第33話


     *


「それから私は、何度も死者蘇生を繰り返してきました。日記の文章を変えたり、死者蘇生をする場所を変えたり。もちろん、その段階で暮葉が言っていた『探偵になる』という目標を叶えました。篤司さんは気づいていたようですが、……七年間、私はあなたの代わりに生きてきたのです。あなたの精神を守るため――百音は生きているという嘘の証明をするために。でも、だんだん嫌になってきてしまったのです。自分が百音でないことを、鏡を見るたびに思い知らされました。それが嫌で、リストカットを何度もしてしまいました。途中で私自身も、自身の存在が何度も揺れ動いて。それで、暮葉の人格が戻って来ることもありました。あの日も、まさにそうでした。……私、嬉しかったのです。自動車と衝突した時。ようやく『自分とは何か』なんて考える必要もなく、何もかも忘れられるんだって」

 私は頭の中に響く彼女の言葉を聞いていた。私は彼女の話すこと全てを知っている。だって彼女は——。

「でも、あなたは死ななかった。記憶喪失に留まった。そして、記憶を失ったあなたは、自分で忘れたがっていたはずの百音を忘れたままにしなかった。百音という人間の存在を知りたがった。だから私は百音のことを忘れたままにするために――精神を守るために、こうして本殿に入ることを拒みました。本殿の扉を開けようとしなかったのも、本殿の格子窓から中を確認しようとしなかったのも、全て私がしたことです。まあ、結局は他のルートから知ることになってしまいましたね」

 認識したくなかった。そんなことだろうと分かっていても、拒まざるを得なかった。拒まなかったら、私は本当にただ彼女を間接的に殺しただけになるから。

「ここまで来た以上、認識しなくてはならないのですよ、あなたは。主人格であるあなたに『りんが』と言っていたのは、千駄咲神社という思い出の詰まった場所でないと防衛本能としての私は目を覚まさないからです。『百音の人格』である私はすでに消えかかっていて、本当に危険だと判断した時のみにしか出られないのです。それに主人格であるあなたでも『りんが』の意味くらい、もう思い出しているでしょう」

 ――とっくに思い出している。肯定することしかできない。今話している彼女は、千駄咲神社の幽霊でも、百音の幽霊でもない。

 もう一人の私だ。否定したところで何の意味もない。思考も知識も、全てそっくり私が元なのだ。

「その通りです。私はあなたであって、あなたは私。私は、あなたの中にある百音という人間の偶像に過ぎないのです。現実逃避や事実の否定は無意味です。心の声は全て筒抜けなのだから。……どの道、『百音の人格』である私は消えるでしょう。あなたは自分の罪を知ってもなお、ここまで来ました。少しずつですが、過去を受け入れつつあるのでしょう。今日は、その仕上げです」

 これからやるべきことは分かっている。過去との対峙。私の罪を受け入れ、それを決して死者蘇生などといった無意味な行為に繋げないこと。

「はい。……せっかくなので、また昔と同じような形式を取りましょうか」

 ――ああ。例の。

「はい。『りんが』はフランス語で共通語を意味する『リンガ・フランカ』が元になっています。発案は、百音でしたね。せっかく水木さんが用意してくれた秘密基地だから合言葉を作ろう、と」

 ——懐かしい。神主さんにバレて普通に怒られたこともあったけど、今覚えば全て良い思い出だ。

「……ええ」

 少し、待っててほしい。

「構いませんよ。というか、わざわざそんなことを話しかけなくても、なんとなく分かりますから」

 私はおもむろに立ち上がり、瑞希の方を見た。その瞳がひどく怯えたような目つきをしていたので、私は思わず少し笑ってしまった。

「大丈夫ですよ。もう――もう、大丈夫ですから」

「暮葉、お前……?」

「ごめんね、篤司。長いこと心配かけちゃって。それで、瑞希さん。私たちが小学六年生の頃、あなたがこの場所を――私と百音だけの秘密基地を用意してくれたんですよね?」

 瑞希はひどく戸惑った様子で口をぱくぱくと動かしていた。

「大丈夫だ。水木、たぶんだけどもう暮葉は死者蘇生をしようとはしないよ」

「……篤司さんの言う通りなの? 暮葉ちゃん。本当に?」

「もちろんです。さっき、私の中のもう一人と話してきましたから」

 私がそうにこやかに言うと、瑞希も少しだけ安心したような表情を浮かべた。


     *


「いいんですか?」

「うん。でも、神主さんには内緒だよ? 怒られるのは私だからね」

 巫女服を着た瑞希は、右手の人差し指を口の前に当てながら言った。

「もちろんです!」

 私は張り切ってそう答えた。私たちしか知らない場所が手に入る。それだけで心が躍る。

「私たち、口は堅いので」

 百音は澄ましたようにそう言いつつも、本心では本当に喜んでることを隠せていない様子だ。さっきからワンピースの裾をずっと握り続けている。

「本当かなー?」

「本当!」

「……よし! じゃあ今日から本殿が暮葉ちゃんたちの秘密基地だ」

「やった!」

 私は百音と全力でハイタッチをした。百音のランドセルにつけられた青のお守りが揺れた。

「じゃあ合言葉も作らなきゃ!」

「私のお父さん、学校で働いてるから本読んでくる」

「百音ちゃん、本読めるの?」

「お父さんに訊きながらだったら」

「それじゃ秘密の合言葉にならないじゃん」

 私と百音と瑞希は笑い合った。


     *


合言葉は至極単純なものだ。まず本殿をノックする。中に誰もいなかったらそのまま入る。中にもう誰かがいた場合、中にいる方が先に「リンガ」と言う。そして外から入る人は「フランカ」と返答する。これが私たちの合言葉だった。

 私は本殿の扉をノックした。


 ――リンガ。


 頭の中で声が響く。無機質な声ではない。だが、百音の声でもない。これも全て私の声なのだ。


「フランカ」


 私は呟くように返答した。どこかから小さく笑うような声が聞こえた気がしたが、すぐにそれは蝉の声にかき消されてしまった。

 私は本殿の取っ手に指をかけ、そっと手前に引いた。


 本殿の暗がりの中、格子窓から入るわずかな日光が網状の影を床に落としている。


 そして、本殿の中央に――人影があった。


 それはどう見ても人間ではなかった。


 何かに思い切り衝突してしまったかのようにひしゃげた車椅子。


 蜘蛛の巣がかかっている方戸中学校の制服。


 「古橋百音」という名前の刻まれた骨壺。


 少しぼさぼさになっている黒髪。


 それらを身に付けた薄汚れたマネキンが、そこにはあった。


 これは、真音が用意した死者蘇生の儀式のための依り代だ。

 千駄咲神社の幽霊なんて——古橋百音の幽霊なんて、どこにも存在しない。

 昔から何一つ変わってない。人は蘇らないし、捨てられた神社にある本殿の中から声なんてするわけがない。

 私たちは最初から、たった一人の人間の死を巡ってぐるぐると同じところをまわっていただけなのだ。


 古橋百音は、七年前に死んだ。

 死へ向かう生命はその流れに逆らうことができない。それは不可逆の法則である。

 それだけの話だ。

 初めから、それだけだったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る