第32話
*
私の自己中心的な行動で。
私の身勝手な行動で。
私の浅はかな行動で。
私の不注意で。
私の罪で。
百音は死んだ。心に抱える全てを吐露してくれたのに、私の心に抱える全ては知らないまま。満足に歩けないまま。過去と向き合う余裕もないまま。
あの転落事故は、なぜ私だけ無事だったのか。
なぜ守るべき親友だけが死んだのか。
答えは至極単純だ。
百音は私の下敷きになって死んだ。
彼女の華奢な体が、クッションとなったのだ。
私と百音は、本来であればあんな場所にいなかった。私はいつもと変わらず百音のいない教室へ行っていて、百音は修と一緒にどこかへ出かけているだけだったのかもしれない。
ただ、偶然にも私と百音が街中で会って、私が「今日諦めたら、もう二度と会えなくなる」なんて思ってしまったから。私が百音の気持ちを無視して、地すべりの起きた
私は、正しく「人殺し」だ。
今にも気が狂いそうだった。あらゆる感覚がシャットダウンされる。何も見えない。何も感じない。自分が今座っているのか立っているのか、あるいは寝転んでいるのか。それすらも分からない。篤司の声はわずかに聞こえるような気がする。瑞希の声もだ。
だが、その全てが曖昧だ。明確な輪郭を持たず、私の頭の中をただ漂っている。
最初の悪夢で見たあの木の虚のような黒い瞳は、私自身のものだったのだ。あの悪夢は正しかった。欲求の充足であるという理論は、ある意味で間違ってはいなかった。私は私を石で殴り殺す夢を見た。私は、本当に私のことを殺したかったのだ。夢の中で、深層心理のどこかで、私は絶えず後悔を続けていた。罪悪感を抱えたまま生きていた。
——ああ。全てを思い出した。思い出してしまったのだ。これが、篤司や瑞希がひた隠しにしようとしていたことなのか。
「暮葉」
誰かが私の体を揺さぶる。目を開くと、篤司と瑞希と真音が私の顔を覗き込んでいた。どうやら気絶してしまっていたようだ。
私は上体を起こした。ひどく頭が痛む。まるで今までのことが全て夢だったかのような心地さえする。
だが、篤司の表情が、瑞希の表情が、真音の表情が、先ほどの話は全て嘘ではないと告げていた。お前は有罪だと、現実を突きつけられているかのようだった。
「私……私は、これから」
——これからどうすればいいのか。そんなことは分かっている。死者蘇生を完成させるのだ。お前はそうしなくてはならない。
自分の罪を滅ぼせ。良心の
覚悟はとうに決めていた。あとは始めるだけだ。
リストカットで自分を罰しろ。百音は私を憎んでいる。
強姦魔どもを探し出し、殺せ。百音は復讐を望んでいる。
百音を蘇らせろ。百音は生を望んでいる。
私が部活で遅れたせいで百音の心は死んだ。私が小鳥の鳴き声なんかに気を取られたから百音は死んだ。全て私のせいだ。埋め合わせをしなくてはいけないのだ。
とんだ馬鹿で、とんだ卑怯者で、人殺しの私にできる唯一のこと。
「行かなきゃ」
私はふらついた足取りで立ち上がる。すると、篤司が私の腕を掴んだ。
「お前は、思い出したのにまだそんなことを」
「思い出した――だからこそ、でしょ」
「あの廃神社に百音がいるとでも思ってるのか?」
「声がしたから」
「じゃあ訊くが、どうしてお前は一度も本殿の扉を開けようとしなかった?」
「篤司さん……?」
瑞希はどうかやめてくれ、と懇願するような声を振り絞るが、篤司はその声に応じようとしなかった。
「それは——」
「あそこは廃墟だ。鍵がかかってるわけないだろう。お前は開けられたはずだ」
「ちょっと、篤司さん。それ以上は」
瑞希の声量が徐々に大きくなり、悲しみや動揺というよりも恐怖のような感情を帯び始めていた。
「その声は——その声は、本当に本殿の扉の奥から聞こえていたか? くぐもった声だったか? そもそも、お前以外にその声を聞いた人が一人でもいたか?」
「……手、離してよ」
「体の中に魂が入るなんてありえない。行動とか口調とか知ってることとかが百音と一緒でもな、それはあくまでお前の知識の範囲での百音に過ぎないんだ。おれが何を言いたいか分かるか?」
私は何も言わなかった。言いたくなかった。
「解離性同一性障害。単純な話なんだ、全て。全て科学で説明がつくんだ」
「……やめて」
否定しないで。
「お前もいい加減分かってるはずだ」
「やめて」
私の生きる意味を奪わないで。
「魂なんか存在しない。お前の百音としての行動は、全て別人格の行動だ。お前が心の中に、自分の知識を元にした『百音の人格』を作り上げただけだ。百音を失ったショックを覆うように、その穴埋めをするかのように。多重人格を持つ人の話によれば、別人格とは頭の中で会話するらしい。つまり、そういうことだろ? 千駄咲神社にいる幽霊の正体は——『百音の人格』という、お前の中にある防衛本能だ。これ以上、目を逸らすな」
「——やめてよっ!」
私がそう叫ぶと、篤司は明らかに動揺を見せた。そして私は、その隙を見逃さずに篤司の手を振り払った。
眼鏡越しに見える彼の瞳はひどく悲し気で、それでいて幼く見えた。
死者蘇生をする際に必要なもの。
故人を想う気持ち。
故人への深い理解。
故人の身体の一部。または、別の人間の全身。
故人が生きていることを証明するように作った物証。
故人との思い出の場所。
死者蘇生が行われた場所は、この千駄咲神社だ。私はそれをよく覚えている。あの死者蘇生の儀式は、私と真音の二人でやったことだ。私が百音があたかも生きているかのような日記を書いたのだ。七年前に真音から聞いた「文字や言葉を媒介として、想いを形而下に引きずり出さなくてはならない」という言いつけも守った。おそらくここには舞台も道具も揃っているはずだ。
「暮葉……!」
背後から掠れた呼吸音と共に声がする。振り返ると、篤司と真音と瑞希が拝殿の横から現れた。
「そんなことしたって、また失敗して苦しむだけだ。……おれは散々、お前が狂っていくのを見てきた。百音が死んでから自動車事故に遭うまでのお前は、まるで別人だった。だから、病院でお前が『暮葉』って名前を呼ばれた時に返事をしてたのを見て、本当に嬉しかったんだ。ようやく本物の暮葉が目を覚ましたんだって。……でも、口調だけは前と同じだった。だから――」
篤司の声が震え始める。
「怖かったんだ。お前がまたおかしくなるんじゃないかって。……お前が、おれから離れていくんじゃないかって。おれにはお前しかいないのに、お前には百音がいるから」
それはまるで子どものわがままのようだった。
——篤司のために百音を諦めろって? そんなこと、できるわけがない。
私は篤司の言葉を無視して本殿の方を向き直し、しゃがみ込んで地面に日記を置いた。それからゆっくりとそれを読み始めた。
「七月十日。今日は百音と一緒に買い物へ行った。専門学校のレポートが大変らしく、カフェで愚痴をしばらく聞いてあげた。七月十一日。今日は百音と会わずに家で過ごした。相変わらず依頼は来なかった。七月十二日。今日は百音から電話があった。期末に向けて勉強をしているが、暇だから電話をしたいと言っていた。結局、二時過ぎまで話し込んでしまった。七月十三日。ひどく蒸し暑い日だった。児玉という名字を名乗る老夫婦が相談に来たので応対した。依頼調査にはまた百音にも少し手伝ってもらおうかな。七月十四日。昨日とは違い――」
「やめてくれ、暮葉」
篤司の言葉に耳を貸さず、私は朗読を続ける。
「昨日とは違い澄み渡るような青空だった。買い物日和だと思ったので瑞希さんの店へ花を買いに行った。百音に届けたかったので真音に頼んで渡してもらった。七月十五日——」
「——りんが」
私は声を出すのをやめた。その声は——どこから聞こえるのか、分からない。
振り向くと、少し案視したような表情を浮かべる篤司が立っていた。
「聞こえたよね?」
すると、篤司と瑞希は顔をひきつらせた。真音が「百音の声がしたの?」と訊ねてきたので、小さくうなずいた。
「もうやめにしましょう」
風鈴を鳴らすような、透き通った声。聞き間違えるはずもなかった。それは紛れもなく百音の声だった。百音は、いるのだ。
「分かってるはずです。あなたは通商に成功し、記憶が詰まった部屋の扉を開けることができました。同時に罪の意識も再び芽生えました。その結果が、このおままごとです」
「なんで、そんなことを言うの」
だって、百音の魂はここにあって――。
「これが何の意味もなさないことを、私が最もよく知っているからです」
「私は君を――百音を蘇らせるために頑張ってるんだよ?」
「——暮葉、何をそんな一人でぼそぼそと言ってるんだ?」
篤司が心配そうに私の側に近づき、声をかけてくる。
——うっとおしい。
「うるさい! 今私は百音と話してんの!」
「この町に、もう百音はいません。彼女はあなたの記憶の中だけにいるのです。あなたの記憶を元に蘇った――そういう点では御船の言う通りかもしれませんね。私はあなたの記憶を元に作られた存在です」
「……なんで?」
「あなたも気が付いているはずです。私はこの世にいないし、幽霊でもない。あなたの中に、あくまで人格として出てきただけなのです。……ほんの数週間前の話をしましょうか」
*
自分が百音ではないと気が付いたのは、物置に隠されたアルバムの写真を見た瞬間からだった。どう見ても私の姿とはまるで違う。髪質から異なるのだ。
——そういうことなのだろう。本当の「私」は、もう死んでいるのだ。状況証拠的にもそうとしか考えられない。もし本当に私が百音という人間なら、なんで私の部屋はあんなにも簡素なのだろう?
嫌だ。この体だと頭がおかしくなる。私のじゃない。これは私の親友の体。暮葉の体。決して私のものにはならない。
——『混ざって一人になる時が来るかもしれない』。
本当の私はどこにもいない。どうしようもない。このまま私は暮葉の体で百音として生きなくちゃいけないのか。
それは駄目だ。私のためにも暮葉のためにもならない。誰も得をしない。
何でもいい。どんな可能性の低いことでも率先してやらなくては。
「どうしたんですか? そんな思いつめたような顔をして」
ふと顔を上げると、見知らぬ中年の女が立っていた。青と金を基調としたアラブの民族衣装のような服飾に身を包み、どこか気味の悪い笑みを浮かべている。
「ああ、ごめんなさいね。宗教勧誘とか、怪しい人とかじゃないのよ。これ、私の名刺」
——「死んでしまったあの人に会いたい、を叶えます」。御船三途。
なんとも怪しい。けど、試す価値くらいはある。
暮葉の体を借りて生きるなら、いっそこういうのに引っかかるほうがマシだ。
「死んだ人を蘇らせることって、できますか?」
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