第26話

 そこで、ふいに嫌な妄想をしてしまった。

 私が夜道を歩いていて、後ろから忍び寄っていた真音に刺される、なんてことはないだろうか。私は百音として生きることを捨て、真音から逃げてしまったのだ。あり得なくはない話だ。

「分かりました」

 私は力強くうなずいた。修はそれを見て少し満足したように目を細めた。真音の笑い方と似ているな、とふいに血筋を感じた。

「それでは」

 修は小さく会釈し、足を引きずるような、少しぎこちない足取りでその場を離れる。だが、ふいに道の途中で立ち止まり、こちらを振り向いた。

「百音のことを知りたかったら、『展望台』へ行ってみてください」

「展望台——ですか?」

 私の知る限りでは、この町に展望台のようなものはなかったはずだ。しかし、修が冗談を言っている様子はない。

「はい。ただ、私も詳しくは知らないのです。『展望台』に行ってくる、と百音がたびたび口にしているのは聞きました。もしかしたら、あなたとの思い出の場所なのかもしれません。あなたたちは、本当に仲が良かったようですから」

 それでは、と修は再び小さく会釈をし、歩き始めた。ただでさえ小さいその背中が、見る見るうちに消えてしまいそうなほど縮こまっていった。

 私の記憶に「展望台」というワードは一切存在しない。だが、なんとなくどこにあるのかは察していた。あの新聞の記事の内容を考えると、恐らく日慕山にあるのだろう。地すべりが起きた後日、私と百音は何か理由があって「展望台」へ行ったのだ。どちらにせよ、千駄咲神社に行こうとは思っていた。ついでに探してみよう。


 この景色は、私の記憶に存在するどんな光景よりもずっと色濃く残っている。音を鳴らす木々の葉、目まぐるしく模様を変える木漏れ日の影、中途半端に取り壊された本殿、苔むした参道と狛犬の像。鼻の奥を突くカビの臭いも、入り乱れる蝉の声も、もはや食傷気味だ。

 だが、千駄咲神社の幽霊だけは違う。彼女はいつもこちらが驚くような言葉ばかり口にする。そして、私はどこかで、彼女との会話を楽しんでいるような気がしている。私の過去を知るために会話を望むのではなく、まるで友人との会話を楽しむかのようだ。

 本殿の扉の前に立つ。心臓の高鳴る音が全身を伝い、私の鼓膜を打ち震わせる。


「——りんが」


 そんな心臓の音をかき消すかのように、声が聞こえる。風鈴を鳴らすような、触れれば壊れてしまいそうな、官能的な声。

「やあ」

 私はいつもの調子で声をかける。声のトーンを落とし、努めて冷静と平静を装う。

「せっかくお姉ちゃんから逃げたのに、ここに来てしまったのですね」

 彼女がふいに吐いたその言葉を、私は最初、その意味を上手に理解できなかった。初めて錠剤を飲むように、慎重にその言葉をゆっくりと呑み込んでいく。

 彼女はなぜか、今の私の境遇を知っている。だが、それはもはや些細な問題だ。千駄咲神社の幽霊は、間違いなく百音である。そんな事実が、ずん、と私の胸を重くする。目黒との会話を思い出す。

 ——『暮葉さん。死んだ人って、蘇ると思いますか?』

 答えは簡単だ。。今こうして、私はその非科学的な存在と話をしている。科学と霊魂の勝負は、ついに霊魂の白星で終わりを告げる。

「君は、幽霊なのか?」

 思い切って率直に訊くことにした。今の私には前へ進む覚悟があるからだ。

「答えられません。というより、答えようがないです。そもそも、幽霊の定義が曖昧ですから」

「目黒、という知り合いがいるんだ。彼女はこの千駄咲神社で非科学的なものを見た、と言っていた。君の姿を見たんじゃないのかな?」

「それは否定できます」

「どうしてだい?」

「私はここから出られないからです」

 初めて会った時も確かこんな会話をしたはずだ、と思い出した。取り付く島もなく、ただボールを壁に投げつけているような、どうやっても無意味に終わってしまうような心地がする。

「分かった。じゃあ、別の質問をしよう。ここに真音と篤司が来たことはあるかな?」

「発言から推測するに、お姉ちゃんはここへ来たと思います。篤司さんは確実に来たとは言い切れません。その目で見たわけではありませんから」

 彼女の言い方が、妙に引っかかった。もし百音が真音と篤司によって千駄咲神社で蘇ったのだとしたら、二人には絶対に会っているはずだ。蘇ったのはどこか別の場所で、千駄咲神社の幽霊がここへ来たのは自分の意思なのだろうか。

「この本殿の中には何がある?」

 沈黙が流れる。数秒、あるいはそれよりももっと短いわずかな間だったのかもしれない。だが、この質問によって私はほとんどすべての真実を知ることができるような気もする。そう考えると、たった数瞬であっても、まるで永遠のように感じられた。

悔恨かいこんで構成された結晶です」

 まさに当たり障りのない回答、といった風だった。

「それじゃ答えになっていないよ。もっと具体的に」

「正直に言えば、私にも理解できません。あなたならきっと理解できるのでしょうが」

「君は中にいるのに、かい?」

「私が一番よく知っているのは私のことではなく、あなたのことですから」

 心臓を冷たい手でぐっ、と掴まれるようだった。立ちくらみのような眩暈がして、私は思わずしゃがみ込んでしまう。

 その言葉は、最も聞きたくないものだった。それがなぜかは分からないが、心に空いた穴の中をまさぐられるような感覚だった。

 ふいに、扉の奥から不快な虫の羽音が聞こえた。どうやら蜂が中に入ったようだ。だが、千駄咲神社の幽霊は全く意に介していないようで、何か話すどころか、物音すら立てない。気味が悪い。

「もう分かっていると思うが、私は君を百音の幽霊だと断定して会話している。そこでもう一つ気になることがある。七年前、この町で大規模な地すべりが起きた。付近に近づかないよう道路は封鎖されていたはずだ。それなのに、君と私はなぜ日慕山に行ったのかな?」

「それは——」千駄咲神社の幽霊はしばらく答えなかったが、観念したように言葉を紡ぎ始めた。「私とあなたが日慕山に向かった理由は、会話をする必要があったからです。他の誰にも聞かれることなく、誰にも知られることのない、二人だけの場所で」

 自分が百音であると認めるような口ぶりだった。

「いったい、なぜ」

「不和があったためです」

「不和……」

 ということは、私と百音はその不和とやらを残したまま、死別してしまったのか。

 その瞬間、私の頭が割れるように痛み始めた。何かに対し、拒絶反応を起こしているかのようだった。

 そして、まるで古いVHSビデオテープが再生されたかのように、粗い画質の映像が脳に流れ始めた。


     *


 私は、ふと空を見上げた。海よりもずっと深い青が広がっていた。入道雲がかなた遠くにそびえ立っており、その脇を飛行機が飛んでいる。この町らしからぬ夏の光景だった。

 私は朱浦あけうらの海へ、水泳の練習に来ていた。小学校三年生に上がり、一人で泳げないという事実が恥ずかしくてたまらなくなったのだ。

「いい天気だね」

 左隣には、白い肌を備えた少女が立っていた。日差しの中に今にも溶けて消えてしまいそうな、そんな危うさを感じるほどに病的な白さだった。彼女の左手には、薄い桃色の浮き輪が握られている。

「ほら、行こう」

 少女は笑みを浮かべて私の手を取り、海の方へと走っていった。私はなすがまま、彼女の手をぎゅっと握り後をついていく。

 足の指先に冷たい水がかかる。私は少し怯んだが、少女がどんどん深いところへ向かうので、意を決してついていく。

「とりあえず、ここら辺で泳いでみよっか」

 それから彼女は、まるで水泳のコーチのように、私の手を取りクロールの泳ぎ方をレクチャーし始める。まずは手の動きに気を取られておろそかにしてしまいがちなバタ足を練習し、それから腕の動き、呼吸の仕方を練習する。

 何度か海の水を飲んでしまうこともあった。そのたびに少女は一度休憩するよう提案してくれるが、私はそれでかえってムキになり泳ぎ続けた。夕方とまではいかなくとも、かなり日が傾くまで彼女と共に泳いだ。そのうち、一人でも完璧に泳げるようになった。自分一人で前に進む、という感覚をしっかり経験したのは初めてのことだった。

 ——どこまでも泳げるような気がする。そう妄信するように、私はさらに沖の方へ泳いでいった。誰かが声をかけてきたような気もしたが、クロールの喜びを覚えた私の耳には何も届かなかった。

 そして、私は波に呑まれた。地面に足をつけることもできず、急いで引き返そうにも波に揉まれ上手く前へ進めない。

 次第に、私は頭まですっぽり波につかり、意識は次第に遠のいていった——。


 誰かが泣いている。それに重なるように、怒声のようなものも聞こえる。辺りで人が動いている気配がする。さざ波の音がする。人々のざわめきが聞こえる。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。

 白い太陽が、視界に入る。思わず目に痛みを感じ、顔を背けた。

「暮葉っ!」

 すぐそばで座り込んでいたのは、私の祖母だった。シミのある顔をくしゃくしゃにして泣いていた。いつの間にか怒鳴り声も止んでおり、浅黒い肌の男が私の顔を覗き込んだ。その男の手にはオレンジ色の箱が握られていた。保険の授業で見た、AEDだった。

「良かった。とりあえず、救急車を呼んだから、動かないで。寝たままで」

 続いて、少女の顔が私を覗き込んだ。祖母以上に大粒の涙を流し、目を真っ赤に腫らしている。

「ごめ、ごめん、なさい……私がもっと、ちゃんと……」

 彼女は何度もしゃくりあげ、たどたどしく言う。そして、ようやく私は状況を理解した。

 私は百音に溺れていたところを助けられたのだ。


     *


 どうしてこの記憶を突如として思い出したのか、それは全く分からない。ただ、私の記憶の中の謎が一つだけ解けたのは確かだった。あの時、千駄咲神社の幽霊に対して話した海での不可解なエピソードは、記憶から百音の存在が欠落していたのが理由なのだ。私は過去に、百音によって命を助けてもらった経験があった。

「……ありがとう」

 私はほとんど無意識のうちに、そう口にしていた。いつの間にか目から涙がこぼれていて、地面に雫の跡ができていた。扉越しにしか話せないことが、本当に悔やまれた。

「その言葉は、私に届くのでしょうか」

 まるで他人事のような口調で、千駄咲神社の幽霊は言った。そして、もうそれ以上の会話は私と彼女の間に発生しなかった。

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