第22話

「私の話は、あまり気にしなくていいと思います。裏を取る必要もないくらい不確定な情報ですよ。なにせ、私もすぐに目を離してしまったので」

 それでもなお私が目黒の顔から視線を動かさないことに気づいたのか、彼女は小さく「ああ」と唸るような声を上げてから、その重い口をゆっくりと開く。

「暮葉さん。死んだ人って、蘇ると思いますか?」

 目黒は、まるで心理カウンセラーに相談するかのような口調で話を切り出した。私は逡巡した後、小さくかぶりを振った。そんなことがあり得るわけない。

「はい、暮葉さんの言う通りです。死者が蘇ることはありません。死体は見つからなかったけれど、死亡扱いになっていた人が実はどこかで生きてて帰ってくるという事例はありますが、完全な死体に魂が戻って来て蘇る、なんて前例はないんですから。ましてや、火葬を済ませていたのならなおのことです。科学的ではありません」

 夕日が徐々に下へ落ちていく。辺りの夕闇が深くなり、ヒグラシの声は勢いを増す。目黒の顔に影が落ち、表情を捉えるのが難しい。

「かといって、死者は絶対に蘇らない、という証明も難しいです。これは幽霊にも当てはまります。この先も、人類は何千年と長い歴史を紡いでいくでしょう。その過程の中で、一度たりとも死者が蘇ることはない、なんて言いきれないんです。幽霊はいないという言説は、肉体を伴わない存在——物理法則を超えた存在なんて科学的に考えて存在しないだろう、という推論の上でのみ成り立っています。あくまで推論に過ぎないのです。世界の全てを知っている人間などいませんから、科学が進歩した現代でも、魂や幽霊や死者蘇生を信じる人は一定数います。もしかしたら、本当に蘇るのかもしれません。だって、私たちは『ありえない』とは言い切れないのですから。今までに前例がないだけで、これから先——それこそ、今からほんの数秒後に誰かが蘇るかもしれないですし、あるいは——既に誰かが蘇っていることに、誰も気付いていないのかもしれません。死者蘇生が行われたという事実を観測できていないだけかもしれません。事象の地平面に囲まれた特異点のように、科学の世界ではどんな理論上の矛盾も観測しなければセーフ、という扱いですからね」

 ふと、母が寝る前に読んでくれた童話を思い出した。もったりとしたまどろみの中で空想の物語を心地よく聞いている。今のこの状況はそれにそっくりだ。目の前の光景の現実感が徐々に失われていき、夢の中で話を聞いているような、妙な心地を覚える。

 異なるのは、目黒の話が妙なリアリティを持っている点だ。『オオカミと七匹の子ヤギ』に科学という単語は出てこないし、『北風と太陽』にブラックホールは現れない。

「だから、私があそこで見たものはきっと、この世界の非科学的な側面を信奉する人が残したものなんです。そうじゃなかったら、普通はあそこに置いてあるわけがない。あれは科学が席巻する現代において存在してはならないのです。いや、それよりも恐ろしいのはですね。はっきり言って異常です。疾患と呼ぶには、彼女はあまりにも理知的ですし。だから私は児玉くんに取材をするのを止めるように言いました。これ以上関わると、人の心根にある闇の中に足を踏み入れることになるんじゃないかって」

 穏やかなトーンでありながらも、徐々に熱を帯びているように感じる。その勢いに押されるようにして、私の背筋が凍っていく。目黒は嘘なんてついていないのだ、という事実が声を聞くだけでも伝わる。

「暮葉さんは、科学を信奉しますか? 魂を信奉しますか?」

 唐突に話を振られたことで、私は思わず狼狽ろうばいしてしまった。要はオカルト的なものを信じるか否か、という話だ。私はすぐに答えた。

「幽霊や魂なんて、存在するわけがない。人が生き返るなんてありえない」

 そう口にした瞬間、辺りの音が全て消え去ったような感覚がした。耳奥でキーン、と音が鳴っている。世界が私の言葉を拒絶しているかのようだった。科学の世界は、ついに死者蘇生をも内包するほどにまで発展したのかと錯覚してしまう。

「そうでしたか。では、暮葉さんはそれに近づくべきではないと思います。私が見たものは確かに異常でしたが、それは言い換えれば世界の片隅にある、この科学だらけの世の中に対する小さな反駁はんばくです。自分は幽霊も死者蘇生も魂も信じている、という意見を主張する戯言ざれごとのようなものでしたから。意に介する必要もないでしょう」

 いつの間にか目黒の声は前に話した時のような調子に戻っていて「長い時間を取ってすみませんでした」と話をまとめる。仰々しく頭を下げ、そのままきびすを返そうとする。

「いや、ちょっと待ってくれ。話は終わってないだろう」

 私が目黒の背中に声をかけると、彼女は立ち止まった。だが、決して振り返ることはなかった。

「どんな些細な異常であれ——いや、些細な異常こそ私には必要なんだ。たとえそれが信じられないものでも、私はきっと受け入れることができる。その覚悟ぐらいはできてるよ」

 目黒は申し訳なさそうな声色で、「あなたが読んでいた新聞の内容を見て——最初、あなたは非科学的な側面を信奉する人なのだろう、と思いました。でも、どうやら違ったみたいです。千駄咲神社へ行ってください。私が初めて古橋百音の名を目撃したのも、そこでした。あの異常な光景の中に彼女の名前は刻まれていました」と言った。

 千駄咲神社。何度この名前を耳にしたことだろう。もはや食傷気味になってしまったその名だが、今回は少し違う。

 千駄咲神社の幽霊と百音が繋がっている。薄々勘付いてはいたが、明確な根拠も何もなかった。だが、こうして第三者から明確に千駄咲神社と百音の繋がりを示されると、どうしても考えてしまう。百音が千駄咲神社の幽霊として蘇った、という可能性だ。そうなると、きっと御船もこの件に深く関わっているだろう。

「……情報提供、感謝するよ」

「はい。また何か困ることがありましたら、お気軽に新聞部のメールアドレスまでご連絡を」

 目黒はこちらを向かないままそう言い、図書館を出て行った。取り残された私は再び椅子に腰を下ろし、しばらく一点を見つめて頭の整理をしてから、司書に新聞のコピーを取れないか頼んだ。


 真音に見つかってはならないという条件の中で、私は探偵事務所に近づくこともできず、かといって辺りを散歩していてもすぐに見つかってしまうだろう。今最優先していくべきは千駄咲神社だったが、百音とあの場所に関連がある以上は真音とばったり遭遇する可能性が高いような気がしてどうにも行く気になれない。

 さんざん悩んだ結果、私は図書館のすぐ横にある方戸神社の境内で時間を潰すことにした。時間を潰せるほど何かできることがあるわけでもないが、基本的に無人の場所なので長居しても問題ないだろう、と考えた末の行動だった。

 ずっと千駄咲神社のような廃神社を見てきたからか、方戸神社の拝殿も賽銭箱も手水舎も、まるでモデルハウスのように奇麗に見える。いや、廃神社と比較しなくともこの神社はかなり奇麗だ。そういえば、千駄咲神社から御神体を移された比較的新しい神社だという話があった。

 だが、その新品さが返って奇妙に見える。神社とは軒並み昔からあって、その影響で風雨にさらされた跡や劣化が見られるのが普通だからだろう。新品の神社なんてなかなかお目にかかれない。

 加えて、この神社を奇妙たらしめているのは、人の気配が全くないことだ。御神体の移動がすんなりと通ったのも、もしかしたら信心深い住民からの反対の声などが一切なかったからなのかもしれない。

 そんな信仰対象になっていない神様は、いったい何を考えるだろうか。民俗ホラーのような物語であれば、怒った神様が民へ制裁を下すという展開が多いだろう。もしかしたら、七年前に起きた日慕山の地すべりも、私の記憶障害も、全て神様のせいだったりするのかもしれない。

 そんなことを考えている自分に私は呆れた。目黒の話の影響を受け過ぎだ、と一人で失笑した。

 ふいに、ポケットの中の携帯が小刻みに震えた。着信だ。

「暮葉、今どこにいる?」篤司の声は明らかに焦りを含んでおり、早口になっていた。

「方戸神社に」

「そうか、良かった。真音には捕まってないんだな?」

「捕まりそうになったが、もう大丈夫だよ。篤司は?」

「少しだけ残業をして、さっき会社を出たばかりだ。今から家に戻って真音を追い出すつもりでいる」

「一人で大丈夫?」

「暮葉が来たって事態は悪化するだけだからな」

 その通りだ。私が行ったところで解決するどころか、余計に探偵事務所から出て行くのを拒むだろう。しばらくの間、私はここで吉報を待つしかない。

「追い出すのに成功したら、また電話する。方戸神社で待っててくれ」

「分かった」

 通話を切ると、画面に現在時刻が表示される。十九時過ぎだった。図書館内でも聞こえていたヒグラシの声はめっきり聞こえなくなった。境内に電灯はない。辺りを暗闇と静寂が私を包み込んでいく。

 ふと、そんな静寂を打ち破るように携帯が震えた。今度は清水からだった。携帯を耳にあてがい、いつもの調子で応じる。

「やあ、清水くん」

 だが、聞こえたのは聞き覚えのない女の声だった。初めて探偵事務所に電話をかけてきた清水のように、声が少し震えているように聞こえる。

「あ、もしもし。すみません、うちの子の友人のくーちゃんって、あなたの娘さんでしょうか?」

 どうやら「くーちゃん」の母親だと思われたようだ。私がくーちゃん本人だと伝えると、その女——恐らく清水の母と思われる人物は小さく驚嘆の声を漏らした。それもそうだ。小学生の友人の中に成人女性が混ざっているなんて普通は考えられない。

「そ、そうでしたか。失礼しました。私、瞭大の母です。息子の携帯に電話番号が登録されていたので、そこから電話をかけています」

 言われなくても分かる、という言葉が喉から出かけたところで、私は思わず「え」と声を漏らした。今、何と言ったか。瞭大の母? なぜ清水の友人の名前がここで出てくるのだ。

「瞭大くん、ですか?」

「はい」

「失礼ですが、名字は清水で合ってらっしゃいますよね?」

「そうですが」

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