第21話

 暗がりの中、清水は私から慌てたように視線を逸らす。

「いや、言いたくないならいいんだ。たぶんだが、君は友人の瞭大くんがいじめられるのを見たくないのだろうね。もしも君の立場だったら、私もそうしていると思う」

 清水は口を結んだまま地面をじっと見つめている。

「君は優しい。誰にも迷惑をかけたくなくて、誰にも心配をかけたくなくて、一人で抱え込んでしまう。だからこそ、瞭大くんがいじめられているのを見て、君はまず——そうだね、両親のことを考えたんじゃないのかな。もし瞭大くんがいじめられているのを止めようとしたなら、今度は君がターゲットになってもおかしくはない。それでは両親に迷惑をかけてしまう。でも瞭大くんは助けたい。その葛藤の末、君は逃げることを選んだ。ここは君の隠れ家のような場所なのだろう」

 そこまで言ったところで、清水の表情がさらに暗くなっているのを見て私は慌てて首を振った。

「いや、責めるわけじゃないんだ。むしろ、私と君はどこか似ているような気がしてね。これは共感だ。私も逃げてしまったんだよ。何も知らなければ、何もしなければ幸せだと、そう思い込んでいたんだ」

「……でも、暮葉さんは逃げてるように見えないです」

「今の私は、逃げたって幸せになれないと気付いてしまったからね」

「だったら!」

 清水が声を荒げる。怒りや悲しみをどうにか抑え込み、それでもなお感情的になってしまったような、そんな悲痛に満ちた声だった。

「僕は、どうすればいいんですか? 僕には、もう、何も分からないんですよ。正直、分かってるんです。どれだけ幽霊の存在を証明しようとしても、疑われたままだって。もう、どうしようもないんです」

 清水がしゃくり上げ始める。静かな体育倉庫の暗闇に、鼻をすする音と咽び声だけが浸透していく。

「分かっていると思うが、私から君に『こうするべきだ』とか言うことはできないよ。私は探偵だ。できる限りの情報を集めて、清水くんに渡す。それをどう使うかは君次第だし、正直、君がその情報をどうしようが私の知ったことじゃない。だが——そうだね。まだ完全に取り返しがつかない訳じゃないんだよ。君はまだ友人を助ける選択肢を取れるし、私だってもう二度と過去を思い出せないわけじゃない。私からしいて言えることがあるとすれば、重要なのは意志を持つことだ。誰も君を非難しないし、邪魔しない。かといって君を手助けするわけでもない。君が信じられるのは君の意志だけだよ」

 まるで説教のような言い方になってしまったが、これは自分に対する言葉でもあった。少し前の私が、きっと今の清水だ。殻にこもったまま、どうすればいいのか分か

らずに葛藤している。もし彼がこのままだったら、私が百音だったときのように全てを捨てて逃げてしまうだろう。

「でも、どうやって意志なんか持てば」

「君は今、どうしたい? 心の底から思ってることを口にしてみるといい」

「僕は……もう何もかも嫌です。今すぐに逃げ出したいです。友だちのことも、親のことも、どうせ僕にはどうすることもできない。僕が普段からどう生活してるか知ってますか? 勉強か睡眠か食事。これだけです。僕にできることはこれだけなんです」

 清水は吐き捨てるように心中を吐露する。

「そうか。ならそうするといいさ。それが君の意志なんだろう」

 私がそう言うと、清水は不意を突かれたように「え」とだけ声を発した。

「ただ、もしも今、君がやりたいことを肯定されたのにも関わらず、だ。心のどこかで『でも』という言葉が一瞬でも出てきたのなら。あるいは胸が、ずん、と重くなる感覚があったのなら。それは君が望んでないことだ。もっと素直に、正直に生きてもいいと思うよ」

「でも——」

 赤い、わずかに潤んだ瞳で私をじっと見つめたところで、自分が「でも」と口に出したことに気が付いたのか、そこで彼は口をつぐんだ。

「ほら。君は今相反する二つの意志を持っているんだろう。天秤にかけてみるといい。どちらが君にとって大切で、本当にやりたいことかな」

「僕は」

 清水はそう呟いてから、唐突に扉の方を見た。その目はいまだ涙ぐんでいるが、ただ後悔や悲しみをはらんでいるだけではなかった。

「教室、行ってきます」

 私は彼の言葉を聞いて頷き、それからにっこりと笑みを浮かべて、

「ああ。いってらっしゃい」

 とだけ言って清水を見送った。スライド式の重い両開きの扉が開かれ、蝉の鳴き声が響く光の中へ清水は足を踏み入れた。

 いやに眩しく感じた。

 清水が扉を閉じ、再び辺りは静寂と暗闇に包まれた。私の心の中ではどこか爽やかな達成感と、無責任すぎるのではないかという罪悪感が入り混じっていた。

 清水のこれからなんて、私には分からない。彼がやはりまだ尻込みしてしまう可能性だって十分にあるし、あるいは本当に有言実行してしまうかもしれない。どちらにせよ、結局は当人次第だ。私にできることは彼の意思を尊重してあげることだけ。

 そう。当人次第なのだ。では、私は過去を知るためにどうするべきか。真音や御船に会ってはいけないし、篤司にも訊けそうにない。

 そういえば、百音は転落事故で死んだと言っていた。図書館へ行き、当時の地方紙を読む必要はありそうだ。今から行くと見つかりそうだから、しばらくここに身を隠して夕方になったら行こう。


 西日が窓から差し込み、古ぼけた机や日焼けした本の背表紙がオレンジ色に染まっている。先ほどまでいた体育倉庫と同じくらい静かで、わずかに咳払いや司書がパソコンを打つ音、老人が乾いた指先でそっとページをめくる音などが聞こえる程度だ。図書館の隣には木々に囲まれた方戸神社があり、そのせいかずいぶんとヒグラシの声が大きく聞こえる。

 ネットで調べてみると、七年前に来た台風十七号は九月四日にこの辺り一帯に上陸し、記録的な豪雨が観測されていた。名古屋市では広範囲に冠水が見られ、東海道新幹線やJR在来線も運休や運転見合わせが行われたそうだ。となると、転落事故はそれ以降の日付となるだろう。

 司書へその頃に転落事故はなかったか訊ねたところ、「少々お待ちください」と言って奥の資料室らしき部屋へ引っ込み、十数分ほど経ってから一枚の新聞を手にカウンターへと戻ってきた。それは九月六日の新聞だった。

 感謝を述べてから机に向かい、一面を見てみる。すると、右下にそれらしき記事があった。見出しには「朝撒町で女子中学生転落事故 自治体の対応に非難の目」と書かれていた。これで間違いないだろう。

 そして、読み進めていくうちに私の体が芯から冷たくなっていくのを感じた。冷房のせいではない。記事の内容に体が反応し、恐怖を覚えているのだ。

 事故で亡くなったのは古橋百音。享年十四歳。これは間違いなかった。生きていれば私と同じ年齢だ。その後には長々と近隣住民への取材の文言が書かれていたが、これは正直、あまり重要ではなかった。

 結論から言って、転落事故に遭っていたのは二人だった。

 一人は亡くなった古橋百音。もう一人、一緒に転落しているのだ。

「一方、同じく崖から転落していた長谷川暮葉さんは命に別状はなく、気を失っていたもののすぐに意識を取り戻した。四肢に骨折や打撲などは見られたが、医師によれば二、三か月ほどで退院できる見込みだそうだ」

 新聞にはそのような事実が淡々と書かれていた。視界が大きく揺れ、眩暈のような症状を引き起こしている。胃をぐっと握られるような不快感に襲われ、強い吐き気を覚える。これ以上文字を読むこともままならない。頭がどうにかなりそうだった。

 もちろん、私の記憶にそんな出来事は一切存在しない。御船によれば記憶は喪失するわけではなく、単に思い出せなくなるだけだそうだが、やはりどうしても思い出せそうにない。それなのに、私は今にも吐きそうになっている。一刻も早く横になりたいと願っている。

 私と百音はいったい、何をしていたのだろう。記録的な大雨の後に山に近づくなど——ましてやこの新聞の日付は六日だ。きっと地すべりが起こっていることも知っているはずで、近づくことすら禁止されているはずだ。それを無視してまで私と百音は日慕山へ、何をしに行っていたのだろう。

 ひとまず、これは重要な資料だ。どんなに気分が悪くなる呪物のようなものでも、私はこれを手がかりに前へ進まなくちゃいけない。清水に対してあのように言った手前、私は足を止めてはならない。

「あれ、もしかして暮葉さん、ですか?」

 ふと顔を上げると、そこには分厚い本を三冊ほど手に持っている制服姿の目黒がいた。顔の左半分に広がる火傷跡を隠すように、窓から差し込む夕日が影を作っている。彼女の抱えている本には、どの背表紙にも「今邑彩」の名が刻まれている。彼女は相変わらず貼り付けたような笑みを浮かべ、こちらを観察するようにじっと見つめていた。新聞部の性なのだろうか。

「こんなところで」目黒は机の上に本を置き、話を続ける。「いったい何を——新聞、ですか」

 彼女の表情がどこか曇ったようにも見えた。

「ああ。少し、気になったことがあってね。七年前に日慕山で起きた転落事故だ。そこの被害者が」古橋百音の名前に指差す。「どうやらこの子は私の旧友のようで」

「古橋、百音……なるほど。それでこの図書館に。納得しました」

「そういえば、君も児玉くんと同じように新聞部だが、何かこの事故とか、あるいは古橋百音自身について何か知っていることはあるかな?」

 正直に言って、あまり期待はしていなかった。だが少しでも情報を引き出せそうな手がかりがあれば、私は藁にもすがる思いでそれに頼る必要があるのだ。

「そう、ですね」

 目黒は明らかに懊悩おうのうとした表情を浮かべていた。あまり自分でも信じられないが、目黒は何かを知っているに違いないと、探偵としての勘がそうささやいていた。

「何か知っていそうだね」

「まったく知らないと言ったら嘘になります。ですが、もちろん古橋百音さんと会ったことはありません。ただその名前をこの目で見たことがある、というだけで」

「それは新聞で、かい?」

「いえ。とある場所です」

「どこかな? 教えてもらえると助かるんだ」

 そう言うと、目黒は苦笑いを浮かべながら机の上に置いた本をおもむろに抱える。今すぐにでもここから立ち去りたい、といったような具合だった。

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