第20話

 私はゆっくりと横に歩き、外へ続く扉に近づく。

 ——逃げ出さなくては。

「駄目よ、百音。逃げないで。私と海に行きたいでしょ?」

 真音の声には一切耳を貸さず、私は後ろ手に扉の鍵を開けドアノブをひねり、勢いよく押した。

 ——開かない。扉の向こうにつっかえ棒のようなものがあるのか、ガタガタと揺れるものの開く気配が一向にない。パニックにならないようどうにか落ち着こうとするが、ただ呼吸が荒くなるばかり。

 真音の方を見ると、先ほどまでの笑みを更に深くしたような、邪悪とも呼べる笑みを浮かべていた。

 真音の仕業だ。最初からこの事務所は密室だった。逃げるとすれば、窓からだ。

 私は扉から離れ、窓の方へ向かおうとする。

「百音さん。あなた、中学生の頃に事故に遭いましたよね。あなたを乗せた車が、居眠り運転をしていた車と正面衝突。後部座席に乗っていた百音さんは、重篤の後遺症を負ってしまった——下半身不随ですよ」

 その瞬間、私は体勢を崩して勢いよく床に倒れ込んだ。足に力が入らない。上手く動かせない。

 そうだ。思い出した。私は——百音は、あれからずっと車椅子で生活していたんだ。

「記憶にはなくとも、あなたの中にある百音さんの魂にはしっかりと刻まれていたようですね。魂だけは嘘をつきませんから」

 御船が不敵に笑う。

 ——いや、違う。私は暮葉だ。さっきまで歩けたのに急に下半身不随になるわけがないだろう。これは御船の仕業だ。今の私は前のように大きく動揺している。いつ百音の人格に変わってもおかしくない私にそう言うことで、自由を奪うつもりだ。

 だが体は上手く動かない。まるで自分の足だけ別の生き物になってしまったような、妙な感覚が襲う。

「ようやく思い出せたのね。お姉ちゃん、嬉しいわ。そう。あなたはずっと車椅子で生活していたの。だから砂浜を歩けなくなっちゃったのよ。あなたの魂に残っている記憶が、あなたの行動にセーフティロックをかけてただけ」

 私は床に伏した状態で、二人を睨むように見上げる。

 ——怖い。怖いが、まだ私が暮葉であるうちに情報を引き出さなくては。

「だったら、なんで前までの私は歩けてたの」

「百音の魂はね、暮葉の体に乗り移ったのよ。安心して。大丈夫。あなたは歩けるわ」

 その時だった。部屋中に乾いたノックの音が二回だけ響いた。

 ——私は、このノックを知っている。ノックは三回という当然のルールを知らずに探偵事務所を訪ねる人物など、私が知る限りでは一人だけだ。それに、真音は彼を知らない。

 以前と同じく、まるでお化け屋敷に足を踏み入れるかのようにおずおずと少年が入って来る。彼は床に倒れ込む私を見て目を白黒とさせた。

「え……暮葉さん?」

 清水がその名を口にした途端、私の膝がわずかに曲がった。

 私は思い切り立ち上がり、清水の側に駆け寄って彼の手を取った。

「百音っ!」

 真音が気圧されそうな剣幕で怒鳴る。だが、不思議と恐怖はなかった。今の私には、私を暮葉として正しく認めてくれる人間がいる。それだけで私は立ち上がることができる。

「すまないね、真音。君の妹はどうやら反抗期だったみたいで、昨晩にはもう引っ込んでしまったよ。今の私は正真正銘、長谷川暮葉だ。清水くんもそう認めてくれている」

 私はうっすらと笑い、そのまま清水と一緒に扉から外へ出た。背後からもう一度百音の名を呼ぶ声が聞こえたが、私は振り返ることすらせず探偵事務所を離れていく。当てはないが、とにかく遠くまで——真音の声が聞こえなくなるまで逃げなくてはいけない。

 ただひたすらに走る。走る。蝉の鳴き声が、まるでマラソンの歓声のように響いている。

「ちょっと、待ってください……!」

 清水がそう言ったのを耳にして、ようやく私は足を止めた。

「あ……ああ、すまない。少し気が動転していて」

 清水は肩で息をしながら、膝に手をついている。ふと辺りを見渡すと、そこは見覚えのない場所だった。いつの間にやら見知らぬところまで来ていたようだ。

「昨日の夜から、なんか変でしたよ。僕が電話しても『間違えてる』みたいなこと言われましたし」

 清水が私の顔を心配そうな目で見つめる。私はどうにか表面を取り繕うように笑みを浮かべ、

「いや、もう大丈夫だよ。私は暮葉だ。——ああ、そうか。なんで君がうちの事務所に来たのか分からなかったが、もしや心配して来てくれたのかな?」

「当たり前じゃないですか。僕らは友だち、ですよ」

 清水は当然のことのように言ってあっけらかんと笑う。この無邪気な言葉に私の心はいくらか救われたような気がした。

 ——友だち。真音が必死になって追い求めている百音という子も、私の友人だった。清水が私に対してそう思っているように、彼女もきっと大切な友人だったのだろう。

「その、暮葉さんに訊きたいことがいくつもあるんですが……あの部屋にいた二人って、探偵事務所の人ですか?」

「ああ、いや——何て言うんだろうね。端的に言うなら、私を邪魔する敵、みたいな感じかな。君は私に依頼をくれたが、あの二人はそれを邪魔するんだよ」

「邪魔を? なんででしょう」

「……私に、どうしても知られたくないようで」

 そうだ。真音も過去の出来事について、私の中にいる百音の人格に教えることをためらっていた。百音に思い出してほしくない過去でもあるのだろうか。

 真音は、百音に思い出してほしくない過去が。篤司は、私に思い出してほしくない過去が。それぞれ何かを抱えて、暮葉と百音の二つの人格が内在している「私」の自由を奪おうとしていたのだろう。

「何をですか?」

「それはまだ分からない。そのために私は色々と調べなきゃいけないんだ。過去の私に何があったのか」

「そうだ。あの使われてない神社の幽霊の調査って、どうなりましたか?」

「ああ、そうだ。その件なんだが、さっきも言った通り私はずっと真音に軟禁状態で——いや、あの時は私の意思で残ってたんだが……説明が難しいね」

 私は今まであった奇妙な出来事を全て赤裸々に打ち明けた。自分の存在が曖昧になっていったことから始まり、百音という別の人格が私の中に生まれたこと、百音は実際にいた人物であり、姉の真音は百音としての私を留めようとしていたこと。こうして物語のように口にしてみると、まるで悪夢で見た内容のような話だと改めて実感する。

「じゃあ、あの二人って」

「椅子に座ってた民族衣装っぽい服を着た方が百音の人格を作る手段を知っている御船三途で、その側に立っていたのが真音だ」

 清水は首をすくめ、「いつの間に暮葉さんは、そんな」と呟いた。

「とにかく、今の私は追われている身なんだ。真音にも御船にもまったく見当のつかない場所に逃げなくちゃいけない」

 きっと真音は私を血眼で探すだろう。この前会った喫茶店も、千駄咲神社も、篤司の職場も、全部確認されるに違いない。

 迷惑はかけたくなかったが、ここは清水に頼るしかないかもしれない。真音にとって清水は、突如として現れた予測不可能の変数だ。

「だったら——そう、ですよね。逃げないとですよね」

「ああ。二人に見つからない場所にね」

 こんな言い方しかできない自分に少し嫌気がさした。協力してくれと、しかも小学生相手に遠回しに懇願しているのだ。私はどこまで卑怯者なのか。

「なら——ああ、どうしよう」

「どこか、いい場所が?」

「いい場所かはちょっと分かりませんが——でも、絶対に真音という人が予測できる場所ではないと思います」

「どこかな?」

朱浦あけうら小学校です。僕が通ってる」

 最初は妙案だと思った。しかし、小学校に侵入する私を想像して、通報されやしないか、という不安が募り始めた。

「僕に任せてください。誰にも見つからずに小学校に入るのは得意、なんです」

 清水の表情に一瞬だけ影が差したが、すぐに明るい顔をして私に笑みを浮かべた。

「どうでしょうか?」

 私は清水の言葉に答えないまま、しばらく思い悩んでいた。だが迷ってもらちが明かないと判断し、私は小さくうなずいた。

「そうしよう。ここで二の足を踏んでたってどうしようもない」

 私はしきりに周囲を気にしながら、清水と共にバスに乗り込み、朱浦方面へ向かった。バスに揺られながら、私は遠くでゆっくりと動く鉄塔の頂点を見つめていた。なんだかずっと現実感がない。私が経験しているはずなのに、まるで劇を見ているような気分だった。

 私は清水に目をやった。清水は疲れて寝ているようだった。いつもは小学生らしからぬ思考や態度を見せているが、やはりこういう時は子どもなのだなと感じる。

 ふと、清水の腕にあざがあることに気が付いた。半袖に半分隠れているが、明らかにぶつけたり転んだりするだけではできない痣だ。

 ——『パパもママも、僕にあんまり興味ないから……』

 私は目頭が少し熱くなるのを感じた。清水もずっと苦しんでいるのだ。なぜ今日は平日なのに、清水は学校へ行っていないのか。なぜここまで私を友人と認め、私を心配してくれているのか。

 きっと親からの重圧と虐待に耐えかね、逃げ出したくなってしまったのだろう。清水にとっての友人とは、唯一の心の支えだ。

 清水の分もしっかりしなくては。重要なのは、忘れてしまったことを思い出すことだ。現実を現実としてしっかり受け入れることだ。


 しばらくして、清水は私を連れて朱浦小学校の校庭に建っている小さな小屋の裏側まで来た。

「今はお昼過ぎですよね。だとしたら、この後は五時間目です。最近知ったんですが、五時間目はどこのクラスも体育がないんですよ。だから、この体育小屋を使う人がいないんです。六時間目はないから、ここは午後から安全地帯になります。ここであれば真音さんから逃げられると思います」

「開いているんだ。よく知ってるね」

「……僕は聡明そうめいですから。何でも知ってますよ」

 私は笑みを浮かべながらうなずき、

「そうだね」

 とだけ言った。

 暗い体育倉庫の中。どこか懐かしい、少しカビのような臭いがする。あんなに騒がしかった蝉の声も、あんなに煩わしかった太陽も、ここにいるとまるで全てがなかったことのようだ。くぐもったチャイムが聞こえる。

 予想はしていたが、やはり。

「暇だね」

 そんな言葉を思わず口にすると、清水は小さく笑った。

「少し雑談でもしようか。どうして君は学校に行きたくないんだい? いや、確かに今の私たちは学校の敷地内にいるのだが」

「あ、え……」

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