第27話
千駄咲神社を後にして、私は日慕山周辺を散策していた。修から教えてもらった「展望台」の入口がどこかにあるのではないか、と辺りに注意を払いながら歩く。
結論から言って、「展望台」へ続く道はどこにも見当たらなかった。例の事故はもう七年も前の話なのだ。封鎖は当然のことだろう。私はなかば消沈したまま、家路を辿った。
探偵事務所の前に着いた時、誰かが玄関前にいることに気が付いた。最初は真音だと思ったが、それにしては少し背が低かった。そこでようやく、瑞希であることに気が付いた。
「瑞希さん」
私が背後から声をかけると、彼女の肩が小さく跳ねた。
「ああ、暮葉ちゃん。今帰ってきたんだ」
「はい」
瑞希は少し呆れたように笑う。
「これ。夏バテとか熱中症とかの可能性もあるかなって思ったから。目に見えて不摂生だったし」
左手に握っているビニール袋を前に突き出した。中にはスポーツドリンクや塩分タブレット、カロリーメイトなどが入っていた。わざわざ買って来てくれたのだ。
「ゆっくり休むんだよ」彼女はそう続けた。「夏季限定だけど、うちのお得意様、みたいなところもあるんだし。中学からの長い付き合いなんだから」
私はどうにか涙をこらえながらビニール袋を受け取り、「ありがとう、ございます」と言った。
「『ございます』は付けないの」
その言葉に聞き覚えがあった。あれは——そうだ。私と百音が「展望台」で会話した時に、私が言った言葉だ。まさか、ここにきて言われる側に回ることになるとは思わなかった。
——私は今、なぜ「展望台」での会話を?
私が黙ったままでいると、瑞希はにっこりと笑って「じゃあ、私は帰るね。ちゃんと休むんだよー」と言い、手をひらひらと振りながらその場を去った。私の心には、そこはかとない寂莫感だけが取り残された。
重い足取りで事務所の扉を開け、ビニール袋を机の上に置いた。それからロングコートを脱ぎ、そのまま脱衣所へ向かった。
シャワーを浴びながら、私はずっと百音のことを考えていた。今の私は、御船のように言えば、つるべ井戸につるべが付いていることに気が付いている。記憶を思い出すことができる、と学んだ状態だ。それであれば、私は他の百音に関する記憶を思い出せるかもしれない。
そんな折、ふと頭に浮かんだのは、瑞希の笑顔と言葉だった。
——『中学からの長い付き合いなんだから』
よくよく考えてみれば、私と瑞希はどうして仲が良くなったのだろうか。彼女とは五歳差であり、とてもじゃないが関わることなどあまりないだろう。経験則からして、私の記憶にない事柄は大抵が百音に関わることだ。きっと瑞希と私の間にも百音が関わっているのだろう。今度、訊いてみよう。その時は献花の料金も持っていこう。
この富士通製のノートパソコンは、もう三年近く使っているものだ。十九歳で探偵学校に入り、その際に「絶対に使うから」と篤司が買ってくれた。約十数万する買い物だったらしいので最初はかなり気が引けたが、今になってみると買ってもらって正解だったと思う。今でも現役としてしっかり働いてくれている。
私が小説を書いていた、というのはずいぶん前に篤司が教えてくれたことだ。最初に言われた時、私は自分が忘れていることにすら気付いていなかった。つまり、これも百音に何かしら関連があるのだろう。
パソコンを立ち上げて最初に目に入るのは、初期設定から何も変えていないどこかの自然風景だ。明らかに日本の景色ではない。おそらくシベリア地方のタイガだろう。
私はまずエクスプローラーを開き、ダウンロードの中身を確認した。正直に言えば、小説を書くという習慣はおろか、どこにその文章を保存していたのかすら思い出せずにいるのだ。
しばらく画面をスクロールしたが、見当たらない。次にドキュメントを開くと、ふいに一つのファイルに目がいった。それはマイクロソフトのワード文書であり、タイトルに「日記」とだけ書かれていた。最終更新日は私が事故に遭う一日前であり、これが私がずっと書いていた小説なのかもしれない、と思い開いてみる。
すると、画面いっぱいにこまごまとした文字の羅列が表示された。それは不気味なものだった。心臓が大きく拍動しているのに、その文字列から目を離せない。
その内容は、百音との交流について書いているようだった。電話をしたこと、一緒に買い物に行ったこと、元旦に一緒に初詣に行ったこと、「展望台」から入道雲を見たことなどの出来事が主な内容のようだ。
奇妙な点は、これらがまるで今年起きたことかのように書かれていることだ。あたかも百音が生きているかのように、彼女の人生の続きとも言うべき内容が書かれているのだ。何より気味が悪いのが、毎日百音と出かけたり通話しているわけではなく、これといって何もない一日ですらしっかりと書かれていることだ。創作物にしては妙なリアリティがある。まさに日記だ。
——『既に誰かが蘇っていることに、誰も気付いていないのかもしれません』
千駄咲神社の幽霊が百音であるという言説を支えるには十分な証拠だった。私は過去の記憶が欠如している。私は、本当に蘇った百音と一緒に過ごした時があったのかもしれない。
時計を見ると、まだ昼の一時過ぎだった。私は瑞希から貰ったカロリーメイトをかじりながら、たっぷりとある時間を使ってこの日記を全て読むことにした。
私は暗闇の中で立っていた。ふと隣を見ると、百音が座り込んで眠っていた。
「ほら、百音。こんなところで寝ると風邪引くよ」
私はしゃがみ込み、百音の肩を揺らしながらそう話しかけた。彼女はゆっくりとまぶたを開け、それから私を見て笑った。
「おはよう」
「おはよう。ほら、今日はもう帰ろう」
その時だった。ふと、スカートのポケットに入れていた携帯から無機質な男性の声が流れ始めた。回線が悪いのか、それは途切れ途切れであった。
「続いてのニュース——午前八時頃——山で、女子中学生の長谷川暮葉——百音さんが滑落し——病院に緊急搬送——百音さんのみ死亡が確認されました」
ふいに、扉を叩く音が聞こえた。同時に、くぐもった男の声が聞こえる。
「おい、暮葉! 早く出てこい!」
それと同時に、蝉の鳴き声が辺りに響き始めた。ここは——ああ、そうか。ここは千駄咲神社の本殿の中だ。
「ねえ、暮葉」
百音が口を開く。私は反射的に百音の方を見る。
「私とあなたは二人で一人。そうですよね?」
目が眩むような頭痛に、何度も襲われた。それが小さい文字を見過ぎたことによる眼精疲労なのか、百音との思い出について脳が刺激されたゆえの痛みなのか分からないが、とにかく私は読み終えた。読み終えた後に気が付いたことなのだが、どうやら文字数は二万近くもあったようだ。
私は背もたれに体重をかけ、大きく伸びをしながら時間を確認した。いつの間にか六時を過ぎようとしていた。途中で何度も休憩を挟み、昼寝もしてしまったのが原因だろう。悪夢らしきものを見たような気もしたが、記憶には微塵も残っていない。うっすらとした夢の輪郭だけが残っている。
空はわずかにオレンジがかっていて、じゃわじゃわと騒ぐ蝉の声に混じり、六時を知らせるチャイムと町内放送が鳴り響いていた。
日記の内容を見た限り、これといって特異的な部分は見当たらなかった。誰かの日記を除いているような、妙な罪悪感すらあった。私の胸中には、ただただこのような思い出があったような存在しなかったような、という曖昧な心地だけが残った。
百音は七年前にもう死んだのだ。自分に言い聞かせるようにそう心の中で呟いた。決して蘇ることはなく、この文章内にあるような出来事はこの先も絶対に起こらない。
ふと、キーボードの上に雫が落ちた。雨漏れかと思い思わず天井を見上げたが、それらしい様子はない。私の心とは真反対の、白い天井がぼやけた視界いっぱいに広がっている。
私はそっと自分の右頬を撫でた。指先がわずかに濡れた。
「思い出したのか」
「ああ、まだ一部分だけど」
「そうか」
篤司の提案で妙に厳かな雰囲気が漂うレストランに連れていかれた私は、ゆっくりと海で百音に助けられたのを思い出したことを話した。篤司にとっては過去のことでも、私からしたら新事実に等しいのだ。
「気分はどうだ?」
私が話を終えた後、篤司は開口一番にそう訊ねてきた。
「え?」
「今の気分だ。百音のことを多少は思い出して、どんな気分だ? 苦しくはないか? 今すぐにでも死んでしまおう、なんて思ってないか?」
最初、やはり篤司はこんな私を責めているのだと思った。だが、その目つきは品定めするような厳しいものではなく、ただ心配をしているだけだと気付き、目を伏せたまま呟いた。
「大丈夫」
言い聞かせるような言葉だと、自分でも思った。
「そうか。……これから、百音がいなくても生きていく自信はあるか?」
「それは——まだ、分からないよ。私はまだ全てを知ったわけじゃない。納得してないことがいくつもある」
「千駄咲神社の幽霊のことか」
「それもあるし、どうして『展望台』にいたのか、というのも」
「なあ、暮葉」篤司は手元のおしぼりをしきりに触り、明らかに落ち着きがない。「幽霊なんか、いると思うか?」
「私は」
目黒との会話を思い出す。幽霊がいないなんて証明はできない。観測していないだけで、幽霊は既にこの世にいるのかもしれない。
「幽霊なんか、いないと思っているよ。……でも、もし。もしも幽霊がいるんだとしたら、私は喜ぶと思う。例え幻覚だったりしても、死んだ人とまた会えるなら——」
「いないんだよ!」
思わず体がビクッと跳ねる。篤司も自分が反射的に声を荒げたことに気が付き、「すまん」と呟く。
「ありえないんだ。死んだ人が蘇ったり、幽霊になって姿を見せるなんてことは。死の恐怖に人が少しでも抗うための空想だ。死んだら極楽浄土に行けるっていう思想となんら変わらない」
「でも、私は確かに百音の幽霊と千駄咲神社で話したんだ」
「……おい、何だその話。聞いてないぞ」
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