第29話

「夕ご飯、食べよっか。レストランでろくに食べずにこっち来ちゃったんでしょ?」

「……はい」

「ね」

 瑞希の、その健気な笑みに、私の心がわずかに痛んだ。

 きっと彼女の目に私は異常者に映るだろう。精神病棟から飛び出してきた友人を無理に受け入れてくれているような、そんな目をしていた。昼の出来事も相まって、私が疲労から気が触れてしまったのだと思っているに違いない。


 次の日の早朝、瑞希が起きるよりもずっと早く、私は水木家を飛び出していた。時刻は午前四時前。こんな時間でも大丈夫なのかと訊ねたところ、彼女はあっさりと了承してくれた。彼女自身かなりの早起き体質らしく、話し相手にはちょうどいい、とのことだった。

 電車は動いていないが、私は隣市の駅の方へ歩みを進めていた。この時間に出れば四時半までには確実に着くだろう。

 集合場所は駅前にあるベンチしかない公園だ。条例のために作られたような、無造作に作られた公園。何のために生まれたのか分からない公園。少しだけ、親近感を覚えてしまう。

「お話しするのは、今日で二度目ですね」

 公園に到着して早々、脂の乗ったような粘り気のある声が私にかけられた。声の方を向くと、前と同じようなアラブの民族衣装らしき服飾に身を包んだ御船がベンチに座っていた。膝の上に緑表紙の厚い本を置き、上品に手を重ねている。

「以前は申し訳ありませんでしたね。あれも真音様の依頼でしたので。私はあくまで契約を履行しただけでして」

 私は無言のまま御船の隣に腰掛け、できるだけ威圧的に見えないようにそっと話を始めた。少しでも角が立つような発言をすれば彼女はすぐにでも帰ってしまうだろう。それほどまでに彼女の立場は私よりも遥か上にあるのだ。

「昨日の夕方に差し上げたお電話の内容は、あなたにしかできないと、私はそう信じています」

「いい心がけです」御船は、まるで新興宗教の教祖かのように尊大な態度をもってうなずいた。「誰にも相談なんかできませんからね」

「ですが、まだその目で見たわけじゃありません。正直に申し上げてしまうと、まだ半信半疑というか」

 私がそう言うと、御船は少し宙に目を向け、それから道徳を説く教師のように語り始める。

「信念とは重要なものです。それが正しいと信じる人間の、全ての行為の源です。人は何かを信じなければ指一つ動かせません。あなたが呼吸をした瞬間、炎症を引き起こすウイルスが肺へ侵入するかもしれない。あなたが一歩前に歩みを進めた瞬間、頭上から看板が落ちてくるかもしれない。全てを疑えば何もできなくなります。呼吸しても問題ないだろう。歩いても問題ないだろう。そういう信念が人生を歩むたびに積み重なって、今のあなたは呼吸や歩むことができるんです。ここまでの話は、分かりますか?」

 私は少し微笑んでうなずいて見せた。御船は満足そうに大きく息を吸って、まだ藍色の空を見上げる。その姿は天に祈りを捧げているようにも見えた。

 私も彼女の視線を追うようにして空を見上げる。まだいくつかの星々が瞬いていて、細長い三日月が浮かんでいた。

「それならば、ここからの話も簡単です。あなたは死者蘇生を疑っていますね。だから躊躇ちゅうちょしているのでしょう。そんなことに手間をかけて何の価値があるのか。この際ですから、少し、過去の話をしましょう。私にとっては比較的最近ですが、あなたにとっては遠い昔のこと——七年前の話を」

 途端に、心臓がぎゅっと握られるような感覚に襲われた。思わず御船の方を見る。彼女は目尻のしわを殊更ことさらに深くさせ、それでもなお空を見つめていた。

 今すぐにでも耳を塞ぎたい。だが、そのたびに百音が、瞭大が、誰よりも過去の私が私の腕を力強く掴んで離さない。お前だけは現実を聞き届けろと責め続けるのだ。

「『古橋百音を蘇らせてほしい』。七年前、私の事務所にそんな依頼が飛び込んできました。依頼主は古橋真音——ええ、あなたもご存じでしょう。百音さんのお姉様です。彼女は『死者は蘇る』という信念を持って私を訪ねたのです。というより、信じる他なかった、と言うべきかもしれません。ずいぶんと鬼気迫る表情だったのを、今でも克明に思い出せます」

「じゃあ」声がひどく震える。「百音は、七年前に既に蘇っているってことですか」

「……そのように訊ねるということは、あなたの心のどこかにも、きっと信念が積み上がっているのでしょう?」

 御船は、まるで心を見通しているかのようにそう言って笑った。まったくもってその通りだった。千駄咲神社の幽霊はもちろんのこと、あの日記も全て真実を記したものだったのかもしれない。私が自動車事故に遭った時に無傷だったのも、もしかしたら蘇った百音が助けてくれたからかもしれない。

 いや、しかし。そうなると真音の行動があまりにも不可解だ。なぜ彼女は私の中に百音の人格を作り上げようとしたのだろうか。百音が蘇っているのならば、その必要はないはずだ。

「いえ、まだ懐疑的です。失礼ですが、一つだけ質問させてください」

「いいですよ」

「ほんの数日前、真音が私を百音として扱っていました。もし百音が蘇っているのであれば、そんなことする意味が分からないんですが」

「ああ、それは」

 御船はそこまで言って、電源が切れたかのように先ほどまでの饒舌さを失い、閉口した。辺りがしんと静まり返り、遠くから響く犬の鳴き声が朝の到来を感じさせる。

「七年前の真音様は、その——どうやらミスをしてしまったようなんです。だから、私は百音さんの魂のみを利用する方法を教えました。死者の蘇生には、まあ、様々な行程があるのですが——本来であれば蘇らせたい人の身体の一部を用意する必要があります。此岸しがんに戻るための依代よりしろが要るんです。そうすることで生身の体を持つ百音さんを蘇らせることができます。しかし、やはり一部となると儀式を成功させるのは難易度が高いのです。欠損部分まで取り戻すことはかなり難しいですから。それに、死者の身体の一部よりも、五体満足で揃っている生身の依代を用意する方が簡単です。つまり、別の人間の体に魂だけを入れて疑似的な死者蘇生を試みよう、というものです」

「その対象が、私だった」

 御船は深くうなずいた。

「ちょっと、待ってください。ということは、私は過去に、既に」

「はい。あなたの体には既に二度、百音さんの魂が出入りしています」

 そう告げられた時、確かに驚きはあったのだが、それと同時に納得がいった。変だとは薄々思っていた。どうしてああも簡単に真音のことを姉だと信じ込んでしまったのか。なぜ真音はあの時、一切の躊躇もなく、喜ぶような様子も見せずに私の体を乗っ取った百音を受け入れたのか。

 既に一度、私の体に百音の魂が入っていたのだ。その影響で私はいとも簡単に真音が姉であるということを信じ込んでしまったのだろう。

「生身の人間に別の人間の魂を入れる際に必要な条件の一つが、強いストレスです。その瞬間だけは魂の所在がかなり揺らぐことになる」

「魂の、所在」

 私はそう呟きながら、あの時の記憶を掘り返す。確かに、私が誰なのか分からない瞬間はあった。それが魂の所在が揺らいでいる、という状態だったのだろうか。

「その様子だと、見に覚えがあるようで」

 私は黙って頷いた。

 では、千駄咲神社の幽霊は何なのだろう。百音は生き返っていないというのなら、あの幽霊は誰なのだろうか。

「じゃあ、あの千駄咲神社の幽霊は」

「幽霊、ですか?」

 御船は興味ありげに私の顔を覗き込む。私は彼女から視線を逸らし、ゆっくりと言葉を選びつつ話し始める。

「は、はい。夢でも見たんじゃないかと思われてしまうかもしれませんが、千駄咲神社——今はもう廃神社となっているのですが、そこで百音の幽霊と話したんです。御船さんなら、何か分かりますか?」

 私がそう言うと御船は眉間に皺をよせ、右手を顎に添えて何かを考え始めた。しばらくの沈黙の後、やはり結論は出なかったようで彼女は小さく首を傾げた。

「すみませんが、私にも分かりません。幽霊、魂、死者蘇生——どれもまだ未知の部分が多いのです。科学の世界においてあくびが出る理由が不明であるように、プラシーボ効果がなぜ起こるのか不明であるように、幽霊とは何なのか、という疑問については私たちの業界においてもよく分かっていません。あえて推測をするならば、そうですね——先ほど、暮葉様の体には七年前に百音さんの魂が入ったことがある、という話をしましたね? そこで一度、百音さんの魂はこの世に対する『縁』のようなものができてしまったのかもしれません。生身の人間を使った死者蘇生は、いわば椅子取りゲームです。入れなかったもう片方の魂は弾き出されてしまうのです。その証拠に、百音さんがあなたの体に入っていた時の記憶はかなり曖昧なはずです。砂浜を歩くのを拒否したという話、あなたは覚えていないでしょう?」

「……はい」

「そうでしょう。今、暮葉様の体には暮葉様の魂が入っている。では、再び弾き出された百音さんの魂はどこへ行くでしょう?」

「——『縁』ができたから、この世に留まり続ける」

 御船は満足げにうなずき、膝の上に置いた私の手に右手を重ねる。

「それを頼りに具象化したのが千駄咲神社の幽霊の正体、ではないでしょうか。幽霊は自身にとって思い出、もしくは未練のある場所に留まり続けます。町の人々にとってはただの廃神社でも、あなたと百音さんにとっては大切な、ふたりの思い出が詰まった場所だったのでしょうね」

 思い出が詰まった場所。それは心の奥底へ妙に沁み込んできた。

「……はい」

「でしたら、後の話は単純です」御船が目尻に皺を作る。「あなたが百音さんを蘇らせればいいんですよ」

「そう……ですね」

 あれは——そうだ。海で百音に助けてもらったという出来事を思い出してからのことだ。私は、百音と話したいという気持ちが日に日に増して強くなっているのを感じ取っていた。扉越しではなく、直接会って話がしたい。視線を合わせ、彼女の手を取り、感謝と、忘れてしまっていたことの謝罪をしたい。

 それに、もう、ここまで来てしまったのだ。私は。

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