第30話

 幽霊に警告を受けながらも、瞭大の死を乗り越え、修の死を乗り越え、私は真実を追い求めてここまで到達したのだ。後戻りはできないし、きっと許されない。

「暮葉様は、もう働いていらっしゃいますよね?」

「はい」

「であれば、お値段は——まあ、最初ですからね。十五万でいかがでしょうか」

 そんなにするのか、という言葉が思わず口をついて出てしまいそうだった。そんな心中を察したように御船は小さく笑う。

「死者蘇生は、そう簡単にお教えできません。信じていないわけではありませんが、あなたが死者蘇生の方法を他者に伝えるという可能性も十分にあり得ます。この十五万は、信頼のための金額ですよ」

 死者蘇生の方法を言いふらして貶めようとする人が十五万も払えるとは思えませんからね、と御船はまるで既に経験したことがあるかのように言った。

 私は百音と話すことができるという事実と十五万円を天秤に乗せ、しばらく考え込んだ。働いているとはいえ、経営が軌道に乗っているわけではない。むしろやや赤字気味だ。私の生活は篤司によって支えられている。次に天秤の上に乗せたのは、篤司への負担と百音と話すことができるという事実だった。

 そして、当然のごとく天秤は百音の方へ傾いた。

「——払います」

「暮葉様ならそう決断してくださると思っていました」

 御船は口座番号をメモに書き、まるで賄賂でも渡すかのように慎重に私へ手渡した。それから、口を真一文字に結んで乾いた唇を舐めた後、覚悟を決めたように話し始めた。

「念のため、死者蘇生の方法は紙面に残さず、全て口承で伝えています。それが此岸と彼岸を結ぶ御船家の伝統なのです」

 こればかりはごめんなさいね、といつもと異なる少し砕けた口調で笑う。

「だから、覚えやすいように仕組みとかそういうのは省略して本当に手順だけを伝えます。振り込んでいただけたら詳しくお伝えしますが、とりあえず用意すべきものだけ伝えておきましょうか。まず、故人を想う気持ち。これが強ければ強いほど成功率は上がります。故人を蘇らせたいという気持ちだけは、絶対に忘れないでください。それと、故人への深い理解です。死者蘇生は想いやイメージを頼りに行います。その人の内面、外見全て細部までイメージする必要があるのです。そして、次に。故人の身体の一部を用意してください。これはまあ、そうですね……百音さんの場合であれば、恐らく遺骨になるかと。次に——」

「百音が、あたかも生きているかのように扱うための日記」

 ——今、私、何て言った?

「は?」

 御船は瞬きも忘れ、呆気にとられた様子で私を見つめる。口は不格好に半開きになり、私の発言をどうにか呑み込もうと思考を巡らせているようだ。

 私も同じく自分の言葉の意味を理解することに腐心していた。その日記というものは、確かに私のノートパソコン内に存在する。問題は、なぜ死者蘇生のためにそれが必要なことを私が知っているかのような口ぶりで話したのか、という点だ。私は死者蘇生の方法など知らないはずだし、知り合いの中でもその方法を知るのは——。

「あ」

 ああ、そうか。違うんだ。全て私がやったことなんだ。

 決して全てを思い出したわけではないが、一つだけ確信した。自動車事故に遭って記憶を失う前の私の行動にも納得がいく。なぜあの日記を事故の前日まで書いていたのか。

 ——『もう二度目なんだよ』。

 篤司の悲痛に満ちた声を思い出す。

「あの、暮葉さん」御船が私の顔を覗き込む。「なぜ、知っているんです」

 今までのカウンセラーのような話し方とはまるで違う、抑揚のない声だった。その言葉の端々には怒りのようなものさえ感じられる。

「すみません。やっぱり、この話はなかったことに」

 今だったら、真音の気持ちがよく分かる気がする。なぜあそこまで私の体に百音の魂を入れようとしていたのか。きっと過去の私もそれを拒むことはなかっただろう。

 ただ、私の体に百音の魂を入れる方法だと話すことはできない。私は完璧な死者蘇生を目指したい。目を見て話すことができて、体温を感じられるようになりたい。

 協力者が必要だ。死を人間の数着点にさせたくない。

「ああ、そうだ。最後に」

 私は公園の外へ向かう足を止め、御船の方を振り向いた。彼女は相変わらず何が起きているのかよく理解できていない、といった様子でこちらを見つめていた。

「私の両親は、私を恨んでいないでしょうか」

 御船はしばらくうつむき、何かを念じるように手を合わせ始めた。心臓が大きく拍動して、鼓膜に音が伝わるっている。心臓の音以外は何も聞こえない。

 そして、御船はおもむろに顔を上げ、小さな笑みを浮かべた。

「恨んでなんかいないわ。むしろ、お二人とも最期まであなたたちを想っていた」

「……そうでしたか。そう、ですか」

 この質問の分の代金は払いますので、と言い残して私は公園を後にした。携帯を見ると、時刻は七時過ぎだった。もしかしたら、もう起きているかもしれない。

 私は携帯電話を耳に当て、無機質な着信音を聞きながら朝撒町へと向かった。


「にしても——まさか、そっちから会いに来るとは思わなかったわ」

 徐々に蝉が鳴き始める頃、私と真音はとある公園のベンチに座っていた。直射日光がもうこんなにも熱く感じる。

「……私と君の目的は、たぶん一致するから」

「あら、百音の魂を入れたくなったのかしら?」

 真音は意地が悪そうに笑う。

「少し違う。百音を、本当に蘇らせる」

 私の言葉を聞いた真音は目を見開く。顔から笑みが消える。

「あなた……もしかして、全部思い出したの?」

「まだ全部じゃないよ。ただ、記憶を失った今の私でさえ、過去の私みたいに百音を蘇らせるべきだと思っただけで」

「過去の私って——」

 私は真音の声を遮るように数枚の紙をファイルから取り出した。それら全てが小さな文字で埋め尽くされている。真音はそれを手に取りしばらく眺めた後、小さく笑った。

「私も知らなかったんだけど、これ。あなた、一人で百音を蘇らせようとしてたのね」

 真音すら知らない、というのは少し予想外だった。てっきり私は百音を蘇らせるために真音と協力していたのだと思っていたが。

 まずい。少し混乱してきた。いくつもの情報が錯綜している。

「ねえ、真音」

「どうしたの?」

「私に死者蘇生の方法を教えたのは何年前かな?」

「今は、えっと——そうね。七年前よ」

「初めて私の体に百音の魂を入れたのは?」

 真音は少し答えるのを嫌がり視線を逸らしたが、それでも私がじっと向いていることに気付いたのか、降参だ、といった調子でため息をついた。

「それも七年前よ」

「……そうか」

 これで時系列の整理と修の田畑を売った理由が分かった。七年前は百音が死んだ年。その年に真音は私と一緒に死者蘇生を試みたが失敗し、次に百音の魂を私に移す方法を御船から買い、実践した。恐らくそっちは成功したのだろう。実際、数日前の私の体はすんなりと百音の魂を受け入れたからだ。器として完成しているに違いない。

「親不孝者だったんだね、真音も」

「親不孝者だなんて、失礼ね。むしろ逆よ。私は両親のため、そして百音のためであればそこまでする覚悟があったってだけ。あなたの体を使ってでも、私は、百音と話したかったから。思い出せないだろうけど、あなたもそうだったんだから」

「違いない」

 私は重苦しい空気を紛らわせるように笑った。だが、喉の奥を鳴らしたような乾いた笑いしか出なかった。

「それで、私を呼んだってことは、死者蘇生に協力してほしいってことよね?」

「もちろん。ただ、御船さんの話を聞く限りでは、私は百音について全て思い出す必要があるみたいだから」

「……ああ、そっか。『用意すべきもの』ね」

 私は力強くうなずいた。

 死者蘇生にはイメージを利用する。そのため、故人の外見や内面をしっかりと把握しなくてはいけないのだ。真音を呼んだのはそれが理由である。

「つまり、私が百音の全てをあなたに教えればいいのね」

「そういうことになるね。まあ、何か教えてもらったらそれをきっかけに全て思い出せるかもしれないが」

 私は記憶を失っているわけではない。記憶を思い出すことにひどく臆病になっているだけなのだ。

 ——そういえば、私はなぜ百音のことを思い出したくないのだろう?

 確かに私と百音は一緒に転落事故に遭い、私だけが生き残ってしまった。

 ただ、それならむしろ百音のことを忘れてはいけないと思うはずだ。考えられるのは、過去の私はそれほどまでに精神が弱っていた、ということだ。リストカットのことも考えたらそれが自然だろう。だとしたら、なぜ心が弱っていたのだろうか? 

 分からないことだらけだ。私は長谷川暮葉のことも、古橋百音のことも、まだほとんど何も思い出せていない。

「……あなたからそんなことを提案するなんて、本当に覚悟ができるのね。あなたに百音のことを思い出させようとしたのが、ついに功を奏したってところかしら。いいわ。教えてあげる。うちに来なさい。百音の写真も見せてあげるわ」

 真音がベンチから立ち上がった。彼女もまた、覚悟を決めたような鋭い瞳をしていた。


 その部屋は、あまりにも簡素だった。木目調タイルに、白い壁。南側にカーテンの付いていない小さな窓が一つ。物はほとんど置かれておらず、部屋の隅には小さな段ボールが二つほど積まれていた。

「私の記憶が正しければ、あなたがこの部屋に入るのは初めてなのよ、実は」

「そうだろうね」

 この部屋に入っても百音との記憶が蘇らないという事実が、彼女の言葉に説得力を持たせていた。本当にこの部屋が百音の部屋だったのか、少し疑ってしまうほどに実感が湧かない。

「……見る?」

 真音はただ私の目をじっと正面から捉え、そう訊ねた。私は小さくうなずき、「もちろん」と言った。その声は今にも消え入りそうなほどに小さく、震えていた。

 真音は部屋の隅にある段ボールを開き、その中から青いアルバムを取り出した。背表紙には「百音 ~十四」とだけ書かれていた。

 生前までの写真が、全てそこに載っている。緊張で体が小刻みに震えている。脇にはじっとりと汗をかいている。頭がズキズキと痛む。窓の外で鳴いているであろう蝉の声も、心臓の音にかき消されてしまっている。

「……これ」

 真音がとあるページを指差し、私に見せた。

 それは、「方戸かたど中学校入学式」と書かれたボードの横に二人の少女が立っている写真だった。どちらも新品の制服を着て、少し緊張した面持ちでカメラに向かって笑みを見せている。

 向かって右側の少女は黒い長髪で、少し癖のある髪質をしていた。きっと、これが私だ。

 そして、左側に立っている少女。薄幸な顔つきだ。肌は白く、今にも春の日差しの中に消えてしまいそうな儚さを備えている。目元や口はわずかに真音に似ているようにも見える。奇麗なストレートの黒髪はロブほどの長さで切り揃えてある。

「ああ……」

 思わず声が漏れてしまった。

 ——懐かしい。強い郷愁感が心を締め付ける。この子が、百音。そうだ。私はずっと、彼女を。

 彼女を、忘れていたんだ。

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