第19話
真音からすれば今の私は死んだはずの妹、百音である。もし暮葉としての対応をすれば、彼女は本当に気が狂ってしまうのではないだろうか。確かに彼女は私の自由を奪おうとしたが、決して悪であると断罪することは、私にはできない。彼女の気持ちも分かるからだ。
私はこの仮初めの平穏を保たなくてはならない。少なくとも真音の前では百音として振る舞う必要がある。幸いと言うべきか、私は心にある
「おはよう、百音。ずいぶんと長く寝てたわね」
階段の方から聞こえる真音の声を聞いて、私は時計を見た。既に十時半を過ぎている。篤司はもう仕事に行ったのだろう。
「おはよう、真音お姉ちゃん」
「今日は何がしたい?」真音は私の耳元に口を寄せ、明るい声で囁く。「今日は篤司の帰りが遅いんだって。だから何でもできるわよ」
篤司の帰りが遅くなる理由を、暮葉である私は知っている。彼はあの名刺にあった御船三途という人間に電話をかける予定なのだ。
私はにっこりと笑って、「お姉ちゃんとなら何でも」と言った。
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。そうね――でも、あんまり外には出たくないのよね。ずっと外にいて日焼けするのも嫌だし。今日は普通に家でゆっくりしましょ」
私はほっとした。むしろ好都合だ。出かけないとなると、真音との会話が増えることになる。もしかしたら百音の過去を知る絶好の機会になるかもしれない。私がそれを知らない以上、百音のフリをするのが難しいという懸念点はあるが、それでもなお余りあるほどの有益さが真音との会話にはあるだろう。
「いいと思う」
百音だった頃の私の言動を思い出しながら、私は百音を装って会話する。
「ところでさ、百音。私の髪の毛が落ちてたんだけど、何か知らないかしら?」
真音の言っていることがよく分からなかった。「何か知らないかしら?」とは、ずいぶんと意味不明な質問だ。普通に生活していれば髪の毛の一本や二本くらいは自然に抜けるだろう。
「あ、いや。ここじゃないわよ。あっち」
真音は事務所の扉を指差した。
——まずい。何かがまずい。不穏な空気が漂っている。
「足元、見て」
私はおずおずと真音の指差す扉に近づき、床に目を凝らす。
昨晩は少しでも物音を立てないように電気を点けないままこの扉を開けた。だから分からなかったのだ。
地面には電灯の光を受けて細い一本の糸が輝いて——いや、糸じゃない。これは髪の毛だ。
「扉の上の方に挟んでおいたんだけど、誰よりも早く起きて確認したら落ちてたのよ。つまり私が寝てから誰かがそこを開けたってこと——ねえ、何か知らないかしら?」
真音の声が少し低くなっている。彼女の方を振り返れない。
十中八九、バレている気がする。いや、まだ強い疑念を抱いている段階だろうか。どちらにせよ、私はどうすればいい? 今からここを逃げ出すか? いや、まだ真音から百音の過去を引き出しておきたい。ここは引き続き百音のフリをし続けよう。
「知らないよ」
「……そう。ならいいの。たぶん、風とかで落ちたのかもしれないわね」
「少しシャワー浴びてくるね」
「あら、出かけないのに?」
「うん。なんか入りたくなって」
少しでも真音と一緒にいる時間を減らしたい、という思いが強くなっていた。
「そう。じゃあまた着替えとかは私が用意しておくわね」
「うん、ありがとう」
私は逃げ込むように脱衣所に入り、服を脱いだ。この腕の傷ももう何度も見たから慣れ始めている。むしろこの傷跡を見ると安心感すら覚えるようになった。これも長谷川暮葉としての証だ。
熱湯が地面のタイルに当たる音を聞きながら、私は思いを馳せる。もし真音に私が暮葉だということがバレてしまった場合、手助けしてくれる人間はいない。これは私一人の戦いだ。
おそらく、今の私は疑われている。誤魔化すのもいつか限界がくるだろう。今日中にバレてもおかしくはない。どうごまかすかより、バレたらどう逃げるか考えるべきかもしれない。
「ここに服、置いておくから」
脱衣所から明るい真音の声が聞こえる。私はそれに返事をした後、少し間を置いてからシャワーを浴びるのをやめ、全身の水滴をバスタオルで拭ってから真音の用意してくれた服に着替える。
この服、全く合わないというほどではないが、少しサイズが小さいようだ。それに、少なくともうちにある服のデザインでは——
そうか。おそらく、これは百音の服なのだ。
つくづく気味が悪いと、つい思ってしまう。真音は危害を加えようとする敵ではないのだから、彼女にも歩み寄らなくてはならないはずなのに。
私が脱衣所を後にすると、ふと革張りのソファに座っている一人のふくよかな女と目が合った。その隣には真音が立っている。
その女はまるでアラビアの民族衣装のような、
いやに厚化粧で、不気味なまでに白い肌に赤いリップが浮いて見える。両手首に数珠のようなブレスレットを身に付け、窓の外から差す日光を反射してきらめいているネックレスを首からぶら下げている。中央の赤い宝石は本物だろうか。ヒジャブのようなものを被っているので髪型までは分からない。だが、少なくとも探偵事務所の客人には見えない。どちらかというと胡散臭い占い師のような——。
そこまで考えて、ハッとした。それと同時に、私が百音ではなく暮葉であることを看破されているに違いないと、なかば確信した。早朝に扉に挟んだ髪の毛が落ちていたのを確認してすぐに呼んだのだろう。もしくは、彼女は言っていないが、名刺がなくなっていることに気が付いたのだろう。
もしそうだとしたら、私は今すぐここを抜け出さなくてはならない。
「遅かったわね」
真音は相変わらず目を細めている。前まではあんなに柔和で優しい笑みだと思っていたものが、今の私の目にはひどく醜く映る。彼女の笑顔は、ここまで見るに堪えないものだっただろうか。
視線を座っている初老の女に移す。彼女もまた穏やかな笑みを浮かべている。何事にも動じなさそうな、そんな気丈夫さを感じる。
「あ、紹介するわね。この人は御船三途さん。心理カウンセラーよ。昨日、海へ行ったでしょう? その時からあなたの様子が変だったから、呼んだの。もしかしたらあなたが心に何か深い傷を負っていて、そのせいで海を楽しめなくなってるんじゃないかって。私もね、正直あなたには何も知らないままずっと幸せでいてほしかったの。でも、やっぱり海には行きたいから」
こんな見た目の心理カウンセラーがいてたまるか、と悪態をつきたかったが、それどころではなかった。百音の過去を知ることは私にとっての前進だ。しかし、私が百音を知るということは、同時に百音への理解にもつながる。また暮葉の人格が眠りにつき、百音の人格が出てきてしまってもおかしくはない。
きっとこれは最悪の展開だ。真音だけだったら百音を知ることは価値のある行為だったが、人格を作り上げることのできる可能性がある御船が来てしまっては話は別だ。私はまた私を見失ってしまうかもしれない。
「初めまして、百音さん。私の名前は御船三途です。真音さんから話は伺ってます」
御船はうやうやしく頭を下げる。見た目に反して礼儀正しいその態度を見て、少し彼女への警戒心が薄れてしまうのをどうにかこらえる。
「なんでも、砂浜を歩けなかった、と。きっと心のどこかに引っかかりがあるのでしょう。簡単に、どんな情報でもいいので、あなたの過去を私に話していただければ。そしてそれを解決すれば、きっとあなたは簡単に歩けるようになるはずです」
二人分の瞳が私をじっと見つめている。カウンセリングとかいう名目を用意すれば、私が百音であるかどうかを自然と試せるというわけだ。
だが、そもそも私が海に行ったという出来事を思い出せない。薄々勘付いていたことだが、どうやら百音として動いている時の記憶がかなり曖昧——というより、ほとんど思い出せない。
「大丈夫よ。ゆっくりでいいの。焦らずに、あのことを思い出して」
私はぐっと唇を真一文字に閉じたまま、御船の顔を見つめ返す。
私は百音についてまったく覚えていない。「あのこと」と言われたところで何か答えられるわけではない。私は記憶喪失なのだから。
「——あなたは記憶喪失という建前を用意することで、記憶を探らないようにしている。そうですね?」
御船にそう言われた途端、私の心臓はドクン、と跳ねた。全身が力み、視界がわずかにブレる。妙な離人感を覚える。落ち着かなくては。なぜ動揺する必要がある? 私に記憶はないのだから、何も思い出せないのは当たり前のはずだろう。
「無理もありません。……真音さんが、篤司さんから聞いたそうです。自動車事故に遭ったのに脳に何のダメージもなかった、と。ですが、あなたは現実問題として記憶を失っている——いえ。そもそも、失っているという言葉自体が間違いと言っていいでしょう。記憶が失われることなどありません。記憶はずっとあなたの中にあるものです。ただ、それを上手く思い出せないだけなんです」
御船はそう言うと机の上に両肘を乗せ、顔の前で指を組み合わせる。彼女の瞳の色がより一層深く、暗くなったように見える。
「そうですね……井戸に例えてみましょうか。あなたの目の前に井戸があります。古典的な、桶で水を汲むタイプのつるべ井戸です。井戸の中にある水を記憶とします。あなたは普段、つるべを底に下ろし、記憶を取り出しています。記憶障害の多くは井戸でいうところのつるべ——つまり、記憶を取り出すための手段を失うのです。記憶自体を失うわけではありません。けれど、あなたの場合は更に特殊です。つるべもあるのです。ただそれを、『この井戸の中の水には毒が混じっている』だとか『この井戸につるべなんて付いてない』だとか、そういった理由で水を汲まなくなっているのです。私たちの仕事は、『水に毒なんて入っていない』とか『よく見て。この井戸につるべは付いてるよ』と教えてあげることです。そして、手を取って一緒に水を汲み上げる。私の言葉一つで、あなたは記憶を取り出せるようになる可能性だってあるのです」
言葉自体はカウンセリングらしい優しいものだったが、私にはまるで脅し文句のようにしか聞こえなかった。そして、それを真に受け動揺している自分もいた。手がひどく震え、指先が痺れている。自分が上手く呼吸できているのかすら分からない。これ以上ここにいたら頭がおかしくなりそうだった。
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