第9話 『はじめてのたたかい.そのに』
───まるで、全身の血が煮えたぎったように熱い。
突然真っ白に染まった視界の中で、俺は自分の身体に起こった確かな異変を感じていた。
今、何が起こっているんだ?
あの黒蛇もどきの怪物に対抗するために、俺は半神半人として自らに眠っているらしき神の力とやらを使うことに決めた。そしてアザを押さえて祈れ、とあの自称女神の少女の言った通りにして右腕のアザを押さえ、そして祈ったのだ。
ここまではいい。だが、この感覚は一体なんなんだ。例えるならばそう、この白い世界に自分一人だけが存在し、一人ぼっちになってしまったかのような奇妙な喪失感。
そしてそんな心とはまるで裏腹に、燃えるように熱い身体。
ドクンドクンと脈打つ心臓の音が音のない静寂の世界に唯一の音をもたらし、その鼓動の音だけが世界を満たしているような感覚だった。
熱を帯びた熱いものが、自分ではない何かが───否、もう一つの自分が内側の奥底から引きずり出され這い上がってくる。
「怖がらないで」
声が聞こえる。初めて聞いたはずなのにどこか懐かしいような、少女の声が。
「大丈夫だよ。大丈夫。君ならきっとこの力をうまく使える。最初は苦労するかもしれないけれど、安心して。これは私の力でもあるけれど、君の力でもあるから。必ず君を、君を守ってくれる。そして、いつの日にかきっとあの、『運命』を───」
その台詞を、最後まで聞くことはできなかった。
声が急速に遠ざかっていくと同時に、真っ白い世界に再び彩りと輪郭が戻っていく。
───気づけば俺は、あの路地裏で走るのをやめ立ち尽くしていた。
全く無防備な姿勢だった。手足をダランと伸ばし、背後に迫る黒蛇になど気づいてもいないかのように空を仰いでいる。
「シャアアア───‼」
黒蛇はその牙を俺の首元へと向け、この追跡劇に決着を付けるべく飛びかかる。
人間ほどはあろうかという体躯からはおおよそ想像も付かないほどの俊敏な動きで、確実に獲物の息の根を止めることのできる箇所に狙いを定め、その毒々しい色の牙を突き立てた───が。
「……?」
俺の首に、牙は刺さらない。
先ほどの意趣返しのように、ヤツの牙は俺の肌に突き刺さることなく止まっていた。まるで肌と牙との間に見えない障壁が展開しているかのように───直後、黒蛇は大きく後方へと弾き飛ばされる。
「───⁉」
予想だにもしていなかった衝撃に目のない黒蛇は大きく戸惑ったような反応を見せるが、それは俺も同じだった。
首元に噛みつかれ終わったかと思えば黒蛇の牙は俺の肌を食い破ることなくその表面で止まり、突如浮かんだ直感に従って軽く腕を下から上へと振り抜いてみれば黒蛇がなんとその衝撃だけで弾き飛ばされたのだ。
「神格……だったっけ、まさかこれが半神とやらの力……なのか?」
「シッ、シャアアアアアアアアア───‼」
だが、当然弾き飛ばされたくらいであの巨大な黒蛇が終わるはずもなかった。
むしろ受けた屈辱を晴らさんとするかのように激しく咆哮すると、再びこちらに向かってくる。
死角に潜り込め──今度はそう脳裏に文字が浮かんだ。そして次の瞬間、ビジョンが、映像が視えた。
どこに動き、どのようにして回避し、眼前の脅威に対してどのようにして攻撃を加えるべきか──全てわかる。直感する。まるで誰かに指示されているかのように、まるでずっと前からわかっていたかのように、全てにおいて適切な動きを導き出せる。
怖くない。あれだけ巨大で得体の知れない怪物が、今はどうすれば倒すことができるのか、その攻略法が手に取るようにわかる。
「ふっ──!」
間一髪、無駄のない動作で拳のように飛んでくる黒蛇の頭を回避し、かがみ込んだ姿勢からそのまま再び顎に一撃を与える。
強烈なアッパーをモロに食らった黒蛇はフラフラと頭を動かすものの、一瞬で意識を取り戻すと今度は尻尾をムチのようにして横薙ぎに繰り出した。
「タフな奴……だなっ‼」
ブオンという音とともに丸太のような黒蛇の尻尾が大気を裂いて近づいてくる。
一度当たれば人間などいともたやすく葬ってしまうような圧倒的なまでの暴力が、質量をもって放たれたのだ。
それを仰け反る形で避ける。
空振りした尻尾は宙を切り、裏路地の壁に衝突。大きな音と土煙を巻き上げた。黒蛇は忌々しげに唸ると、俺に頭を向け真っ赤な口を開く。
牙からは最初に見た時と同じように透明の糸が引いており、おそらくあれは次の一撃で獲物を葬るための言わば切り札。猛毒だ。そんなヤツの姿に俺は確信する。
次だ、次で終わらせられる。
この黒蛇もどきはどうやら案の定その見た目通りに普通の生物らしからぬ耐久力を備えているようだが、あと一撃入れられれば、勝てる。
その隙さえ、見つけられれば───。
「シャアアアアアアアアア───‼」
これが最後の一騎打ちだと言わんばかりに荒々しく声をあげ、黒蛇は糸の引いた牙を光らせてこちらに向かってくる。
俺もまた正面から構え、ヤツを真っ向から迎え撃つ。
「───‼」
「っ食らえよ、黒蛇もどき───‼」
人知れず行われた路上での一騎打ちを制したのは、俺だった。
ヤツが間合いに入った瞬間、牙が俺に到達するよりも早く横足で蹴りを繰り出し───無防備な頭に食らわせる。
蹴りはヤツの頭に一瞬だけめり込み───そして、黒蛇は凄まじい音とともに弾き飛ばされ、壁に激突した。
ドオオオオンと大地が揺れる振動が響き、再び土煙が裏路地一体に広がっていく。視界が黄土色に染まり、一時何も見えなくなった。
当たった。今のは、間違いなく決定的な一撃だった。やった、よな……?
土煙が晴れ、視界がだんだんと視えるようになっていく。
そして完全に霧散した時───そこにあったのは、横たわる黒蛇の巨体だった。ピクリとも動かず、口から泡のようなものを吹いて倒れている。
「終わった、のか」
ぽつりと呟くと、その瞬間全身に駆け巡っていたかのような熱が消える。
おそらくは神格とやらが抜けたのだろう。
時間制限があるのか、あるいは俺の気が抜けたからかは定かではないが、ともかく一度使えば常に……というわけではないらしい。
と、視点を今目の前で横たわるこの黒蛇もどきに戻せば、相変わらず壁に激突した姿勢のまま全くといっていいほど動いていなかった。
俺は、勝利したのだろうか。
いまいち確信は沸かなかった。本当に俺がこんな怪物と戦い、そして退けたのか。そういえば、なぜこんな怪物が路地裏の最奥なんかにいたんだ。それに───。
「……そうだ!」
俺を助けてくれたあの黒髪赤瞳の少女。
彼女は無事だろうか? なぜこんな場所に怪物がいたのか、そしてあの少女は何者なのか。疑問は尽きないが、ひとまず彼女の無事を確認したい。
周囲をキョロキョロと見回し、探してみるが見つからない。
たしかに彼女はここに入っていったはずなのだが。
路地裏に分かれ道でもあったのだろうか。
いや、待てよ。
その時、俺の脳裏に最悪の考えが浮かんだ。
これほど大きい蛇(より正確に言えば蛇のようななにかだが)の体だ。……人間一人程度、丸々と飲み込めてもおかしくない。
まさか……先ほど神の力を使った時とは逆に全身の血の気がさーっと引いていく感覚を覚えるも、頭をぶんぶんと振って他の可能性を考える。
すると、
「おーい、少年ー⁉ いますかー⁉ いるなら返事してくださーい‼ おーい‼」
背後から聞こえた声にハッとなって振り返る。あわてて出口の方まで駆け寄ると、そこには肩、というかマントで息をするエルシェの姿があった。
「はぁ……はぁ……あぁ少年、ここにいたんですね……無事でよかった……ってじゃなくて! なんでこんな所にいるんですか‼ 危ないとこには行っちゃダメって言ったじゃないですか‼ 私、言いましたよね⁉」
「ご、ごめん!」
半ば涙目になって怒るエルシェに、俺はとてつもなく申し訳ない気持ちになる。
保護した記憶喪失の連れが自分のいない間に行方不明ともなれば、取り乱して当然だ。この息の切らし具合からして、彼女は他にも可能性のある場所を軒並み探し回っていたのかもしれない。
「入るにしたってどうしてこんな、見るからに怪しい場所に……なにかあったんですか?」
俺はエルシェに、運河の上に架かった橋の上で人に助けられたこと、その人が裏路地に入っていき、心配でここに入ったこと、そして突然襲いかかってきた謎の蛇のような怪物について話した。
「ふむ、なるほど……特に深く知っているわけではありませんが、ここは普通の裏路地だと思いますよ。まさかそんな怪物がいるとは……何かの見間違いではありませんか?」
「いや、本当にいたんだって!」
「ふーん。なら、少年はどうやってその怪物を撃退したんですか?」
疑う様子のエルシェに問われ、俺は咄嗟に口をつぐむ。『いやー結構ピンチだったんですけど神の力を使って倒したんですよねーハハハ』なんて言えないし、言ったところで信じてもらえるとは思えないからだ。「神の力? 少年、お前はどうやら記憶が錯綜して混乱しているようですね。もう一度あの地下牢で休みますか?」なんて言われて、記憶喪失な上にどこかがアレなヤバい奴だと思われておしまいである。
「い、いや、なんかいきなりそこで倒れてさぁ、壁に激突したんだよ。不思議だよな。運が良かったんだろうな、はは」
うっ、苦しい。我ながら苦しすぎる言い訳だった。エルシェはジト目で俺を見ていたが、実際に見てみないからには始まらないと思ったのだろう。
「へー、じゃあそこまで案内してみてください。その代わり、嘘だったら少年の呼び名は少年からうそつきの羊飼い少年に降格ですよ」
うそつきの羊飼い少年?うそつきの部分はまだわかるが、羊飼いの部分に関してはどういう意味だろうか?ともかくエルシェはまだ当分俺のことをアオイとは呼んでくれないらしい。初めて出会った時からずっと、一応名乗ってはいるのだが。
そうこうしているうちに俺はエルシェを連れ、再び先ほどの場所に戻っていた。
「ほら、これだよ! このでっかいヤツ! コイツ何なんだ一体⁉ いきなり俺のことを襲ってきたぞ!」
「……これは……」
さすがのエルシェも黒蛇もどきの怪物を見るのは初めてだったのか、あるいは最初から全く俺の話を信じていなかったのか。そのどちらなのかはわからないが、横たわる大蛇の巨体を見下ろし、ごくりと息を飲んでいた。
「《ベスタ》蛇種、サエル……? どうして領域外のレーヴェに、いやどうやって……っ」
「エルシェ?」
見れば、彼女の顔面は蒼白だった。ただならぬ事態なのか、声も小刻みに震えている。
「……少年」
エルシェは真剣な表情で俺をわずかに見上げると、じっと顔を覗き込んで言った。
「《ベスタ》と出くわして無傷だなんて、幸運にもほどがありますね。ですが───喜ぶのはあとにしましょう。行きますよ、少年」
言い終わる否やエルシェに袖をぐいっと掴まれ、そのまま強引に引っ張られる。
「ちょ、ちょっと待てよ! どこにだよ⁉ ていうか、ベスタってなんなんだ!?」
「道すがら話します。今は時間がありません」
ぐぐぐと俺のことをすごい力で引っ張り歩かせながら、彼女は額に汗を浮かべる。
青く澄んだ瞳には、確かな焦りと困惑の色が浮かんでいた。
「……これは、大変なことになるかもしれませんね」
小さく呟くようにそう言うと、エルシェは歩く速度を早めた。
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