Ⅲ.誰の墟

第24話

 私の心とは裏腹に、この町の空は奇麗に澄み渡っていた。各地で猛暑日となっており、この町も、気温は猛暑とまではいかなかったが湿度が高いせいか、体感温度が異常に高くなっていた。テレビでは、関東圏内に至っては、一部で気温が三十九度を超える見込みだと言っていた。冷房が効いた部屋にいるのに、それを聞いただけでひどく暑苦しく感じた。

 天気予報が終わると、神妙な表情をしたキャスターが口を開いた。

「近年問題になっている、高齢者ドライバーによる事故。年々、自動車事故の件数は減少しているものの、一部では退職した高齢者はすぐに免許を返納する義務を負わせた方がいい、とまで言われています。先日も高齢者ドライバーによる痛ましい交通事故がありました。そこで、今回は専門家の方々をお招きし、意見をうかがっていきたいと思います」

 カメラが移動し、スーツ姿の男が三人ほど映し出される。眼鏡や体形など微妙に違う点はあるが、白髪交じりで仏頂面を浮かべていることは共通していた。

 眼鏡をかけた専門家が我先にとばかりに口を開く。

「先日の事故は、緩やかではあるものの長い下り坂で起きています。警察の調べの通り、今回の事故はフットブレーキの使い過ぎによるフェード現象を考慮に入れなかった運転手の過失とみてまず間違いないでしょう。この現象は運転を生業としている人であれば誰もが知っているはずですからね。普通であればエンジンブレーキと併用します。そういうところに高齢者ドライバーが注意を払えなかった、というのは、やはり加齢による判断や注意能力の欠如といいますか」

「運転手に責任があると」

 キャスターがあおるように言う。

「ええ。ですから、議論の争点に繋がるのは——」

 私は思わずチャンネルを変えた。だが、今の時間帯はどこも高齢者ドライバーについての特集で一杯だった。テレビを消し、ソファに寝転んだ。今の私にこの手の話題は聞くに堪えない。

 篤司あつしによれば、真音まねは予想以上にあっさりと帰ったそうだ。彼女が何を思って引き下がったのかは分からないが、少なくとも今は安心だろう。

 だが、真音の問題が一時的に解消されたことで、私は瞭大りょうたの死に対しきちんと正面から向き合う必要があった。目を逸らそうとしても、それはたちまち立ち現れて脳裏をちりちりと焼き焦がすのだ。彼の死を、忘れられるわけがなかった。千駄咲ちださき神社の幽霊のことも、百音もねのことも、一旦は全て思考の横に放置せねばならなかった。

 私の記憶の限りでは、自分の知っている人間が死ぬのはこれで二度目だ。一つ目は両親の死。もう一つが、今回の瞭大の死。何か転機が訪れそうだ、と不謹慎ながらもそんな予感がしていた。ここが分水嶺のような気がしていた。

 篤司は早々に仕事へ行ってしまった。私もそろそろ動かなくては、と重い体を引きずりながら風呂場へ向かった。

 ルーティンのように淡々とシャワーを浴びた後、時計を見た。時刻は十一時前。この町が最高気温を叩きだす前に出かけておこう、と私は急いで身支度を進めた。

 着替えている最中、ふと自分があまりリストカットの跡を気にしていないことに気が付いた。どうして前まであんなに不快な気分だったのか考えると、一つの結論に至った。

 恐らく、これは百音に関連するものだったのだろう。百音が死んだそのショックとストレスから傷付けてしまった、という可能性だ。今はそれを受け入れようとしつつあるからなのだろう。御船みふねの言っていたように、私は百音に関する記憶を封じ込めている。百音の死を受け入れたくないという強い想いが記憶障害の一端を担っている可能性もある。ずっと百音の死を忘れたくて、自動車事故というきっかけを得たために記憶障害を自ら進んで引き起こした。

 想い。「文字や言葉を媒介として、想いを形而下に引きずり出さなくてはならない」というあの言葉を、つとに思い出した。

 そういえば、私が書いていた小説とは何だっただろうか。ずっと書いていたはずなのに、その内容を上手く思い出せない。一心不乱に書いていたはずなのだが、そもそもいつから書いていたのかすら覚えていない。

 私が覚えていないことは、大抵が百音に関することだ。これは今までの経験から導き出される至極単純な法則だが、今の私には手がかりとしてとてもありがたい。帰ってきたら確認するとしよう。

 いつものようにジーンズを穿き、緑のロングコートを羽織って外へ出た。太陽が責め立てるようにかんかんと照り、アスファルトを熱している。地面と空気の温度差で陽炎かげろうがはっきりと見える。

 何となくのプランは頭に思い浮かんでいた。にもかくにも、まずは花を買わなくては。瞭大に手向ける綺麗な花が必要だ。


 フラワーショップ水木みずきの前まで来て、ふと、死んだ人のために花を買うのは今月で二度目だ、と思った。両親のために買いに来た時はこんな気持ちではなかったが。

瑞希みずきさん」

 入り口から店内へ声をかけた。緑色のエプロンを着た店員が、こちらに背を向けて花壇をいじっているのが見えたからだ。その店員は私の声に反応し、ミルクティー色のポニーテールを揺らしながらこちらを振り向いた。そして、大きな笑顔を作った。

「暮葉ちゃん、また来てくれたんだ。ついに花に興味が出たり、とか?」

 彼女の名前は水木瑞希だ。両方とも「ミズキ」という音なので非常に覚えやすい名前だ、というのが最初に会った時の第一印象だった。話によれば、彼女の父親が少し変わった人らしく、両方とも「ミズキ」と呼ぶのはとても縁起がいい、と言っていたらしい。調べてもそんな説話はまるで見当たらなかったが、瑞希自身は自分の名前に満足しているらしいので、それでいいのだろう。

「あ、いや。少し、相談したいことがあって」

「相談したいこと? 私に?」

 瑞希は信じられない、といった具合に訊ね返す。私は黙ってうなずいた。少しひりついた空気を感じ取ったのか、彼女は笑みを浮かべたまま眉尻を下げている。

「友人が、死んだんです。でも、好きな花とか色とか知らなくて」

 後ろめたいことなど何もないはずなのに、私は思わず目を伏せてしまう。

「そうだったんだ。……献花ってね、一般的には白色の菊とかユリとかカーネーションとか使うんだ。キリスト教だったらバラを使うこともあるんだけどね。他には故人が好きな花を添えるんだけど……その人って、どんな性格、とかあったりする?」

 私は瞭大の顔と声を思い出しながら、ゆっくりと彼の性格を思い出す。彼の性格に似合う言葉はなんだろうか。優しい、理知的、我慢強い、慎重——聡明。やはり彼には聡明という言葉が最も似合うかもしれない。

 聡明、と呟くと、瑞希も私の言葉に共鳴するように「聡明……」と呟き、左上の空間をじっと見つめながら悩みはじめる。

 しばらくして、おもむろに携帯を取り出し、素早い手つきで何かを打ち込み始めた。そして、「ああ、やっぱり!」と私に画面を見せる。「ドライフラワーになっちゃうけど、これならうちにもあるよ」

 携帯の画面には、紫色のベリーのような果実を付けた植物が映し出されていた。ムラサキシキブ、というそうだ。かの有名な才女の名前を冠している時点で、その花言葉が「聡明」だと分かる。

「花言葉は、聡明とか上品とか、そんな感じ。どう? 合うかな?」

 上品、という言葉を頭に思い浮かべてみる。そう言われると、確かに瞭大の服装は少し小学生らしくないものだった気がする。きっとあざを隠すために裾や袖の長い服を着ざるを得なかったために、小学生のイメージとかけ離れた格好だったのだろう。

 態度や立ち振る舞いもそうだ。私の調査が一向に進まなかったとしても、瞭大は文句ひとつ言わなかった。真音と御船にマインドコントロールのようなものをされそうになったと説明した時も、彼は否定せずに受け入れてくれていた。いや、これは上品というより「聡明」に位置するか。

「ありがとうございます」

 私はお礼を言って小さく頭を下げた。それが瑞希の目にはあまりにも現実離れした光景に見えたのか、彼女はほうけたように「ああ、うん」とだけ言って店の奥まで駆け足で入っていった。

 しばらくして、白いユリと水色のカーネーションと、さっき携帯で見せてもらった紫色の実がブドウのように生っている植物の花束を抱えて瑞希が戻ってくる。

「はい、これ。さっき思ったんだけど、白いカーネーションはお母さんとかにあげるものだから、青の方がいいかなって思って青に変えたよ」

 瑞希はなかば押し付けるようにして私に花束を持たせる。芳醇とも言うべき香りが鼻をくすぐった。白いユリと水色のような淡い青色をしたカーネーションの中に、目を引くような紫色のムラサキシキブが鎮座している。色の対比がよく映えて見えた。

「暮葉ちゃんが誰にあげるのかは知らないし、訊く気もないけれど」そう言って瑞希は私の手を取った。「なんか顔色とか態度とか、前までと全然違う。お花をあげたらまず休むんだよ」

 真夏だというのに、瑞希の手は異様に温かく感じた。暑くない、心に沁みるような温度だった。

「ありがとうございます……あの、お代は」

「うん? ああ、要らないよ。友だちからお金取れるわけないでしょ? お得意様へのサービスだと思って。あと、これ。手入れしやすいように生け花用の花バサミもあげちゃう」

 瑞希はなかば強引にハサミを私のポケットへ突っ込んだ。

「いや、でも——」

「そんな食い下がらないの! じゃあ、とにかく今から献花しに行って、家に帰ったらすぐ寝てね。それからさ、目が覚めた時にどうしてもお金払わないと嫌だなって思ったら来てよ。ね?」

 瑞希は朗らかに笑った。このフラワーショップの花は、もしかしたら彼女の陽光のような笑みを受けて成長しているのではないか、とさえ思えた。太陽のような笑顔は、私にはあまりにも眩し過ぎた。嬉しいはずなのに、私の心中には今すぐにここから逃げ出したいという欲求もあった。意味が分からず、私はただ視線を瑞希の顔から逸らしたまま感謝の言葉を口にすることしかできなかった。

 太陽は、生命を朽ちさせるための装置だ。死の象徴だ。


 白いユリと青いカーネーションとムラサキシキブの花束を抱え、隈のある目をじっと窓の外の景色に向けていた。私を乗せたバスはいつも以上にゆっくりと町中を走っていく。何度も乗っていたからこそ気づけることだった。例の事故が強い影響を与えている、というのは想像に容易たやすかった。

 ふと、窓の外に目的の物を見つけた私は、すぐに「とまります」のボタンを押し、財布から二百円を取り出した。

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