第6話 『奇妙な出会い』

  ───小さな橋の上、俺はぼーっと水の流れを眺めていた。


「……平和だよな、なんか」


 白い橋の下を流れる運河に、青い水。


 陽の光を浴びてキラキラ輝く水面は美しかった。ぱしゃぱしゃと流れる水の音が心地よい。


 時折吹くそよ風は前髪を揺らし、中央の噴水広場からそれほど遠く離れていないにも関わらず驚愕するほどの人通りの無さもあって、物静かで落ち着いた空間を演出していた。


 あそこには何かがある。そんな根拠のない、しかし強烈な確信に足を突き動かされここまで来た俺だったが ───しかし結論から言えば、これといって特別なものはなかった。


 少なくともこうして近寄って、橋の上から水面を眺めていようとなにか異変が起こるような兆候はない。


 何もおかしなことは起こらないし、起こりそうにもないのだ。至って普通に、そして平和にただただ穏やかな時間が流れていた。


 手持ち無沙汰のこの状況で他にすることがあるわけでもないので、無気力に橋の上から流れる運河をぼーっと眺めているうちに、ふと俺は思う。


 ───この水は、一体どこから来てどこへ流れていくのだろう、と。


 どこから流れてきたのかもわからない、どこへ流れていくのかもわからないただ運河を流れていくだけの水は───まるで人間でも神様でもなければ記憶も行くあてもない、どこかの誰かさんのようだ。


 水面に映った自分の顔が、自嘲的な笑みを浮かべていることに気がつく。


「俺は一体……誰なんだろうな」


 誰ともなしに呟く。

だが、その答えは帰ってこない。当然である。俺が一体誰であるのか───なんて問いには、何を隠そう本人であるこの俺すら答えることができないのだから。


「……広場に戻るか」


 そう足の向きを変えようとした時だった。


 つるん。


 つるん?


 ふと振り返って見れば───ぐるりと回転する視界いっぱいに広がった壁のような水面が、急激にこちらへと迫ってきていた。

 途端に固く踏みしめていたはずの床、つまりは足場の感覚が消失する。


 何が起きた?


 いきなり水面が俺に近づいてくるなんて、この一瞬で世界には森羅万象の理を揺るがすようなとんでもない天変地異でも起きたのか?


 否、現実的に考えてそんなことはあり得ない。では他に考えられる可能性はなにか。それは一つ───俺が水面へと落っこちているのだ。


 どうやら俺は橋の上でバランスを崩し、足を踏み外したらしい。


「ちょっ……うぉぉぉぉぉぉぉ⁉」


 これはまずい! 非常にまずい! 

 脳内では俺のエマージェンシーレベルが一瞬で一気にMAXまで上昇し、危険を知らせるブザーがけたたましくブーブー鳴り響いている。

 俺が先程まで見た限りではレーヴェの運河は底が確認できない程度には深く、落下した場合は溺れてしまう恐れがあった。


 ───俺は果たして、泳げるのだろうか?

 その真実が定かでない以上、水に落下するのはなんとしても避けたい事態だ。


 というか今、まだ俺の足は地についているのだろうか?もしかしたらもう落下している最中かもしれない。そうでないとしても、もはやこの体勢からでは復帰のしようがない。


 ───ダメだ、落ちる!


 俺はきゅっと目をつぶり、衝撃と痛みに耐える覚悟を決める。

 せめてこの身体が、泳ぎ方を知っていることをただ切に願った。

 しかし。


「……?」


 いつまで待っても、身体が橋の下へと落下する気配はなかった。

 おそるおそる、目を開けて振り返ってみる。


「……」


 すると、真っ先に視界に入ってきたのは───人の姿だった。


 一切露出のない衣装、黒いコートのようなものに身を包み、顔が完全に隠れるほどフードを目深に被った人物だ。

 一見しただけでは顔も、年齢も、性別も、全くわからない。その人物は腕をこちらへと伸ばしており、そしてその腕は俺の腕をしっかと掴んでいる。


 どうやら俺は、足を滑らせ運河に落ちるところをすんでのところでこの人に助けてもらったらしい。


 その人物の腕は細くしなやかで、しかし片腕で俺の体重のほとんどを支えている。


「あ、あなたは……?」


「……」


 フードの人物は何も答えず、ぐいっと俺の腕を引き戻し橋の上に復帰させた。

 俺は細い腕から感じた想像以上の腕力に驚く。

 そしてそのまま、その人は無言で俺の前に佇む。


「……」


「……?」


 こうして向かい合ってみると、身長はだいたい俺と同じくらいだった。

 もっとも、目深に被ったフードと黒色のコートで顔のみならず体のほぼ全体を隠しているために、実際のところはよくわからない。


「あのー……?」


 フードの中は日差しと角度の関係だろうか、ここまで近寄っているにも関わらず深い暗闇が広がっており、その素顔は全く窺い知ることができない。


 性別についても相変わらず全くの不明という他ないが、一見細身の体格はどちらかといえば女性的にも見える───などと、考えている間にふと大事なことを忘れていたことに気がついた。


「あ、そ、そうだ! 助けてくれて、ありがとうございます!」


 俺は慌てて頭を下げる。しかし、フードの人物は一言も喋らない。


 さてどうしたものか。助けてもらった以上、この人とはなんとかしてコミュニケーションを図りたいところだが、相手からの一切の反応がないのではお話にならない。顎に手をやり、しばし考えていると───その時、風が吹いた。


 レーヴェの潮の香りを乗せ、この広大な水上都市を駆け抜け、俺たちの間を通っていく爽やかな力強い一陣の風が。


 そして、その風は目の前の人物のフードをふわっと持ち上げ、その中の闇に隠された素顔を顕にする。


 たった一瞬。


 たった一瞬吹いたに過ぎない風だったが、その一瞬で───俺はもはや釘付けにされたように、目を奪われた。


「───別に」


 深く暗闇に閉ざされていたフードの中から、物静かな、それでも不思議とよく通る声が俺の耳に届いた。


 しかし、の声は俺にとっては大した衝撃にはならなかった。いや、ほんの数秒前であれば分厚い外灯で覆われた怪しい外見からは想像だにもしなかった少女の声に大いに驚いていたことだろうが、今となってはそれ以上に脳を、視界を惹き付けて止まぬその光景に、すべてを持っていかれていたのだ。


 それこそ、他のことなど考える余裕もないほどに、鮮烈に。


「君は……」


 首より少し短い程度にまで伸ばされた艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌。


 赤く澄んだ双眸は冷ややかで、しかしそれが同時に凛とした彼女の美しさを際立てていた。


 背後から照りつけた日差しが彼女の姿を逆光で陰らせているが、そんなことは関係ないとばかりに彼女はただ───そこに在った。


 白い町並みの中にあって黒い外灯に見を包んだ黒髪の少女は太陽にも劣らぬ存在感、否、太陽など歯牙にもかけぬ圧倒的な輝きをもって、こちらを見つめている。


 俺はこの時初めて、自らの心臓が奏でる、恐怖とも緊張とも異なる音を聞いた。


 まるで世界の時を刻む時計の針が止まったかのような時間が流れる。

 それはもしかしたら一瞬だったかもしれないし、あるいは数秒間に至る長い時間だったかもしれない。

 ただし一つ断言できることがあるとすれば、その間俺は全く動くことができなかったということだ。


 ともあれ、そんな時間が永遠に続くわけもなく。


 鮮やかな赤い瞳は冷たく興味を失ったようにふらりと目線を外すと、こちらに背中を向ける。


「ここ、危ないから。慣れていないのなら、あまり迂闊に覗き込まないほうがいいわ」


「……あ」


 黒髪の少女は再びフードを顔が見えなくなるまで深く被り直すと、ただそれだけの一言を残して去っていった。俺は未だ呆気に取られながらも、なんとか首と視界を賢明に動かし、少女が去っていく方向を見つめる。


 黒い外灯で覆われた真っ黒い背中が歩みを進める先を見れば、そこに広がっていたのは数メートルほど離れた場所に位置する薄暗い裏路地だった。


 建物と建物の間を縫うようにして通っているためかその入り口は狭く、あまり陽の光の当たらないであろう内部はここからではよく見えない。


 少女はみるみるうちにそこへと入っていくと、すぐに見えなくなった。


 今の少女は一体、なんだったのだろうか。俺はしばらく呆然と彼女の消えた裏路地を眺めていた───すると。


「なんだ?」


 今、そこの裏路地の影でなにかが動いたような気がする。


 見間違いだろうか?しかし今、確かに動いたような。


 俺は立ち上がり、様子を伺いにゆっくりと例の裏路地に歩を進めてみる。エルシェから怪しい場所には入るなと言われているが、少し近づいて見てみるだけならば問題はないだろう。

 そう判断し、おそるおそる歩み寄っていると。


「また動いた、か……?」


 やはりだ。間違いない。今度は見間違いなど疑いようもないほどしっかりと目視した。裏路地の影、その端に何やら蠢くモノがある。そして俺は確信する───あそこに何かがいる、と。


 先程の根拠のない確信ではない。今度は間違いない。あそこには何かしら、少なくとも生き物の類に分類される存在がいる。


 この先に、行くべきだろうか。俺はぴたりと動くのを止め、考える。


 まだレーヴェにもスフィリアにも大した知識のない、記憶を失っている俺だが、そんな俺ですらわかる程度にはあの裏路地は怪しく不気味だ。

 人通りはここと同じくほぼ無さそうな上に、薄暗く外からはよく中の伺えない空間は、ともすれば犯罪者の巣窟になっていてもおかしくなさそうだった。


 ここは大人しくエルシェの言いつけを守り、噴水広場のベンチに戻り彼女を待つべきだろう。そう考えくるりと回れ右、足の向きを変えて戻る方向に───戻そうとしたところで、あの黒髪の少女が脳裏に浮かぶ。


 自分を助けてくれた彼女は、どこにいったのだろう?


 この先に進んでいるのだとしたら、そこには何があるというのだろう。なぜ、こんな危険そうな場所に入っていったのだろう。もしかしたら、彼女はこの中で危ない目に会ってしまうのではなかろうか。


 いくつもの考えが浮かんできては消えていく。その可能性は限りなく低いとしても、それをみすみす見過ごして、いいのだろうか。


 戻るべきだ、エルシェを待つべきだと頭ではわかっていても、俺の足は帰路には動かなかった。


 怖い。


 あそこには何がいるのか、この先に何が待ち受けているのか、進むのが怖い。未知が怖い。世界が怖い。できることなら引き返し、何もかも忘れてなかったことにしてしまいたい。


 けど、それでも。


 何度願ったとしても、もう記憶からきっとあの少女の姿は消えてくれない。おそらく記憶を失くして一番最初に最も強く刻まれたこの鮮烈な記憶は、きっとこれから先も俺を離してくれるとは思えない。


 ここで彼女を追わなかったら、一生後悔することになる。


 思い違いであればいい。何も無ければそれでいい。たとえ少女に会えなかったとしても、この裏路地に危険がないことがわかればそれでいいのだ。


 俺は一度目を閉じ、深呼吸すると震える足で一歩を踏み出した。


 どうか何事もありませんように、と。


 ───たったの数分後には木っ端微塵にされる、そんな淡い願いを胸に抱いて。

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