第25話

 バスを降りる時、ふと運転手の顔を見てみる。私と同じくらいの、まだ若い男だった。こめかみの辺りに汗を一筋垂らし、少し緊張した面持ちで「ご乗車ありがとうございます」と私に微笑みかける。

「運転、お疲れ様です」

 バスを降りてから、私はすぐにバスで来た道を引き返した。人影はなく、瓦屋根の家々がまばらに建っているだけの街並みが広がっていた。千駄咲神社に行くために手上のバス停で降りることはあっても、住宅街周辺を歩くのは初めてのことだった。生活音はなく、がむしゃらに鳴く蝉の声だけが辺りを埋め尽くしていた。

 ふと、先ほどバスの窓から見た交差点に出た。道路と家の間がほとんどないために、ひどく見通しの悪い場所になっている。

 その一角に建っている電柱の足元に、水色のバケツに入った白と黄色が入り混じった花束が供えられていた。殺風景な町並みのせいで、ひどく浮いているように見えた。何より寂しかったのは、花束が一つしかないことだった。

 私は横断歩道を渡り、その電柱のすぐ下にしゃがみ込んだ。白いキクと黄色のスイセン、ピンク色のトルコギキョウが供えられていた。私は乾いたムラサキシキブをしばらく見つめ、そっとバケツに立てかけるようにして置いた。手を合わせ、目をつむる。

 ——清水瞭大くん。君は確かに前へ進んだが、果たして幸せだっただろうか。千駄咲神社の幽霊の存在を知り、「りんが」の言葉の意味を知り、いじめに遭い、こんな最期を迎えてしまった。私の「聡明」なんて無責任な言葉で、君の心は少しでも救われたのだろうか。痣の痛みを少しでも忘れられただろうか。

 今、君の魂があの世にいるのなら、教えてほしい。もし君が幸せでなかったのなら、幸せはあの世にあるのだろうか。前へ進むことは死に近づくことを意味するが、死を迎えた後であれば、人間は幸せになれるのだろうか。それこそが、前へ進むことの意義なのだろうか。

 だとすれば、私は君と同じように前へ進みたい。

 昨晩からずっと考えていた。瞭大が体育倉庫を出て行く時、私は君の手を取るべきだったのか、と。眠れなくなるほどに考えて、それから一つの結論に至った。

 人の死には二つの種類があるのだと、私はその時に何となく思った。人間には肉体の死と、霊魂の死が用意されている。あそこで私が君の手を取れば、君は肉体の死を迎えずに済んだだろう。だが、きっと君の霊魂は死んでいたと思う。自分の心と行動を押し殺し、じっと耐える日々を過ごし続けていただろう。霊魂の死は、肉体の死よりもずっと残酷だ。

 ——いや。きっとこれは、私が罪悪感から逃れるために作った言い訳に過ぎないのだろう。霊魂がどうのこうのと御託ごたくを並べ、君が死んだという事実を少しでもポジティブに受け入れようとしているのだ。死んだらそれで終わり、なんて当然の事実は、それこそ小学生でも分かることだというのに。

「あの」

 声がかかり、私はふと思考の世界から現実に引き戻される。一瞬、それが瞭大の声だと思ってしまった。しかし、それにしてはあまりにもしゃがれ声であることに気が付き、後ろを振り向く。

「驚かせてすみません」

 最初、その男は花束を持っていたために顔が見えなかった。ただ、その声に私は聞き覚えがあった。初めて千駄咲神社に行った時、バスの運転手をやっていた古橋ふるはしおさむだ。まさか、こんなところで再開することになるとは、思ってもみなかった。

「こんなところで再開することになるとは」修も同じことを考えていたようだった。

 修は真音の祖父だ。最初に会った時は顔を見ても分からなかったが、車内名刺を見てすぐに、かなり昔の、それこそ小学生だった頃の記憶が掘り起こされたのだ。真音の家に遊びに行った時、田んぼや畑を見せてもらったり、刈り入れが終わった晩秋や冬にはそこで遊んだりしていた。

「お久しぶりです。修さんも献花、ですか」

「はい」

 修は私の隣に立ち、白いユリと黄色のキク、白いカスミソウが入り混じった花束を置く。そして、私と同じように手を合わせた。心なしか、彼の肩や手が少し震えているように見えた。

 長い静寂だった。一分は経ったのではないだろうか。修はおもむろに立ち上がり、私の方を見た。そこでようやく気が付いた。彼の目の下に深い隈ができていた。老化による皮膚のたるみなどではない、明らかな睡眠不足に見えた。さらに、その眼球は赤く血走っていた。

「暮葉さんは」修はすぐに私から視線を外し、足元を見下ろす。「この子の、知り合いですか?」

 暮葉、という名前をまだ覚えてくれていたことに驚いた。最後に名乗ってから十年以上は経っているし、小学生の頃の私と今の私が同一人物であることに気付いているとは思わなかった。

 私はその問いかけに小さく「友人です」と答えた。

「そう……ですか」

 修はしおれた花のようにうなだれていた。恐ろしいほどに生気を感じられない。

「本当に申し訳ございませんでした」

 修は私の方へ深く頭を下げた。骨張った薄い肩が震え、指先が凍ったようにぴんと伸ばされている。ほとんど白髪に侵食された薄い髪が、その痛ましさをなおのこと強調させている。

「あの、ええと」

 私はどう答えるべきか分からなかった。というより、彼がなぜ謝罪したのか、その意図を測りかねたのだ。

「あ」

 思わず声を漏らしてしまった。だから修はここまで衰弱したような雰囲気を見せているのか、と納得してしまった。

 今朝のニュースを思い出した。バッシングの対象は彼だったのだと、その時になって気が付いた。通りで私と同じように目の下に大きな隈があるのだ。

「……今から話すことは、きっと修さんには気休めのように聞こえるかもしれません。ですが、少しだけ話を聞いてください。確かに私は、瞭大くんが亡くなって落ち込んでいます。ですが、彼の遭った事故には私も関わっているんです」

 修はこちらを見るように、わずかに頭を上げる。

「それは、どういう」

「事故に遭う前から傷や痣だらけだったというのは、恐らく警察の方からも聞いていると思います。きっとここから、ふらふらとした足取りで道路に飛び出てしまったのでしょう。……瞭大くんはいじめられていました。そして、あの日。いじめの主犯格に立ち向かうように言ったのは紛れもなく私です」

 修は頭を垂れたまま、じっと動かなかった。ただ、しばらくすると嗚咽が聞こえてきた。その場にしゃがみ込み、えんじ色のカーディガンの袖で目を覆っている。修の心にどんな感情が芽生えたのかは分からない。だが、不思議と共感するところがあった。取り返しがつかないという、やるせなさのようなものがあるのだろう。

 周囲に人はいない。誰にも見られることはない。ここであれば、自身の心情を吐露することが叶うだろう。声を上げて泣くことだってできる。

 そのうち修は、小さくしゃくりあげながら、震えた声で話しはじめた。

「……正直、ここに来るのも怖かった、です。私はもう、今年で六十六になります。高齢者ドライバーだという自覚もありましたし、運転にも気を付けていました。五十代からずっとやってきましたが、一度も事故は起こしたことがありませんでした。でも、やはりこういう事故を、起こしてしまったら」

 修はそこで口をつぐんだ。それ以上は言えない——というよりも、言いたくないといった具合だった。

 それから数分が経った。暑さで今にも倒れそうだったが、幸いにも今日は涼しい風が吹いていた。私は暑苦しさを忘れるように、風で揺れる色とりどりの花をじっと見つめていた。

「……あの後、私は逮捕され、書類送検されました。これから私は刑事事件として起訴されるでしょう。世論のことを考えれば、それは確実です」修はおもむろに立ち上がる。そして、赤い目をこちらに向け、小さく微笑んだ。「最後に、自分の罪と向き合えて良かった」

 私はそれに対してどう反応すべきか分からず、ただうなずくことしかできなかった。むしろ、それが最善だとさえ思えた。

「刑期が終わったら、野菜や米を育てましょう。余生をゆっくり過ごした方がいいですよ」

 私がそう言うと、修は困ったように眉を寄せた。眉間に皺が深く刻まれる。

「はは、懐かしいですね。もう田んぼと畑は売っちゃいましたよ。……もう、七年くらい前でしょうかね」

「え、そうなんですか」

「急にお金が必要になってしまったのでね」そう語る修は、どこか遠くを眺めるような目つきをしていた。

 七年前——百音が死んだのも、篤司が真音を手伝って千駄咲神社で何かをしたのも、全て七年前だ。あの頃、この町に何が起きていたのだろう。

「それは、真音さんや百音に関連する話ですか?」

 思わず口をついて言葉が出てしまった。衝動的で、自分でも抑えられなかった。

 修は口を半開きにさせたまま、じっと私の方を見つめていた。そんな言葉が私から出るとは思ってもみなかったようだった。

「どうして、暮葉さんが、そんな話題を」

 喘息発作でも出ているかのような、か細い声だった。

「信じてもらえるか分かりませんが、私は百音についての記憶が全く思い出せないでいるんです。七年前に何があったのかすら、知らないんです」

 修は瞬きを忘れて目を白黒とさせ、私の言葉をどうにか呑み込もうと思考を回しているようだった。

「そ、それじゃあ、一つだけ気を付けてください。真音の前では絶対に百音に関する話題を一切出さないように」

 私は首肯することもかぶりを振ることもできず、閉口したまま修の目をじっと見据えた。修はハッとした表情を浮かべ、「まさか、もう」と震えた唇を動かす。

「はい」

「そうでしたか」修は大きくため息をつく。「真音は、どんな反応をしましたか」

「怒って——いや、少し違いますね。悲しそうな、怒っていそうな——とにかく、感情があまり読めませんでした」

「そう、ですか。とにかく、これからもあまり百音のことは話題に上げない方がいいです。あの子も、心に深く傷を負っていますから」

 とんだ霊感商法に引っかかった、という篤司の言葉を思い出す。そうだ。真音だって被害者のようなものだ。むしろ、妹の百音だけが死んで、私だけが生き残っていることを恨めしく思っていてもおかしくない。

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