第23話

 瞭大の母親はさらりと言ったが、私にとってそれは何よりも衝撃的な事実だった。

 つまり、清水が友人として話に挙げていた瞭大という少年は、実は清水自身のことを指していた、ということになる。千駄咲神社で幽霊を見たのも、そのせいでいじめられていたのも、全て清水自身に起きた話なのだ。清水瞭大の体にあったあの痣は、両親からの虐待なんかではなく、いじめの過程でできた傷なのだろう。

 最初に浮かんだ疑問は、どうして隠していたのだろう、という点だった。だが、これはすぐに過去の瞭大の発言から何となく推測できた。彼は聡明で、他人にできるだけ迷惑をかけないように注意を払いながら日々を過ごしていた。いじめられていると言えば私に心配をかけさせてしまうと、おそらくそう考えたのだろう。私が依頼代として二百円しか徴収しなかったのと同じように、彼はさも当然かのごとく気を遣って嘘をついたのだ。

 そして次の疑問は、なぜ瞭大の携帯を使って母親が電話をかけてきたのか、という点だ。瞭大によれば彼の両親はまったく自分に興味がない、という話だった。この時点で私は嫌な予感がしていた。

「えっと、いいですか? 要件を伝えますね。瞭大が亡くなりました」

 彼女はまるで他人事のようにあっけらかんと言った。心電図が、ピーッ、と音を鳴らしている病室の中で、死亡時刻を淡々と告げる医者のような口調だった。ぼうっとしていたら、思わず聞き逃してしまいそうだった。

「亡くなった……」

 自分の予想と照らし合わせるように、瞭大の母親の言葉を反芻はんすうする。私の脳内では既に最悪のシナリオができ上がっていた。顔まで痣だらけになった瞭大が、生気のない瞳を備えて横たわっている姿が頭に浮かぶ。今にも自責の念で押しつぶされそうだった。私が背中を押して、彼を崖に突き落としたも同然だと思った。

「数時間前、警察から連絡がありまして。手上四丁目でバスに轢かれた、と」

 それを聞いたとき、私は思わずほっとしてしまった。自分が殺したわけではない、と疑いが晴れたような気持ちになったのだ。人の死を前にしてもなお自分の立場を第一に考えてしまう自分に心底吐き気がした。同時に怒りが湧いてきた。

「それは……お悔やみ、申し上げます」

 定型文のような言葉を口にして、彼女の言葉を待った。

「一つ、気になることがあったんです」母親は、私の予想とは異なる前置きから話を切り出した。「病院の先生から聞いた話なんですが、瞭大は轢かれる前から痣や傷だらけだったそうです。警察に訊ねたら、瞭大はふらふらと歩いていて、唐突に十字路の脇から出てきたと、瞭大を轢いたバスの運転手がそう証言していたと教えてくれました。何かご存知でしょうか? 何か、こう——トラブルに巻き込まれていた、とか」

 それを聞いた瞬間、私は思わず地面にへたり込んでしまった。御船と話した時のように、自分が下半身不随の百音であると錯覚したからではなかった。瞭大は私の言う通り、素直に自分がやりたいことを全うしたのだ。最後の最後までいじめられているという事実をひた隠し、自分一人で決着を付けようと教室に足を運んだのだ。そして行き着いた先が、これだ。

 ——『死んでくれませんか?』

 ふいに思い出されたのは、瞭大の言葉ではなく、どういうわけか千駄咲神社の幽霊の声だった。淡々と、それでいて切実に彼女は懇願していた。彼女は死を望んでいるのだ。

 幽霊は生きている人間をあちら側に引き込もうとする——これは、誰の言葉だったか。もう名前は思い出せないが、確か、昔見た心霊番組の中でスーツを着た霊能者が言っていた。モデルの仕事をしている長身の出演者から理由を訊ねられたとき、寂しがっているんです、と付け足していた。

 寂しいから、死者の仲間を増やす。

 辺りは既に完全な暗闇に包まれている。まるでこの町に死の影が迫っているかのようだった。草むらの中から虫の鳴き声が響いていて、寂莫とした思いが湧き出てくる。この世界に生きている人間は、自分一人なのではないかと錯覚してしまう。

「私は」

 どう答えるべきか、迷ってしまった。言葉が出てこず、口をパクパクと動かし無言のまま喘いでいた。瞭大はいじめられていたと言って、母親は納得してくれるだろうか。白を切り、彼女に変なショックを与えないよう穏便に済ませるべきだろうか。

「どうしましたか?」

 沈黙に耐えきれない、といった様子で瞭大の母親は言った。

「……いじめに遭っていたようです」

 思考を回した末に、私は打ち明けることにした。というより、打ち明けなくてはならなかった、という表現の方が正しかった。私が言わなければ、瞭大が前に進んだことが無意味になってしまう。たとえ私の言葉が瞭大を殺す引き金になっていたと認めることになったとしても、だ。

「いじめ、ですか」電話口で息を吞む音が聞こえたが、すぐに先ほどの調子を取り戻し、「分かりました。警察の方にはそう伝えておきます。ありがとうございます」と感謝の言葉を口にした。彼女自身も何となく察するところがあったのだろう。

「一つだけ、訊かせてください」

「はい」

「瞭大くんは、あなたから見てどんな子でしたか?」

 母親はしばらく押し黙った。永遠とも思えるほどに長い沈黙だった。そして、ため息をつく準備段階のように、小さく息を吸う音が聞こえた。

「あまり勉強はできませんでしたが——いい子だったと思います」

 それはため息交じりのようにも聞こえた。たぶん、そう聞こえただけだ。そう思い込まなくてはいけなかった。

「……そうですか。『いい子』と言われて、瞭大くんも幸せだと思います。では、失礼します」

 彼女の返答が来る前に電話を切り、無機質な「清水くん 通話終了」の文字をじっと見つめていた。そして、その文字が徐々に滲んでいく。携帯の輪郭も徐々に崩れていく。手が震える。

 死とは、これほどまでに無力感を覚えるものなのか。誰しもが行き着く終着点とは、かくも恐ろしいのか。

 一人ぼっちの暗がりに、すすり泣く声だけが響いていた。今にも虫の鳴き声に紛れてしまいそうな、静かな号哭ごうこくだった。

 瞭大が幸せなわけがあるか。私にそそのかされていじめの主犯格に立ち向かい、痣だらけになるまで殴られて、痛む体を引きずりながら帰路を辿り、挙句の果てにはバスに轢かれて死んだのだ。母親に「いい子」と言われるだけじゃ救われない。ましてや、「あまり勉強はできませんでしたが」なんて蛇足が付いた言葉なのだ。

 前に進むということは、それは成長を意味する。そして成長とは、老化を奇麗に飾り付けしたような言葉だ。死に向かって進むことを老化と呼び、成長とも呼ぶ。至極簡単な道理だ。

 私は、影でひっそりと生きていた瞭大の背中を、日向の方へ押した。その結果、瞭大は成長して枯れていった。暗がりの中でじっとしていれば——体中にいくつもの痣を作らなければ、瞭大はバスに轢かれなかっただろう。

 前に進めば死に近づく。私は——私は、本当に前へ進むべきなのだろうか。千駄咲神社の幽霊を、百音という人間を、リンガ・フランカの真の意味を、目黒が見たものを。それら全てを確かめたところで、私は幸せになれるのだろうか。

 ——『その先に幸せがなくても、あなたは知ることを選びますか?』。

 千駄咲神社の幽霊が言っていたことはおそらく正しかったのだ。本殿の扉を開けてほしくないがゆえの脅迫や、口からのでもなんでもない。彼女は前に進むことの意味を知っている。進む先には幸せなどなくて、ただ傍若無人な死が待ち受けていることを知っていたのだ。

 再び携帯が振動する。「篤司」と表示された画面をぼうっと眺め、しばらくしてから電話に出た。

「ああ、良かった。さっき、真音を家から追い出したからな。今から車でそっちに向かうぞ」

「……分かった」

 私はそれだけ言ってすぐに電話を切った。今は誰とも会話する気が起きなかった。誰かと接したら、私という存在がぐちゃぐちゃになってしまいそうな、そんなもろさを自分の中に感じていた。

 立ち上がると、体が異様に重く感じた。足に力が入らず、立っているので精一杯だ。私は一点を見つめたまま、境内に立っていた。篤司の車がいつ来ても気付けるように周囲を見渡したり、あるいは友人の死に耐えられず辺りをうろつくようなこともしなかった。

 周囲を見渡せば、恨めしそうな顔をした瞭大と目が合うような気がした。

 辺りを歩こうとすれば、小学生の小さな手が私の足首を握りしめるような気がした。

 この体の重さは、本当に心労から来るものだろうか。

 誰かが背中に乗っかっているのではないだろうか。

 瞭大の叫び声のような、あるいは千駄咲神社の幽霊の笑い声のような——夏の強風が、そんな音を鳴らしながら私の側を抜けていった。

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