲気がまるで変わったかのような───元から剣呑な気配を纏っていた彼女だったが、それが明確な敵意───否、殺意に変化したような。


「答えて」


「うおっ⁉」


「貴方はここにいたベスタについて、なにか知っているの?」


 気づけば彼女は胸ぐらを掴み、フードを被ってはいるものの互いの息がかかりそうな距離で俺の瞳を覗き込んでいた。

 鮮やかな血に染まったように真っ赤な、けれど美しい瞳に困惑する俺の顔が映り込む。


 彼女の剣幕に押されながらもなんとか自分の体験したこと───サエルと呼ばれる黒蛇のようなベスタとこの裏路地の最奥部で遭遇し、命からがら逃げ出したことをかくかくしかじか説明した。


 さすがに交戦したこと、その結果として退けたことは隠したが、一部始終を聞き終えた少女は「はぁ……」と再び大きなため息をついた。


「衛兵局が情報を開示してたからまさかとは思ってたけど……やっぱり既に先を越されていたのね。それにしてもまさか第一発見者がすぐ近くにいただなんて……」


 少女は顎に手をやりながら何やらぶつぶつと独り言を呟いている。


「あ、あのー……」


「ええ、わかった。そういうことなら、そうね。情報提供ありがとう、えっと……」


「アオイだよ。え、名乗ったよな?」


「そう、とりあえずありがとう」


 どうやら俺の名前をまともに呼んでくれる人はレーヴェにはロアさんぐらいしかいないらしい。悲しい。


「貴方、次からベスタと接触した時は私にすぐに報告して、私を呼びなさい。すぐに」


「えっ?」


「わかった?」


「お、おう……」


 有無を言わさぬ迫力の物言いに、俺は再び後ずさりする。


「そう、良かった。それじゃ、私は行くから。ああ、そうね。せっかく情報提供してもらったし、貴方とは少しだけこれからも関わることになりそうだし……一応言っておくわ」


 少女はそんな俺の横を通りぬけると、無表情のまま振り返って言った。


「レイナ」


「え?」


「レイナ。それが、私の名前。覚えた? もっとも、覚えてもらわなくても結構だけど」


 レイナと、そう黒髪の少女は名乗った。


 連邦スフィリアにおける俺の初めてのルームメイトであり、ベスタに並々ならぬ執念を示し、周囲との関わりを避け、ただひたすらに己の目的のみを追いかけ続けるこの少女との出会いが───この先の旅路を、俺の世界を大きく変えることになろうとは。


 この時の俺はまだ、知るよしもなかった。

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