第16話 『少女の謎とベレンジャム』
「───黒い竜の話を、貴方は聞いたことがある?」
そんな台詞がふと聞こえてきた夕暮れに、俺は自分の耳の正常性を疑わざるを得なかった。
だがそれも仕方のないことだろう。今、何が起こった? まさかこの同居人の方から、俺に話しかけてきたのか?
おそるおそる顔を上げ、声の主の姿を伺うと、何食わぬ顔でやはり彼女はいつも通り優雅にティーカップを傾けていた。
俺と彼女───レイナが裏路地での一部始終を終えてから数時間後。俺はあの後無事エルシェと合流し(どこに行っていたのかとしこたま怒られたが)、引き続き農作業に従事し、そして帰宅した。
レイナはといえば俺が帰ってきてから少ししてから部屋の扉を開き、そしてやはり無言で紅茶を嗜み初めた。ここまではいつも通り、今までと何一つ変わらぬ流れだ。基本的に俺たちの間に会話はない。
部屋に満ちるのは紅茶の芳しい香りと静寂だけ、そしてそれは今日も同じはずだった。だが。
「聞こえてる? それともまさかわざと無視してるの? だとしたらいい趣味ね」
「い、いや、聞こえてるよ。ごめん」
まさか彼女の方から俺に話が振られてくるとは予想しておらず、油断していた俺は慌てて平静を取り繕う。落ち着けアオイ、深呼吸だ。吸って吐いて吸って吐いてひっひっふー……いや、これはなんか違うか。
「……貴方がどうしてそんなに動転しているのかはわからないし、興味もないけれど」
なんという事だろうか、見透かされていた。ちょっと恥ずかしい。
「それで? 話を戻すけれど、黒い竜について───貴方はなにか、知っている?」
黒い竜? 聞き馴染みのない言葉だ。もっとも、記憶を失っているが為にこの世界についてほぼ何も知らない俺に聞き馴染みがあるはずもないのだが。
「いや、知らないな。何なんだ、それ」
「……そう。ならいい」
レイナは一瞬だけ、期待が外れたような少しだけ残念そうな顔をした……ような気がした。ここ数日曲がりなりにも同居人として過ごした経験からわかったことだが、彼女の表情筋は鉄面皮といってもいいほどまず動かないのだ。
まるで氷、いや鉄の彫像のように、喜怒哀楽を明らかにすることがない。
「役に立てなくて悪い。その……俺は記憶喪失なんだ。自分が誰なのか、どこから来たのかもわからない。目覚めたのもつい三日ぐらい前でさ、まだ全然スフィリアのことを知らないんだ」
「記憶がない?」
正直、無視されるのではないかとも思っていたが、意外にもレイナは反応を返した。
「ああ。この島……レーヴェのことも、スフィリアのことも、自分のことすらわからないことだらけだ。だからその……
「連邦の出身ではない……となると、可能性があるのは東桜と帝国ぐらいのものだけど。
「そういえばエルシェが君も持ってないみたいなこと言ってたな。やっぱり結構大変なのか?」
レイナは目をわずかに見開き、俺を見た。信じられないようなものを見る目つきだ。
「……驚いた。貴方、本当に何も知らないのね」
「まぁ、記憶がなんも残ってないからな」
「そう。同居人のよしみで一つアドバイスしておいてあげるけど、もし発行できるようなら
「そっか。覚えておくよ、ありがとう。でも君はなんで
と、俺は話の流れで踏み込みすぎたことを、しまったと瞬時に後悔した。誰にでも探られたくない事情や過去はあるものだ。俺にはそんな過去すらない───少なくとも今は。だが、レイナは違うだろう。今のは失言だったなと、俺は訂正しようとする。
「いや、すまん。やっぱり言わなくて───」
「必要ないから」
俺の言葉を遮り、吐き捨てるようにレイナは言った。顔も、声音もいつも通りの彼女だったが、そこには何かの強い感情の色が滲んでいたように思えた。
「ベスタを始末するのに、
「君は……ベスタを追ってるのか」
「ええ、そう。全てのベスタは、私が───いえ、なんでもないわ」
「……そうか」
赤く、しかし冷たいその瞳の奥に何が映っているのか。それは俺にはわからない。ただしそれでも、彼女の抱くベスタへの並々ならぬ激情は手に取るようにひしひしと伝わってきた。
「ところで、君が飲んでるそれは今日も紅茶なの?」
重くなる空気をなんとかリセットしようと、俺はいつもレイナが飲んでいる紅茶の話に話題をシフトした。彼女は一度小さく頷いたが、俺からティーカップを引いて少し遠ざけると───、
「……あげないわよ?」
「いや、いらないよ⁉」
ともかく、俺たちはこうしてある程度の会話に成功した。もっとも、相変わらず無駄話や世間話なんかは成り立ちそうにないが……ひとまずは一歩前進、と言っていいのだろうか?
◆《
どうやらレーヴェにはベレンジャム、というものがあるらしい。
エルシェ曰くレーヴェの四大特産品の一つである手頃な大きさと甘酸っぱい味わいが特徴的な赤い果実であるベレンを完熟期に栽培しそのままジャムにしたもので、パンには勿論肉の付け合せや料理の下味なんかにも使えてしまう汎用性抜群の一品だそうだ。
当然果樹栽培を生業とする《
「それで、これがそのベレンジャムか……確かに美味しそうだ」
ナイフにちょびっと乗っかった鮮やかな色のジャムを眺め、俺は呟いた。
「ん、これはうまいぞアオイくん。食べてみるといい」
俺の斜め前でパンを咥えているのは、《
普段は屋内であろうと豪快に葉巻を吸っているヘビースモーカーなイメージの強い彼女だが、今はその手にしっかと楕円形のパンを掴み口へと運んでいる。葉巻を咥えていないロアさんを見るのはこれが初めてだった。
時刻は午後六時に差し掛かった頃。俺たちは今、《
「少年は《
騎士としてそれを断言することに果たしてなんの意味があるのかまでは理解できなかったが、ともかく俺は右手に持ったナイフと左手に持ったパンに視線を戻す。
ナイフの上にちょこんと乗った少量のベレンジャムは、ランタンの明かりを受けてまるで赤い宝石のようにキラキラと輝いていた。
その輝きに俺はごくりと喉を鳴らす。やがて漂ってきた甘いベレンの香りに我慢できず、パンに塗ってすぐにぱくりと一口。次の瞬間、俺の舌を駆け抜けたものは───。
「こ、これは濃厚な味わいッ……!!」
目を見開き、仰天する俺の反応をにやにや、にやにやと眺める生産者のお二人。
だがそんなことを気にしている余裕など今の俺にはなかった。口に入れた途端に広がる芳醇な香りと、果肉の圧倒的な甘みに時折加わるスパイスのような酸味。それらが合わさり、ベレンという果物の内包する深い味わいを限界まで引き出している。これは美味い。
「やっぱり《
「そうだろう? こだわり持って作っているからな、このジャムも。ウチの団長殿秘伝の製法で」
「団長さんすげぇよ……《
「……その言い方はどこか釈然としませんが、まぁ気に入ったようですし今回は良しとしましょうか」
じとー……っとした眼差しで俺を見ながらも、エルシェは頷く。
「そういえば、やっぱり今日もレイナはいないんだな」
「今日はまだ帰ってきてもいませんね。一緒に食べようと、私も何回か声をかけてはいるんですが……私がお邪魔すると貴女達の迷惑になってしまうから、と断られてしまって」
「そうか……」
ふと、この場にいないルームメイトのことを思い、口にする。
未だ謎だらけの同居人、レイナ。俺と同じく出身や帰属を示す
彼女について現在わかっていることといえばだいたいいつも部屋にいるときは紅茶を常飲していること、ここで俺が目覚める一週間ほど前から《
「エルシェがあいつと出会ったのはつい最近なのか?」
「そうですね。本当にこの間のことです。パトロールで街を巡回していた時に、危なかったところを偶然通りかかった彼女に助けてもらって……話してみたら
なるほどな。つまりエルシェも、レイナの素性についてはよく知らないらしい。
俺はこうして
そんなことを思いながらパンを食べていると、いつの間にかぺろりと平らげてしまったらしく、俺の手元には虚しいスカスカの空気だけが残っていた。
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