忘却

 病室の壁を埋め尽くす赤や黄色の無数の言葉。壁に描かれた模様のように、数えきれないほど書かれたその文字の中に、一つだけ見つけた「ありがとう」の言葉。誰に向けられたものかもわからないそれを前に、一人の老人が佇んでいた。その手には磨り減ったクレヨンが握られ、病室の前を通りかかった私を見つめるその瞳は、子供のように無垢な光を宿していた。


 隣の病室では、二人の老人が談笑している。

 昨日と同じ会話の内容。私に投げ掛ける問いも毎日変わることはない。私の答えだけが昨日と違っていても、彼らはまた昨日と同じ会話を続けていく。

 その会話がいつから始まったものなのかは、私にもわからない。


 廊下の角を曲がれば、いつものように杖をついた老人とすれ違う。毎日欠かさず廊下を八往復する老人のお供をするのは、ボロボロになったぬいぐるみ。老人に引き摺られてほつれた身体を縫い直すのも私の仕事だった。新しいぬいぐるみは、年に一度だけ見舞いに訪れる老人の家族から贈られる。それまでは今のぬいぐるみが唯一の家族なのだ。


 私の人生よりも長い時をこの病棟で過ごしている彼らの始まりを知る者は、もうここには残っていない。

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