第28話
篤司の顔が引きつっている。それもそうだろう。数日前の私だったら、今の私がこんなことを言うなんて信じるはずがない。篤司と同じように顔を引きつらせるはずだ。
ふいにウェイトレスが料理をワゴンに乗せて運んできた。篤司の前には鮮やかなミントが飾られているカニのトマトクリームソースのパスタとシーザーサラダが置かれ、私の前にはボロネーゼとカプレーゼが置かれた。
「言ってないからね」
「暮葉、お前——」
「そうだ。私がずっと書いてた小説、篤司は読んだことあるかい?」
私はボロネーゼをフォークに巻きつけながら訊ねてみる。
「……いや」
「あれ、小説なんかじゃなかったんだ。私と百音の思い出がぎっしりと記録されてた。私が自動車事故に遭う前日までの思い出が、あたかも百音が今も生きてるみたいに」
「い……いや、待ってくれ」
「篤司、頼みがあるんだ」
私はじっと篤司の目を見た。彼の瞳には困惑と若干の恐怖の色が入り混じっていた。
「御船と話がしたい。死んだ人と会うことが本当にできるのか、訊きたいんだ」
「それだけは、やめろ。傷つくのはお前だ」
「もう思い出したんだ。私が百音じゃないことなんて、とっくに自覚してる。今度は前みたいにはならないよ。それに、今回は篤司もいてくれるだろう?」
「そうじゃない。違う。違うんだ、暮葉」
篤司の声が震えていた。彼は両肘をテーブルに突き、そのまま両手で目を覆う。
「もう二度目なんだよ」篤司は苦しそうにそう続けた。「お前は前と同じことを繰り返してるんだ」
篤司の言っていることがよく分からなかった。理解できたのは、過去の私も似たようなことを言ったのだろう、ということだけだ。
「いや、ちょっと篤司。何を言ってるのかちゃんと——」
「暮葉。お前はまだ全部を思い出してない。ああ、分かったんだ。なんでお前が書いてたのが小説じゃなくて日記なのか。真音の話と辻褄が合うんだよ。あいつはまだ続けてたんだ。諦めたわけじゃなかったんだ。いや、違う。暮葉、お前か? 通りで前に——くそ……! なんでこうなるんだ? おれたちは百音を中心に回ってるのか? いや、もうとっくにそうだったんだろう。七年前から、おれたちはずっと一つの事故を——」
篤司は私のことなど意にも介さずにぶつぶつと独り言を呟いている。私の目にはそれがひどく不気味に見えた。
「篤司?」
なかば発狂した様子の兄の名前を口にして初めて、私の声が震えていることに気が付いた。私と篤司の間にある不可視の何かが音を立てて崩れ始めているような気がした。それが兄妹の絆なのか、はたまた正気と狂気の境界面なのかは分からないが、とにかく二人の間には明確な溝ができたように思えた。
「すまない、暮葉——こんな兄で、すまなかった。おれはお前が望むことを何一つ叶えてやれない。お前が知りたいことを教える勇気も、お前がやりたいことを手伝う勇気も——おれの家族は、お前しかいないんだ。だから、お前が側から離れることが、ずっと」
そう言ったきり、篤司は両目を手で覆ったまま何も言葉を発さなかった。肩が小刻みに震えている。泣いているのだ。
私はふと篤司の前に放置されたパスタに目をやった。上に乗っているミントがひどく色
私はゆっくりと息を吐いた後、つとめていつもより明るい声で話しかけた。
「篤司。私はね、篤司の妹で本当に良かったと思っているよ。そりゃあもちろん喧嘩することだってあったし、今回だってもう何度も衝突したさ。お互いがお互いに譲れないところがあって、まるで規模の小さい宗教戦争みたいだった。でも、今思い返せば、折れるのはいつだって篤司の方だった。篤司がいつも折り合いをつけてくれるから、私は今ここにいる。私がじゃんけんでグーを出したら、君は呆れたようにチョキを出してくれるんだ。そのお陰で私は——百音のことを忘れたがった弱い私は、少し変わりつつあるんだ」
私は財布から一万円札を二枚出し、机の上に置いた。そして立ち上がり、ロングコートの襟を整える。
「だから、私はもう篤司にあまり迷惑をかけたくないのさ。知っていると思うが、私はもう二十一歳なんだ。同年代の大学生であれば、そろそろインターンシップが始まる頃だろうね。もしかしたらもう始まってるのかもしれないけど。夏は一人立ちの季節だ。いよいよ本格的に親元を離れる準備をしなくちゃいけない。そういう季節だ。今はそういう季節なんだよ」
篤司は顔を上げることもしなかった。眠っているようにも見えた。
「じゃあね」
私は店を出ると、すぐに携帯を取り出して電話をかけた。
「ああ、どうも。暮葉です。今からそっちに行きます——ああ、もちろん、お金も持って行きますよ」
インターホンを押し、軽快な電子音と共に来訪を告げる。インターホンのすぐ横には「水木」と刻まれた表札が飾られている。
玄関の扉が大きな音を立てて開き、笑みを湛えた女が私を迎え入れた。
「ようこそー」
「すみませんね。数日の間、厄介になりますよ」
「いいのいいの! お父さんもお母さんもちょうど旅行してるし、暇してたところだから。むしろ話し相手が来てくれて嬉しい」
瑞希はにっこりと笑って私の手を取り、そのまま家中を案内した。一般的な家屋と花屋が併設されており、一階のリビングらしき部屋は花のかぐわしい香りに包まれていた。主な生活スペースは、長谷川探偵事務所と同じように二階にあるようだ。
「——と、うちの構造はだいたいこんな感じ。場所が分からなかったらいつでも訊いてね」
私がうなずくと、瑞希は小さく笑った。おかしくてたまらない、といった調子だった。
「どうしたんです?」
「いや、まさか暮葉ちゃんがうちに来る日が来るとは思わなくてさ」
「そんな変ですかね?」
「変って言うとあれだけど……ほら、暮葉ちゃんは百音ちゃんに一途だったから。てっきり私のことは友人だとも思ってないとばかり、ね」
「……やっぱり、百音のこと、知ってるんですね」
「え?」
瑞希は目をぱちくりとさせた。私の言葉の真意を思案しているようだった。
「言ってませんでしたよね。私、記憶がないんです。百音の。最近になって多少は思い出せているんですけど」
「……そうなんだ」
すると、瑞希は困ったような笑みを浮かべた。彼女も私と百音が遭ってしまった事故のことを知っているのだ。
「それで、笑わずに聞いて欲しいことなんですが——少し、試したいことがあるんです。もちろん、手伝ってくれなんて言うつもりはありませんが」
「試したいこと?」
「百音と会います」
「……え? いや、いやいや——何言ってるの?」
瑞希は明らかに動揺した様子で訊ねてくる。彼女の当惑はもっともだろう。私は今、とんでもない言葉を口にしている。
「とはいえ、それで百音とずっと過ごしたいとかってわけじゃないんです。私は単に過去と
「いや、駄目。駄目だよ。ちょっと落ち着こう? まだ疲れてるんだよ。今はいったん、百音のこと忘れよう。ね?」
「もう散々忘れてきたんですよ!」
思わず私は声を荒げてしまう。瑞希の顔に動揺の色が浮かんだ。
「……すみません。もう、とにかく私は百音のことを忘れられないんです。忘れたくても、ずっとずっと脳裏に、鼓膜に、張り付いているんです。今すぐにでも気が狂いそうなんです。あの奇麗な声が、あの笑顔が——あの泣き腫らした顔が、故障したテレビみたいに延々と流れていて——」
私は思わずえずいてしまう。胸のところまでどろどろとした温かいものがせり上がってくるのを感じる。
「とにかく、私は百音と会います」
「……それで、うちに来たんだ」
「はい。でも、瑞希さんには一切の負担をかけません。これは私一人でやります。私がけじめをつけなくちゃいけない」
ふいに瑞希の手が私の手を包み込む。彼女は今までに見たこともない悲しげな表情を浮かべていた。
「言うかどうか迷ったんだけど、君がそこまで追い詰められてるなら言うべきだと思ったから、伝えるね。これから私が発する言葉は、あくまで君を想って、だからね」瑞希はそう前置きを置くと、少し緊張した面持ちで深呼吸をし、再び口を開いた。「百音ちゃんのおじいちゃん、知ってるよね? あの人、その——家で、首を吊ったらしいの」
「え」
口から反射的に声が漏れ出た。修が死んだ? どうして? いや、理由は明確だ。瞭大の死がそのきっかけだろう。
「だから、今はあまり古橋さんの家に関わることをしたり言ったりするのは、その——頭悪いから上手く言えないけど、駄目だと思うの。特に、死んだ人と会いたい、なんてのは」
——『死んでくれませんか?』
鼓膜に張り付いた、千駄咲神社の幽霊の声。あっけらかんとして人の死を願う声。
両腕に鳥肌が立った。冷房のせいではなく、恐怖で身が凍るような思いだった。
「ねえ、暮葉ちゃん。君、もしかしたら百音ちゃんに憑りつかれてるんじゃないの? いや、まあ、私は幽霊とか基本的に信じないタイプだけど——あまりにも変っていうか。百音ちゃんのことしか考えられなくなってるみたいな、そんな感じだよ」
——『おれたちは百音を中心に回ってるのか?』
篤司の悲痛さすら感じられる声を思い出す。彼の言う通りだ。私たちを取り囲む人間関係や生死は、そういう風に回っている。そして、百音に関わった人間は皆、狂い始めている。自分だけは正気だと、皆が思っているのだ。
「瑞希さんは、百音のことを知っていますか?」
「え?」
「百音を、正しく知っていましたか? 彼女の好きなものだとか嫌いなものじゃなくて、心根の部分にある、もっと深いものを。想い、と言ってもいいです」
「えっと」
瑞希は私から視線を外し、悩まし気な仕草を見せる。一分ほど閉口し、それからおもむろに「何も、知らないかも」と呟いた。その声はどこか後悔をはらんでいるようにも聞こえた。
「私も知らないんですよ。私が、ですよ? それがどれだけ異常なことか、瑞希さんには分かるでしょう」
瑞希は否定しなかった。かといって肯定するわけでもなかった。私の次の言葉を待っているようだった。
「私と百音には、会話が必要なんです。話さなくちゃいけないことが山ほどあって、知らないことばかりなんですよ」
私が忘れているだけなのかもしれませんが、と付け足す。瑞希はなんとも言えない表情で私を見つめ、それからおもむろに立ち上がった。その場の圧に耐えきれず、おもわず飛び出してしまったようだった。
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